陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚

 その夜、八虚空が星子を呼んだ。
 例の奥の部屋だ。白いしめ縄の張られた扉の前に、今日は八虚空がひとり、縁側に腰掛けて庭を眺めていた。その背中が、いつもより小さく見えた。
「大殿様、お呼びでしょうか」
「星子さん、座りなさい。今日は、少し昔の話をしようと思ってね」
 老人の声は穏やかで、急ぐ様子がなかった。星子は黙って隣に座った。
 庭では、紅葉が始まっていた。楓の葉が赤く染まり、銀杏が黄色く輝いている。風が吹くたびに、葉がはらはらと落ちた。
「きれいですね」
「そうだな。毎年この季節になると、月子のことを思い出すのだよ」
 月子。星子の祖母の名前だ。
「祖母のことを、大殿様はよくご存知だったのですか」
「よく知っていた。というより、共に戦った仲間だった」
 八虚空がゆっくりと話し始めた。

 それは、今から四十年ほど前のことだった。
 八虚空はまだ三十代で、若き陰陽師として陰陽寮に仕えていた。腕は確かだったが、当時の八虚空には、今の不知火に似た部分があったという。感情を表に出さず、任務に徹し、他者と深く関わることを避けていた。
 その頃、都にあやかしの気配が増していた。
 田畑が荒れ、井戸の水が濁り、夜になると奇妙な声が聞こえてくるという訴えが、あちこちから上がってくるようになった。八虚空はひとりで各地を調べて回ったが、あやかしの道を見つけることができなかった。
 そんな時、ひとりの若い女に出会った。
 名を月子といった。
 月子は真柴家の娘で、当時二十歳そこそこだった。小柄で、目の大きな、よく笑う女だった。しかし笑う顔の裏に、鋭いものを持っていた。
「あなたが陰陽師の八虚空さまですか。あやかしの道を探しているそうですね」
 月子がそう言って、八虚空の前に現れた時、八虚空は面食らった。女が陰陽師に話しかけてくるなど、当時は異例のことだった。
「私にはあやかしの気配がわかります。案内しましょうか」
「女に、そのような力があるとは思えない」
「では、試してみますか」
 月子は言った通り、あやかしの道を次々と見つけていった。八虚空が何日かけても見つけられなかった場所を、月子は半日で見つけた。
「どうやって、わかるのですか」
「わかるのではなくて、感じるのです。皮膚が、ひやりとする感じがします」
 八虚空はその答えを、最初は信用しなかった。しかし月子が示した場所を調べると、必ずそこにあやかしの痕跡があった。
 ふたりは組んで、都中のあやかしの道を探し、封印していった。
 月子は明るく、よく喋り、よく食べ、よく笑った。八虚空が黙っていると、次々に話しかけてきた。八虚空が素っ気ない返事をしても、気にしなかった。
「八虚空さまは、笑わないのですね」
「笑う必要がない」
「笑う必要がある時だけ、笑うのですか」
「そうだ」
「それは、つまらない生き方ですね」
 八虚空は返事をしなかった。しかし月子のその言葉は、頭の隅にずっと残っていた。
 あやかしの道を封印し終えた頃、月子が言った。
「八虚空さま、私のこと、少しは人間だと思ってくださるようになりましたか」
「最初から、人間だと思っていた」
「では、少しは好きになってくださいましたか」
 八虚空は答えに詰まった。
「……仕事のしやすい相手だとは思っている」
「それは、好きということですね」
「違う」
「同じです」
 月子がそう言って笑った。その笑い顔が、八虚空の目に焼き付いた。
 しかし月子は間もなく、別の男と結婚した。八虚空は自分の気持ちを、一度も言葉にしなかったからだ。

「月子さまは、その後、幸せでしたか」
 星子が静かに尋ねた。
「幸せだったと思いたい。夫は早くに亡くなったが、娘と孫に恵まれた。あなたの母上の日子さんは、月子さまによく似た方だったそうだ」
「大殿様は、後悔されましたか。気持ちを伝えなかったことを」
 八虚空がしばらく庭を見ていた。
「後悔したか、どうか。それはわからない。しかし、あの時、もし私が気持ちを伝えていたら、違う人生になっていたかもしれないと、時々思う。人生というのは、そういうものだよ」
「だから、私と不知火さまを結婚させたのですか」
「そうだよ」
 八虚空が穏やかに笑った。
「不知火は私に似ている。感情を閉じ込めて、任務だけを生きようとする。そのままでは、孤独な男になってしまう。月子さまの孫であるあなたなら、その壁を崩せると思った」
「崩せましたか」
「少しはね。でも、あなたのほうが月子さまよりずっと積極的だから、心配はしていなかったよ」
「積極的すぎましたか」
「いいや。あれくらいでちょうどよかった」
 八虚空がくつくつと笑った。
 星子は庭の紅葉を見た。赤と黄と緑が混じり合って、それぞれに美しかった。
「大殿様は、今も月子さまのことを」
「思っているよ。四十年経っても、忘れないものだよ、人を好きになるということは」
 その言葉が、静かに星子の胸に落ちてきた。
「星子さん、不知火のことを、頼みますよ」
「はい」
「あの子は、愛されることを知らずに育った。愛されることに、慣れていない。だから、時々、怖くなって、逃げようとする。そういう時は、逃がさないようにしなさい」
「逃がしません」
「体当たりで止めてもよい」
 星子は思わず吹き出した。
「大殿様、ご存知だったのですか」
「あの竹林の話は、屋敷中に広まっているよ」
 ふたりは並んで笑った。
 庭の木が風に揺れ、紅葉の葉がひらひらと落ちてきた。
 星子はその葉を見ながら、月子という祖母のことを思った。会ったことのない祖母が、四十年前に笑いながら言ったという言葉。
 笑う必要がある時だけ笑うのは、つまらない生き方ですね。
 その言葉は、今も生きていた。
 不知火の中に、今も息づいていた。
 星子はそっと、八虚空に向かって頭を下げた。
「大殿様、ありがとうございます。この縁談を持ってきてくださって」
「こちらこそ、ありがとう。月子さまのお孫さんが、こんなにも元気な娘さんで、よかった」
 夕暮れが近づき、庭が橙色に染まっていった。
 八虚空はしばらく目を細めて庭を見ていた。その目に、遠い昔を見ているような、穏やかな光があった。