その朝、鏡が星子の部屋にやってきた。
いつもの茶と菓子を持って入ってきたかと思うと、そのまま隣に座り、意味ありげな顔をした。
「星子さま、少々、ご相談がございます」
「何ですか」
「実は私、ひとつ調べたいことがございまして」
「また、誰かの尾行ですか」
「今回は尾行ではございません。聞き込みでございます」
鏡がそう言って、懐から一枚の紙を取り出した。そこには、いくつかの地名と人名が書き連ねてあった。
「これは」
「不知火さまのお父上、心之丞さまの消息についての手がかりでございます」
星子は思わず体を乗り出した。
「鏡さん、これをどこで」
「あちこちで、少しずつ集めました。私の尾行と聞き込みの腕を、甘く見てはいけませんよ」
星子は紙を受け取り、丁寧に読んだ。
賀茂家を勘当された心之丞は、京を追われた後、一時期、丹後《たんご》の国に住んでいたという記録があった。その後、消息不明になっているが、丹後で世話になった家の者が、今も京に住んでいるという。
「この人物に会いに行けば、何かわかるかもしれません」
「でも、不知火さまには」
「黙っていましょう」
鏡がきっぱりと言った。
「もし何もわからなければ、知らせる必要もありません。でも、何かわかった時には、不知火さまにお伝えすればよいのです」
星子は少し考えた。不知火はこの話を「二度と聞いてはならない」と言っていた。しかしそれは、自分が傷つくことを恐れているからではないか。知ることで何かが変わるかもしれない。いや、知らないままでいることのほうが、ずっと重い荷物を背負わせることになるのではないか。
「では、参りましょう」
星子が立ち上がった。
*
鏡が調べた人物は、京の西、壬生《みぶ》のあたりに住む初老の女性だった。名を里《さと》といい、もともと丹後で農家を営んでいたが、夫が亡くなってから息子夫婦を頼って京に出てきたという。
星子と鏡が訪ねると、里は縁側で豆を選んでいた。小柄で、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。しかし目は澄んでいて、人のよさそうな顔をしていた。
「突然、申し訳ありません。少し、お話を伺いたいのですが」
里は星子と鏡を見て、少し驚いた顔をした。それから、どうぞと言って、中に招き入れてくれた。
茶を出してもらいながら、星子はゆっくりと話した。賀茂家のこと、不知火のこと、そして心之丞のことを。
里は黙って聞いていた。その顔に、少しずつ、何かを思い出すような表情が浮かんできた。
「心之丞さまのことを、覚えておいでですか」
里が静かに頷いた。
「忘れるはずがありません。あの方は、十年ほど前、うちの村に来られました。ひどく疲れた様子で、着の身着のままで。うちの主人が見かねて、しばらく泊めたのですよ」
「どのような方でしたか」
「物静かで、礼儀正しい方でした。農作業も手伝ってくださいました。でも、目が悲しそうで。夜中に声が聞こえると思って行ってみると、縁側でひとり、空を見上げておられた」
「何かおっしゃっていましたか」
里が少し間を置いた。
「息子のことを、案じておられました。都に置いてきた息子が、どうしているかと」
星子の胸が、きゅっと締まった。
「その後、心之丞さまはどこへ行かれたのですか」
「一年ほどいて、出ていかれました。播磨《はりま》の方へ行くとおっしゃっていたような気がします。でも、その後のことは、私には」
「そうですか」
「あの方は、毎年、桜の季節になると、ため息をついておられました。京の桜が見たいと。都に帰りたいけれど、帰ることができないと」
里が手の中の豆をひとつ、転がした。
「一度だけ、息子への手紙を書いておられました。でも、結局、出さなかったのですよ。私が、出してさしあげましょうかと言ったら、届かなくてもよいのだとおっしゃって」
「届かなくてもよい、と」
「もう、会えない人間への手紙だとおっしゃっていました。でも、書くだけで、気持ちが楽になると」
星子は目の奥が熱くなるのをこらえた。
その手紙は、誰かに届いただろうか。八歳で父と母を失った不知火のもとに、父の想いは、何かのかたちで届いていただろうか。
「その手紙は、今も」
「うちにはございません。出ていかれる時に、持っていかれましたから」
*
帰り道、星子と鏡はしばらく無言で歩いた。
秋の空が高く、風が冷たかった。
「星子さま、不知火さまにお話しになりますか」
鏡が静かに尋ねた。
星子は少し考えた。父が自分のことを案じていた。帰りたかったけれど、帰れなかった。手紙を書いたけれど、出せなかった。
それを不知火が知ったら、どう思うだろう。
傷つくかもしれない。しかし知ることで、何かが少し、楽になるかもしれない。長年背負ってきた重さが、少し軽くなるかもしれない。
「話します」
星子が言った。
「でも、今すぐではありません。時機を見て、あの方が受け取れる時に」
「さすがでございます、星子さま」
「さすがって、何がですか」
「不知火さまのことを、よくわかっておられる」
星子は少し照れて、空を見上げた。
高い秋空に、雲がゆっくりと流れていた。
どこかに、心之丞はまだ生きているだろうか。毎年桜の季節に、京の方角を向いて、息子のことを思っているだろうか。
いつか、ふたりを会わせてあげたい。
星子はそう思いながら、賀茂家への道を歩いていった。鏡がその隣で、小さく鼻歌を歌っていた

