陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 深夜、灯火の揺れる書斎で筆をとっていた不知火のもとへ、星子がそっと訪ねてきた。
「どうしましたか。眠れませんか」
「不知火さまに、ひとつ調べていただきたいことがあります」
「何を調べてほしいのですか」
 不知火が筆を置き、星子のほうを向いた。
「今から四、五年ほど前、京の貴族の家から、若い男性がいなくなった事件をご存知ないでしょうか」
「失踪事件はあった気はするが、貴族の男性の件は覚えていない」
「名前は橘千歳《たちばなちとせ》で、当時十九か二十歳ほど。あの霞若はまだ十五歳の少年ですが、どうも彼の感じが千歳さまとよく似ています」
「星子は、つまり、あやかしが彼に乗り移っている可能性があると考えるのですか」
「はい。それを確かめたくて、関白の出かける先に何度か足を運んだのですが、霞若本人には会えなくて。警護がたくさんいて、近くに寄ることもできません」
「そういう理由で、彼が現れる場所に通っていたのですか」
「ご存知でしたか」
「知っていますよ。叫んでいたという噂もあります」
「はい。千歳さま、と大声で呼んでも、聞こえていないみたいで、何の反応もありませんでした」
 不知火がふと、式典の日のことを思い出したように言った。
「ああ。だから、最初に舞台で彼を見た時、あんなに驚いていたのだね。その青年かと思って」
「舞台で彼を見た時、私がどんなに驚いていたか、わかりました?」
「それはわかりますよ。あの時、あなたは私の腕を全力で叩いたのですから」
「私、そんなことしました?」
「てっきり、彼の美しさに興奮したのかと思ったよ」
「何をいわれるのですか。私はもう人妻ですよ。そういうことをすると思いますか」
「いや……」
 不知火が言葉を濁した。
「もともときれいな人でしたけれど。その千歳さまという貴公子が、うちの塀の穴から私を見て、この魅力にほれぼれして、和歌を贈ってくれたことがありました」
「何て言いましたか。誰が誰の魅力にほれぼれしたと?」
「千歳さまが、私の魅力にですけれど。それって、おかしいですか」
「いや」
 不知火は少し照れたように目をそらし、頬をわずかに赤らめた。
「十九や二十歳では、星子の魅力はきっとわからないだろうと言っている」
 普段甘いことを言わない人が、突然こういうことを言った。星子は驚いて、言葉が出なかった。間違って聞こえたのではないかと疑ってしまう。
「不知火さま、それ、もう一度言ってみてください」
「どこですか」
「魅力のことですよ、私の」
「何か言いましたか」
「もうっ」
 星子は懐から一枚の懐紙《かいし》を取り出し、差し出した。
「風吹いて なずなそよげば 君見つつ 胸うち騒ぎ 言葉出でずも 橘千歳」
 風が吹いて、ペンペン草が揺れると、あなたを見ながら、胸が騒いで、言葉が出ません。
「千歳さまから贈られた歌ですよ。よい歌でしょ?」
「そうかな」
「私を見ると、胸が高鳴るんですって」
「和歌はよくわからない。漢詩ならわかるけど」
「それは残念です。よい歌なのに」
 不知火は懐紙を手に取り、しばらく眺めていた。その目が、歌を読んでいるのか、それとも別の何かを考えているのか、星子にはわからなかった。
「星子は和歌がほしいのかい」
「別に。うちの庭、ナズナがたくさん生えているんですよ。よく見てくださっているなと感心しました」
「ナズナは雑草だろう」
「そうですけど、おひたしも和え物も汁物も美味しいんですよ。お餅にもできますし」
「星子のナズナ料理は、食べてみたいな」
 不知火がふいに上目遣いにそう言ったのがかわいらしくて、星子は思わず微笑んだ。
「初めてですね、そんなこと言われるの」
「カブトムシより、いい」
「不知火さま、記憶力はよいですね」
「あなたの言ったことは、忘れませんよ」
「不知火さまって、時々つらっとして、刺さること言われますよね。今夜は連発です」
 星子はじんわりと温かい気持ちになりながら、しかし表情を隠すように少し目をそらした。
「それより、和歌の続きを聞かせてください」
「この歌が届いたあと、私、返歌を用意して待ってたんです。でも、彼は二度と姿を現しませんでした」
「わかりました。では、橘千歳のこと、調べてみましょう」
「ありがとうございます。また断られるかと思っていました」
「どうしてですか。あなたに頼まれたことで、断ったことはないでしょう」
「そう言えば、そんな気がしますが、かわされている気もします」
 不知火が少し眉を動かした。
「あのことを言っていますか」
「何のことですか」
 と星子がそっぽを向いた。
「あれは、すべての丸印の箇所を封印してからと、あなたが言いましたよね」
「私がそれだけを望んでいるような言い方はやめてください。それよりも、日々の小さなことが大事なのです」
「どういうことですか」
「説明しなくてはわからないところが、残念です。不知火さまは関白が霞若を見る情熱的な目付きを見ましたか。ああまでしていただかなくても結構ですが、もう少しは心を表してくださっても、いかがなものかと」
「そういうの、面倒くさくないですか」
「それは、あなたが面倒くさいと思っているから、他の人もそうだろうと考えてしまうのですよ」
「そうですか。どうしてでしょうか」
「それは、あなたが愛というものを知らないからですよ」
 不知火が少し黙った。
「……知っているつもりですが」
「私に言わせると、知っていません」
「どうすれば、わかりますか」
「それは心から自然とあふれ出るものですから、わからなければ仕方ありません。諦めてください」
「諦めるのですか」
「諦めても、死にはしません。では、私がここにいてはお邪魔でしょうから、今夜はこれで失礼します」
 そう言って、星子は立ち上がり、静かに書斎を出て行った。
 残された不知火は、しばらく灯火を見つめていた。
 どこかで間違って答えてしまったような気がする。いつも誠意を尽くしているつもりなのだけれど、なかなかうまくいかない。
 いやいや、今はそんなことを考えている場合ではないと、不知火は書物に目を戻した。
 しかし筆を持った手が、なかなか動かなかった。
 ……こういうところが問題なのだろうか。
 灯火がゆらりと揺れた。書斎に、静けさだけが残っていた。