陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 祇園祭が終わってしばらく経った頃、不知火のもとに関白・藤原孝道からの使いが届いた。
 内容は、ぜひ一度、話がしたいというものだった。
 不知火は星子と顔を見合わせた。
「どういうつもりでしょうか」
「わからない。しかし断るわけにもいかない」
 数日後、不知火は単身、関白の屋敷へと向かった。
 星子はその間、落ち着かなかった。関白が怒っているのではないか。祇園祭であのような騒ぎを起こしたことを、咎められるのではないか。最悪の場合、不知火が捕縛されるようなことにはならないか。

 心配のあまり、星子は庭をぐるぐると歩き回った。鏡がその様子を縁側から眺めて、呆れたように言った。
「星子さま、庭に溝が掘れますよ」
「だって、心配なんですもの」
「それほど心配なら、ついていけばよかったでしょう」
「関白の屋敷に、女が押しかけるわけにはいかないでしょ」
「そうですね」
 鏡がため息をついた。
 不知火が帰ってきたのは、夕方近くのことだった。その顔に、いつもと違う、どこか考え込んだような表情があった。
「どうでしたか」
 星子が飛びついた。
「話を聞いてほしい」
「はいっ」
 星子は張り切った。
 ふたりは書斎に向かい合って座った。不知火がゆっくりと話し始めた。

 
 関白・藤原孝道には、かつて息子がいた。
 名を藤原光雄《ふじわらのみつお》といい、幼い頃から聡明で、舞が得意だった。孝道はその息子を溺愛した。厳格で冷徹と言われた孝道が、光雄の前だけは、父親の顔になった。光雄が舞う姿を見る時だけ、孝道は笑った。
 しかし光雄は十四歳の時、突然の病に倒れ、あっという間に逝ってしまった。
 孝道はその後、誰の前でも光雄の話をしなかった。悲しみを表に出すことを、孝道という人間は知らなかった。ただ、それ以来、孝道の目から光が消えたと、側近たちは言った。
 あの祇園祭の式典で、霞若の舞を見た瞬間、孝道の中で何かが崩れた。
 霞若の立ち姿、袖の翻し方、花びらを空に向けて掲げる仕草。それが、死んだ光雄の舞とあまりにも重なったのだ。
 孝道が号泣したのは、舞が美しかったからではなかった。死んだ息子の姿が、そこに見えたからだった。

「恥ずかしいとおっしゃっていた。権力者として、あのような醜態をさらしたことを。しかし同時に、光雄のことを人に話したのは、初めてだったともおっしゃっていた」
「はい」
 星子はしばらく黙っていた。
 関白という、雲の上のような存在が、死んだ息子を忘れられずにいた。それがあやかしにつけ込まれる隙になった。どれほどの権力を持っていても、人は悲しみの前には無力なのだと、星子は思った。
「関白さまは、今も光雄さまのことを」
「話し終えた後、孝道さまは久しぶりに泣いたとおっしゃっていた。今度は、人前で泣くことを恥じずに」
 星子の目が、じんと熱くなった。
「それは、よかったです」
「そうだな」
 不知火が静かに頷いた。
「孝道さまは、霞若の舞台を、またいつか見たいとおっしゃっていた。今度は正気で、息子の面影ではなく、霞若そのものの舞として」
「橘千歳さまも、きっと喜びますよ」
「そう思う」
 ふたりはしばらく、無言で座っていた。
 庭から虫の声が聞こえてくる。秋が深まっていく音だった。
「不知火さま」
「何ですか」
「あやかしは、人の悲しみや寂しさにつけ込むのですね。桜子内親王も、羅城門の霊たちも、橘千歳さまも、そして関白さまも、みんな、深いところに悲しみを抱えていた」
「そうだな」
「だから、あやかしを封印することと、その人の悲しみに向き合うことは、切り離せないのですね」
 不知火が星子を見た。
「あなたは、そういうことをよくわかっている」
「だって、私も寂しかったから」
 星子がさらりと言った。
「両親もいない、お金もない、友達もいない。あのあばら家にいた頃は、寂しくて寂しくて、夜に泣いたことが何度もあります。あやかしが来ていたら、私も取り憑かれていたかもしれません」
「星子……」
「でも、私には松江がいた。それだけで、踏みとどまれた気がします」
 不知火はしばらく何も言わなかった。
 やがて、静かに言った。
「私には、誰もいなかった」
 その言葉が、書斎の空気に溶けていった。
 星子は何も言わなかった。ただ、そっと不知火の手に、自分の手を重ねた。
 不知火は手を引かなかった。
 庭の虫の声が、続いていた。