陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 それから一年半の時が流れた。
 不知火と星子は、地図に赤丸がついた箇所へ次々と出かけ、星子があやかしの道を見つけ、不知火が封印していった。ふたりで歩いた道の数だけ、都に平穏が戻っていった。京の町には笑い声が増え、市場に活気が戻り、病で伏せる者の数が減っていった。
 花隠れの庭の修復もついに終わり、枯れていた木々が青葉を茂らせ、池の水が澄み、春には桜が見事に咲いたという。
 その祝いと、時明親王の全快と桜子内親王の供養を兼ねた式典が、宮廷にて大々的に開催されることになった。
 その催しのひとつとして、古式ゆかしい舞楽「童楽《どうらく》」の奉納が決定された。童子の姿をした舞い手が、天上の祝福と哀惜の想いを舞に託して捧げる、宮中でもとりわけ由緒ある演目である。
 今回その舞を務めるのは、京で評判の若鹿座の人気舞手、十五歳の霞若《かすみわか》。演目は「桜花《おうか》童子《どうじ》」だという。
「星子、最近ずっと楽しそうだね」
「はい。だって、大好きな舞を見られるんですもの。もう、わくわくして仕方がないんです」
「大好きって、見たことがあるのかい」
「それが、一度もないんです」
 星子は少し頬を赤くした。
「券は高くて手が届かないし、そもそも手に入れるのも難しくて……もし運よく手に入ったとしても、着ていけるような着物なんて、持っていませんでしたから」
「星子でもそういうの、気にするのかい」
「もちろんですよ。不知火さまは、何か私を誤解されていませんか」
「そうだろうか」
「私、不知火さまが思っておられるより、ずっと繊細な人間です」
 繊細な人間が自分で繊細と言うだろうか、と不知火は吹き出しそうになったが、表情には出さなかった。
「式典には、藤原孝道《ふじわらのたかみち》さまが出席なさるそうだよ」
「あの関白の」
「そうだよ」
「そういう方々が来られるのなら、何を着ていけばよいかしら。少し、考えなくては」
「好きな着物を用意すればよい」
「はい。では、失礼して、呉服屋さんに相談に行ってまいります」
 星子は満面の笑みで、まるで飛ぶようにして部屋を飛び出して行った。その足音が廊下を遠ざかっていくのを聞きながら、不知火はひとり、かすかに口元を緩めた。

 その日は、抜けるような春の青空が広がっていた。
 豊楽院《ほうらくいん》へと続く回廊には、色とりどりの衣を纏った貴族たちが集い、期待に胸をふくらませたざわめきが満ちていた。香の匂いが漂い、絹ずれの音が柔らかく響く。
 星子も、今日のために選んだ薄紅の小袿に身を包んでいた。慣れない場所と華やかな人々の雰囲気に、少々緊張していた。これほど多くの高貴な人々が一堂に集まる場に来たのは、生まれて初めてのことだった。
 不知火はそんな星子の隣にいて、時折視線を送っていた。仕事をしている時の緊張した表情とは全く違う、少女のような無邪気な様子が、愛しく思えた。
 やがて人々のざわめきが次第に静まり、舞台の幕がゆるやかに上がった。
 「桜花童子」は、三部から構成されていた。
 霞若は仮面をつけず舞台に進み、淡い紅をさした顔を静かに上げた。
 なんて美しいの。
 星子が思わず、不知火の腕を叩いた。本人は気がついていない。しかし、思わず息を呑んだのは星子だけではなかった。観客のほとんどが、心を射抜かれたように動きを止めた。
 霞若は白い小袿に若草色の袴をまとい、額には桜の花びらを象った飾りをつけている。背には、上部分を封じた小さな袋を負っていた。清らかな童の姿でありながら、どこか妖艶な気配をまとっていた。美しいのに、近づいてはいけないような、そういう気配だ。
 笙《しょう》と龍笛《りゅうてき》の柔らかな調べが響く中、霞若は舞台の中央で袖をゆるやかに広げ、風の道を探るように静かに舞い始めた。この段ではまだ花は咲かず、童子の顔には淡い憂いが滲んでいる。その憂いが、この上なく美しかった。
 篳篥《ひちりき》が加わり、旋律が少し明るさを帯びる。霞若は軽やかに舞い跳ね、袖を翻しながら踊った。その動きは水が流れるように自然で、しかし一つひとつの所作に、研ぎ澄まされた緊張感があった。
 やがて霞若が背の袋に手を伸ばし、結ばれていた紐をゆっくりと解いた。
 すると、風が吹いた。
 本物の風が、舞台の上で舞い上がった。散り始めた花びらが、光と風の幻想的な美しさを際立たせていく。
「袋の中に入っていたのは、風なのね」
 本当に風が吹き、星子の髪がそっと揺れ、頬に春の気配が触れた。花びらが、星子の肩にも落ちてきた。
 舞台の上では、光が反射し、風に乗って流れる花びらの一片一片が、まるで夢のようだった。霞若の舞は続く。その体が、まるで花そのものになったかのようだった。
 そして霞若は、一輪の花を手にした。
 音楽がやや切なさを帯びる。童子は自らの任を終え、季節の境に立つ。一輪の花を手に取り、それを天へと捧げるように高く掲げ、深く礼をした。
 その瞬間、桜の花が、天から静かに降ってきた。
 まるで夢幻の中にいるようで、その息を呑むほどの美しさに、星子は言葉を失った。感動というよりも、何か深いところを揺さぶられるような、そういう美しさだった。
 桜の花がゆっくりと舞い落ち、差し込む光の中、霞若の姿が静かに遠のいていく。美しい人が去っていくのは寂しい。ああ、行かないでいてくれたら、どんなにかいいのに。
 そんな舞楽の余韻に浸っていた時、会場に不意の声が聞こえた。
 低く、しかし確かな、嗚咽の声だった。
 それは、関白・藤原孝道が、人目もはばからず号泣し始めたのである。時の権力者が肩を震わせて泣く姿には、居合わせた誰もが度肝を抜かれた。周囲の貴族たちが視線を交わし合い、しかし誰も声をかけられずにいる。
 星子は不知火に視線を向けた。不知火もまた、無言のまま関白の様子を見つめていた。その目が、何かを考えているように、静かに細くなっていた。