朝霧が低くたなびく中、不知火と星子は賀茂家を発ち、迎えの馬車で内裏へと向かった。
夜明けとともに鳴き始めた鳥の声に包まれながら、ふたりの影は高い築地塀の中へと入っていった。空はまだ薄く白く、都の屋根が朝もやに霞んでいる。
陰陽師賀茂家の不知火は、墨染の狩衣に黒漆の烏帽子。袴は深い藍色で、裾には結界を象徴する白い刺繍が縫い込まれていた。腰には祓具を収めた小袋を下げ、背には護符と呪札を納めた木箱を背負っている。その出で立ちは端正で、内裏の白砂の庭にしっくりと馴染む姿だった。
幽世の巫女の星子は、白の小袿に薄紫の袴を重ね、古式の襟が首もとを清らかに包んでいる。髪は肩の下に自然に流れており、その佇まいは凛として清らかだった。
不知火は責任感からか、目元に疲れが滲んでいた。星子がそっと彼の袖をつまむと、不知火は短くうなずき、ふたりは歩みを合わせた。
内裏に入ると、その空気は門の外とは違っていた。白砂の庭にはまだ朝露が残り、どこかから鳥の声が聞こえるのに、どこか時間が止まっているような、張り詰めた静けさがあった。
建春門をくぐると、陰陽寮の若き役人たちがふたりを迎え、深く頭を下げた。噂で聞いていた不知火の姿を目の前にして、誰もが緊張した顔をしている。また女房や侍女たちまでが出てきて、柱の陰からそっと覗き込み、ひそひそと声を交わした。
「不知火さまの横にいるあの小さな娘は誰」
「侍女にしては、堂々としているわよね」
「まさか、結婚したわけじゃないわよね」
「あのお方、女性には興味がないという評判よ」
「じゃ、その相手は誰なの。安倍家の剛人さまかしら」
「そうなの?ああ、お似合いかも。ふふふ」
いつの世も、時間をもてあます人々にとって、無責任な噂は大好物だ。こういう時には張り切るものである。
陰陽師のことは知っていても、幽世の巫女の存在を知る者は少ない。しかし星子の姿を見た若き陰陽師たちは、この娘が常世と繋がる力を秘めた存在であることを、本能的に感じ取ったようだった。
「この先が、清涼殿でございます」
案内されたのは、王太子の第一子である時明親王の寝所だった。
薄布の帳の中、まだ七つの親王が目を閉じたまま横たわっていた。額にはうっすらと汗がにじみ、呼吸は浅く、小さな顔に苦しみの皺が刻まれている。
「こんな幼い子が」
星子がそっと膝をついた。
七歳の子供が、こんなに苦しんでいる。胸が痛くなった。その顔を覗き込んだ瞬間、ふっと冷たい風が頬をかすめたような気がした。窓は閉まっていて、風など吹いていないのに。
「何か感じますか」
不知火が星子の表情が変わったのに気づいて、小声で尋ねた。
「はい。けれど、この部屋ではなくて」
星子は周囲を見回した。冷たさの源が、この部屋の外にある気がした。廊下の向こう、もっと遠く。
星子は目を閉じ、空気の流れを指先でなぞるようにして、内裏の空間をゆっくりと辿った。
すると、ふっと視界に何かが映った。
花が散っている。池のほとりで、子供が笑っている。
「ついてきてください」
星子はすくっと立ち上がり、歩き出した。渡殿を抜け、回廊の角を曲がり、また別の廊下を進む。どこへ向かっているのか、自分でもわからない。ただ、引かれるように足が動いた。
やがてたどり着いたのは、忘れられたように手入れのされていない庭だった。雑草が伸び放題で、苔が石畳を覆い、池の水は濁っている。木の枝は誰にも剪定されないまま、四方へと伸びていた。
「ここは、どこですか」
「『花隠れの庭』と呼ばれております。春には、それは美しい桜が咲いたものですが……」
女官が言葉を濁した。
「咲いたものですが、とは」
「今はもう、この庭には誰も訪れることはありません」
「見えます」
星子の目に、何かが映った。
そこには、一輪だけ咲き残っている桜の下に、ひとりの少女が立っていた。うす紅の小袿をまとい、肌が透けるほど白い。その輪郭が、光に溶けるようにぼんやりと揺らいでいた。
「あなたは、どなた」
星子が尋ねると、その少女がふわりと振り返った。十歳ほどだろうか。その目は澄んでいて、しかし深い寂しさを湛えていた。
「わたしは、桜子内親王です」
追いかけてきた不知火が、低い声で星子の耳に告げた。桜子内親王は時明親王の姉で、昨年、亡くなったのだと。
桜子内親王の魂が、どうしてここに。
「あなたは、時明さまに会いに来られたのですか」
「はい」
「おさみしいのですね」
「はい。みんな、わたしを忘れていきます。わたしの庭にも、もう誰も来ない。でも、弟だけは、夢の中でわたしを呼んでくれる。わたしは弟とお遊びがしたいの」
星子は胸が締め付けられた。この少女は、ただ寂しかったのだ。ただ、忘れられたくなかっただけなのだ。
「桜子さま、それはおつらかったでしょう。おさみしかったでしょう」
星子がそっと手を伸ばした。指先が、ひんやりとした空気に触れる。
その時、風が吹いて、桜子の姿がふっと揺らいだ。
「わたしは、弟を連れて帰りたいの。そうしたら、ひとりではないから」
「時明さまが、ご病気になられて、あんなに苦しまれても、あなたは連れて帰りたいのですか」
少女は首を横に振った。
「弟が苦しむのはいやです」
「では、こうしましょう」
不知火が前へ出て、静かに言った。
「この庭をきれいにしてもらい、あなたはそこに住むことにして、あの世とこの世を行き来すればよいのではないですか。時明さまが元気になられたら、この庭で遊べばよいでしょう」
「そんなことができますか」
「私は陰陽師ですから、そういうことができます。あやかしの道を封印するだけが、仕事ではありません」
「本当に、やってくれるのですか」
「はい。私は約束したことは、必ず守ります」
その時、また風が吹いた。庭を包む気配が一変し、枝の間から花びらがざわざわと舞い上がった。
桜子の姿が光に包まれ、白い花びらが渦を巻くように舞い上がる。
「信じます。お願いね」
そう言って内親王は、春の夢のように空へと溶けていった。
花びらだけが、しばらくゆっくりと落ちてきた。
星子は立ち尽くし、目を閉じて祈った。静けさが戻り、庭には桜の香りだけが残っていた。
不知火がゆっくりと歩み寄った。
「この庭を、一刻も早く、直させましょう」
「はい。桜子さまが、再び来られるように」
星子は桜子の寂しかった心を思い、そっと不知火の袖を握った。
清涼殿のほうへ歩いていくと、人々のうれしそうな声が聞こえてきた。
時明親王が、目を覚ましたのだ。

