陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚

 平安の都の片隅に、明原星子の家はある。

 かつては都の中心に構えを持っていたというが、今となっては遠い昔の話だ。
 明原家は長い年月をかけてゆっくりと衰え、今や誰もが知る没落貴族となっていた。都心から引っ越して、もう何年になるのだろうか。

 父は星子が生まれて間もなく他界し、母は星子が三つの頃に亡くなったと聞いている。幼い星子には、母の顔の記憶すらない。
 
 この家に移り、星子をひとりで育ててくれたのは、母の乳母(うば)だった松江(まつえ)だ。
 
 松江は小柄で背が曲がり、足に古い傷を抱えているが、その目は今もしっかりと物を見ている。口うるさく、心配性で、しかし誰よりも星子を案じてくれる、世界でたったひとりの家族といってよかった。

 食べるために売れるものは何でも売った。装束も、家具も、父が集めた書物も、母の形見の簪《かんざし》さえも。だから今、この家にあるものといったら、庭の片隅にひっそりと咲く夕顔となずな、古びた鏡台、それに「おばば」の松江と星子だけだ。
 その星子は今年、二十一歳になった。



 明原家に突然、賀茂家から婚儀の話が舞い込んだのは、半年前のことだった。

「陰陽師はいけません」
 
話を聞いた松江が、しわの刻まれた眉をぐっと寄せて険しい表情をした。

「でも、こんなあばら家の娘でも、目をかけてくれた人がいたというのは、喜ばしいことよね」
 星子はなだめるようにそう言った。

 明原家の実情は、外から見えるより、ずっと厳しかった。日々の食べ物にも事欠くありさまで、今や星子が庭に野菜を植えて、なんとか飢えをしのいでいる。大根、蕪《かぶ》、葉物。貴族の娘が土を耕して野菜を育てるなど、本来あってはならないことだが、腹が減っては礼儀もへったくれもない。

 松江はそれを何より気にしていた。もし世間の噂にでもなったら大恥だと、痛む足を引きずりながら、毎朝毎晩、家の壁の穴を細かく点検して回り、苦い顔をしながら丁寧に紙を詰めるのだった。だが、そんなものは指で押せばたちまち外れる。もとより、星子はそのことを知っていた。

 松江が壁穴をふさぐのには、別の理由もある。それについては、また後で話すことになるだろう。
 松江の強い反対を受けながらも、星子は自ら申し出を断りに出かけることにした。他に使用人がいないから、供もつけず、ひとりで出向いたのである。
 
 賀茂家の当主、賀茂八虚空(かものやこくう)は、白髪交じりの髭をたくわえた老人だった。
「よく来られましたね」
 
 彼は星子を見て、それはにこやかに言った。しかし、その目はすぐに細まり、じっと星子の顔を見つめた。

「やはりよく似ていますね」
 星子は首をかしげた。
「えっ、私が誰かに、似ているのですか」
 
 しかし、その問いへの答えはなかった。老人はそれとなく話をそらし、やがて多額の結納金を示しながら、二年間の契約結婚という話を切り出したのだった。

「契約結婚とはどういうことですか。そんな話は、聞いたことがありません」
「あなたが聞いたことのない話など、世の中にはたくさんあるのですよ」
「はぁ」

「二年間、孫の嫁として働いてくだされば、その後はご自由に生きてください」
 そう言って、家が丸ごと買えるほどの結納金の額を、さらりと示した。

 星子は、その金額を見て、しばらく言葉が出なかった。
 これがあれば、松江に治療を受けさせられる。家の修繕もできる。売り払った装束や家具を、買い戻せるかもしれない。いや、それ以上のことも。

 星子は静かに息を整えて、頭を下げた。
「少し、考えさせてください」
 家に戻り、賀茂家がいかに由緒ある陰陽師の家柄であるかを丁寧に説明して、星子は松江を説得にかかった。

 家長が賀茂八虚空(かものやこくう)、次が娘だったため心之丞(しんのすけ)という婿を迎えており、その息子が不知火(しらぬい)で、今年二十八歳になる。この不知火が、縁談の相手であるという。

「この家の方々は、みんなずいぶんと難しい名前をお持ちね。きっと単純なことが嫌いな家柄なのだわ。うちなんか、月子、日子(にちこ)、そして私が星子だから、これはこれで家風が出ているわね」

 星子は松江を笑わせようとしたのだが、松江はむっつりとしたままだった。
「心之丞様は、娘の常盤緑《ときわみどり》の婿養子で、元の名前は弥助ですよ」
「おばば、知っているの?」
「誰でも知っていることですよ」
「そう?私は聞いたことがないけれど」
 
 星子は結納金のこと、そして結婚が二年という期限付きであることを話した。契約結婚のくだりでは、また反対されるだろうと覚悟していたのだが、意外なことに、松江はそれを聞くと、むしろ表情を和らげた。

「いいでしょう」
「おばば、どうして急に賛成するのですか」
「二年もすれば、あのお方が戻ってこられるかもしれないでしょう。あの、唯一のお方が」

 唯一のお方。
 その言葉を聞いた瞬間、星子の胸にちくりと何かが刺さった。
 松江の言う「唯一のお方」とは、たったひとり、星子に和歌を贈ってくれたことのある貴公子のことだった。

 当時の習わしとして、好ましい女の噂を耳にしたり、垣間見たりした男は、まず和歌を女のもとに送る。何度か歌のやりとりがあり、男が女のもとに夜の帳《とばり》に紛れて通ってくる。それが三夜続けば、晴れて結婚となる。

 星子は年頃になっても、誰も通ってきたことがなかった。住まいが都の中心から遠いこと、屋敷がひどく荒れていること、家の柱たる父親がいないこと。理由など、数えればいくらでも出てくる。

 だからある夜、都の若い貴公子が庭側の壁穴から何度か覗いているのに気づいた時、星子は胸を高鳴らせた。ついに、と思った。やがて和歌が届けられた。
 いよいよ恋の始まりだわ。
 返歌を何度も考えて、夜ごと彼が来るのを待ったのだが、ついぞ現れることはなかった。

「もう来てもだめですから」
 松江は怒り狂って、壁の穴を丁寧に埋めた。しかし埋めながら、あのお方がいつかまた来てはくれないものかと、耳をそばだてて外の気配をうかがっているのが、星子にはよくわかった。
 それが、松江だった。



 相手の賀茂不知火は、若き陰陽師の中でも屈指の才を持つと聞いていた。
 しかし、伝え聞くところによれば、誰とも交わらず、常に心を閉ざしているという。

 婚礼のために賀茂家を訪れた日の帰り際、年かさの女房である(かがみ)が、星子の耳元にそっと顔を近づけ、奇妙なことを言った。

「あなたの血が、世の中を救うのですよ」
 星子は首をかしげた。
 どういう意味なのだろうと、しばらく考えた。しかし、だいぶ大げさな言い方をする人もいるものだと思い直し、特に気に留めないことにした。
 
 今思えば、もう少し真剣に問いただすべきだったかもしれない。
 けれどその時の星子には、そんな余裕は、なかった。