地図の赤丸をすべて封印した翌日の夕方、星子は台所に立っていた。
賀茂家の台所は広く、道具が揃っていて、火の通りもよい。あのあばら家の、煙が充満して目がしみる狭い台所とは比べ物にならない。しかし星子は、この広い台所よりも、あの狭い台所のほうが、料理の腕が上がると思っていた。道具が揃っていない分、工夫するからだ。
今夜の献立は、決めていた。
ナズナのおひたし、ナズナと豆腐の味噌汁、ナズナと干し椎茸の炊き込みご飯、それに焼き魚。ナズナ料理ばかりだが、それでよかった。ナズナは星子と不知火をつないだ草だから。
台所の女中たちが、不思議そうな顔をして星子の周りをうろついていた。
「奥方様、私どもがいたしますのに」
「今日は私がやりたいの。手伝わなくていいですよ」
「でも」
「ほんとうに、大丈夫ですから」
女中たちを追い出して、星子はひとりで台所に立った。
ナズナを洗いながら、星子はいろいろなことを思い出していた。あのあばら家の庭で、毎朝ナズナを摘んでいた頃のこと。市場で野菜を売っていた頃のこと。松江が壁の穴を塞いでいた頃のこと。
あの頃は、毎日が必死だった。でも、今思い返すと、あの頃があったからこそ、今がある気がする。
おひたしの味付けは、少しの塩と、ごまをひとつまみ。これが一番ナズナの味を引き立てる。松江に教わった方法だ。
味噌汁は、少し濃いめの出汁に、白味噌を使う。ナズナの香りが飛ばないように、火を止める直前に入れるのがコツだ。
炊き込みご飯は、前日から干し椎茸を水で戻しておいた。その戻し汁もご飯に使う。捨てるところが何もない、というのが星子の料理の信条だった。
焼き魚は、鯛を塩で締めておいたものを、じっくりと炭火で焼く。これだけは、腕より時間の問題だ。
夕方の光が台所の窓から差し込み、湯気が揺れていた。いい匂いがしていた。
*
食事の用意ができた頃、不知火が書斎から出てきた。
星子が膳を運ぶのを見て、不知火が少し驚いた顔をした。
「あなたが作ったのですか」
「約束したでしょう。赤丸を全部封印したら、私が夕食を作ると」
「覚えていましたか」
「もちろんです。忘れません」
ふたりは向かい合って座った。
不知火が膳を見回した。小鉢にのったおひたし、湯気の立つ味噌汁、炊き込みご飯の茶碗、焼き魚。どれも質素だが、丁寧に作られているのが見てわかる。
「これは、全部ナズナですか」
「そうです。ナズナ料理特集です」
「……なぜ」
「ナズナは、あなたが最初に私に詠んでくれた和歌に出てくるから、ではなくて、橘千歳さまが詠んでくださった和歌に出てくるから、といいますか、とにかくナズナは縁起物なのです」
不知火が少し眉を上げた。
「食べてみてください」
不知火がおひたしを一口食べた。しばらく黙っていた。
「うまい」
「でしょう」
「こんなに地味な草が、こんな味になるとは」
「ナズナを馬鹿にしてはいけません。工夫次第で、いくらでもおいしくなります」
「そうか」
不知火が今度は味噌汁を飲んだ。また黙った。
「これも、ナズナですか」
「そうです。白味噌と合うでしょう」
「合う」
「炊き込みご飯も食べてみてください」
不知火が炊き込みご飯を一口食べた。今度は少し長く黙った。
「星子」
「はい」
「あなたは、料理がうまい」
星子は思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます。でも、そんなに驚かないでください。貴族の娘でも、料理くらいはできます」
「貴族の娘が市場で野菜を売ったり、ナズナを育てたりはしない」
「それはそうですが」
不知火が焼き魚を箸でほぐしながら、静かに言った。
「星子、あなたは今まで、どれほど苦労してきたのかと、時々思う」
「苦労というか、生きるためにしていたことですから」
「それが苦労というのだ」
「不知火さまだって、ずっと苦労されてきたではないですか。八歳から、ひとりで」
不知火が少し黙った。
「私のことはいい」
「よくありません」
星子が箸を置いて、不知火を見た。
「さっき、鏡さんから聞いたことがあります。心之丞さまのことです」
不知火の顔が、わずかに固まった。
「丹後で心之丞さまの消息を知る人を、鏡さんが調べてくれました。その方によると、心之丞さまは丹後にいた頃、毎年桜の季節になると、京の方を向いてため息をついておられたそうです。都に帰りたいけれど、帰れないと。そして、あなたへの手紙を書いたこともあったそうです」
「……」
「出さなかったそうですが、届かなくてもよいのだと、書くだけで気持ちが楽になるとおっしゃっていたそうです」
不知火はしばらく、じっとご飯茶碗を見ていた。
その顔に、何の表情も浮かんでいなかった。しかし星子には、その無表情の奥に、何かが揺れているのがわかった。
「……そうか」
それだけだった。
星子はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、味噌汁がまだ温かいうちに飲んでくださいと言って、自分の箸を持った。
ふたりはしばらく、無言で食事をした。
庭から風の音が聞こえてきた。木の葉が揺れる音がした。
星子はその音を聞きながら、これがあの約束の夕食だ、と思った。赤丸を全部封印したら、ふたりで食べようと言った、あの夜の約束の。
こんなに静かな夕食だったけれど、それでよかった。
食事が終わった頃、不知火が静かに言った。
「ごちそうさまでした」
「どうでしたか」
「また、食べたい」
星子は笑った。今度は遠慮なく、声に出して笑った。
「もちろんです。これからは毎日でも作ります」
「毎日ナズナはいいよ」
「たまにはカブトムシも」
「それは、絶対にいやだ」
ふたりの笑い声が、夜の静かな部屋に響いた。

