その頃、京の都では、ある奇妙な噂がささやかれ始めた。
稀代の権力者、関白・藤原孝道が、若き舞手・霞若に尋常ならざるほど心酔している、というのだ。
と星子の前で、関白は踊りに感動したのではない。息子のことを思い出したのだと言った。
最初は、誰もが耳を疑った。霞若の舞を見て泣いたのは、親王の全快がそれほどうれしかったからなのだろう。
不知火と星子の前では、息子のことを思い出したからだと告白した。
しかし、その程度ではないようなのだ。
あの冷徹で知られる孝道が、まさか若い舞手を相手に個人的な感情に溺れるなど、あり得るはずがないと。
だが噂はやがて具体的な目撃談を伴いながら、日に日に真実味を帯びていった。孝道が霞若を連れて、堂々と市中を練り歩くようになったのだ。
ある日は牛車に乗せて舞台を見学し、またある日は身分を顧みず市場へ徒歩で現れるなど、前代未聞のふるまいで人々の目が集まった。都の人々は最初は驚き、やがて面白がり、そして少しずつ、不安を感じ始めた。権力者が理性を失うということは、都全体にとって、決して笑えることではないからだ。
先日は、都の北にある貴船神社を訪れたという。そこは貴船川の清流と森に囲まれた神域で、古くから縁結びの神として知られている。和泉式部が夫との復縁を祈って参詣し、願いが叶ったとされる場所だ。
結び文を結ぶ時、孝道の眼差しは霞若に注がれていたという。誰が見ていたのかは知らないけれど、関白は慈しみに満ちた瞳で霞若を見つめ、文を枝に結んだ後は堪えきれぬように、ふふと微笑みを漏らしたのだという噂が飛んだ。
「いい年をした妻子のある男が、何をやっているんだ」
「若い子に色目を使って、恥ずかしくはないのか」
巷の人々は陰ではそう言っていたが、相手が関白なので、大声では言えなかった。
貴族たちは困ったことだと眉をひそめていたものの、昇進や降格がかかっているので、矢面に立とうという者は誰もいない。そのうちなんとかなるだろうと問題を先送りにしていた。
しかし噂というものは、広がるほどに形を変える。人々は信じたいものだけを信じるから、関白と霞若の噂は都中に広がった。驚くべきことは、美しい霞若を慕う女子たちが日ごとに増えていったということだった。
「関白が熱を上げていると聞くだけで、どうして女子たちは好きになるのだろうか」
不知火はそう呟き、首をひねっていた。
ところで不思議なことに、霞若の動向はなぜか都中に漏れ伝わるのだった。彼が現れるという噂を聞きつけては、女性たちが待ち構えるようになっていた。
あの女房の鏡も、仕事をほったらかしにして追いかけているようだ。
「いいかげんにしなさい。いい歳をして」
不知火が珍しく意見をした。
「歳に関係ありますか。私は関白よりも、若いです」
鏡が不満げな表情で抗議した。彼女がこんなふうに言い返すなど、これまでなかったことだ。
「それに、星子さまだって」
「星子がどうした」
「追いかけているだけではありません。大声で名前を呼んだりしていらっしゃいますよ」
「星子まで霞若に夢中になるとは……」
不知火は苦笑を浮かべるしかなかった。もっとも星子の場合は、他に何か理由があるような気もするが。
ところが孝道の偏愛は、公の儀式にまで及び始めた。
五月五日の節句には、厄除けとして菖蒲を髪に飾る風習がある。しかし孝道は突如、その風習を霞草に改めよと命じたのだ。役人やその下役が市中をまわり、高札を立てて新たな通達を読み上げて歩いた。
「関白様は、とうとう正気を失われたのか」
人々はそう噂しつつも、次に何が起こるのかに好奇心を募らせていた。
そして狂気はさらに加速する。
六月、霞若の誕生日には都全体で祝賀を行うよう命じられ、彼の名にちなむ霞の花を家に飾ることが義務付けられた。さらにある寺では、霞若の容姿を模した童子像が販売され、それを買うとご利益があるという噂が流れ、人々は行列をして買い求めた。
桂川のほとりや宮廷の庭園の一角には、霞若神社の建立までもが始まった。
歴史上、権力者の逸脱はたびたび見られる。しかし孝道のそれは直接的な害を伴わなかったため、やがて収まるだろうと高を括っていた。
だがその楽観的な期待は、ある日、突如として破られた。
陰陽師家に、公的な書簡が届いた。
不知火が封蝋を割り、紙を広げる。読み進めるにつれ、その顔から表情が消えていった。
「本日より、いかなる陰陽師といえども、あやかしの道と称される場所への立ち入りおよび封印を固く禁ず。この禁を破る者あらば、速やかに捕縛し、厳重なる処罰を科す」
「ついに来たか」
不知火と星子は、顔を見合わせた。
「これでしたね、目的は。ようやく本性をあらわしましたね」
ふたりはこれまで、数々のあやかしの道を見つけ、封印を重ねてきた。その成果を、あやかしたちが黙って見逃すはずがなかった。長い時間をかけて、じわじわと、確実に、反撃の準備をしていたのだ。
今、敵は姿を現した。
霞若。彼こそが、あやかしの化身に違いない。関白の心に入り込み、その権力を操っているのだ。
孝道の心の中にある光雄への想い、その巨大な穴に、あやかしがするりと入り込んだ。孝道が霞若を見る目は、息子を見る目になっていた。あやかしに操られた霞若は、その感情を利用して、孝道を思うままに動かしたのだ。
「そのことを、関白さまはご存知だったのですか」
「ご存知ではなかった。正気に戻った後も、なぜ自分があれほど霞若に心酔していたのかが、ご自身でも理解できなかったのだという」
「あやかしに操られていたと知って、どうされましたか」
「不知火さま、このままでは、再びあやかしに満ちる都になってしまいます。どうしましょうか」
彼は腕を組み、遠くを見つめながら顎へ手をやった。
「さて、どうしたものか」
その目は静かだったが、星子には、その静けさの奥で、何かが素早く動いているのがわかった。この人はいつも、一番冷静な時が、一番危険な時だ。

