次の日、ふたりが訪れたのは、都を流れる鴨川の河原だった。
朝の光を受けた川面は、きらきらと輝いている。しかしその美しさは表面だけのことで、川岸に立った瞬間、星子の足がぴたりと止まった。
何かが、いる。
水の底から、何かが押し上げてくるような、重い気配があった。美しい川面の下に、黒い淀みが広がっているような感覚だ。
「不知火さま、何か変な音が聞こえませんか」
「いや、私には聞こえないが」
不知火が川面を見つめた。その目が、わずかに細くなった。
「低くて、くぐもった、呻くような音です。何かが、下から押し上げてくるような」
星子は川岸に膝をついて、水面に耳を近づけた。確かに聞こえる。水の流れる音ではない。もっと深いところから来る、重い音だ。まるで大勢の人間が、水の底で一斉に呻いているような。
星子が水面に手をかざした瞬間、指先に刺すような冷たさが走った。真夏の川の水とは思えない冷たさだ。そして、水の一点から、墨を落としたように黒い波紋が広がり始めた。一つ、二つ、三つ。波紋は重なり合いながら、じわじわと広がっていく。
「星子、下がっていなさい」
不知火の声が鋭くなった。
星子が後ろに下がるのと同時に、川面の黒い波紋がぐっと濃くなった。水が変色し始める。透き通っていたはずの川が、墨を流したように暗くなっていく。
不知火が川岸に立ち、深く息を吸った。
両足を肩幅に開き、重心を低く落とす。右手を前に伸ばし、左手を胸元に引く。その姿勢のまま、目を閉じた。周囲の空気が変わった。風が止まり、川の音が遠のいていくような、不思議な静けさが広がった。
星子は息を詰めて、その様子を見守った。
次の瞬間、川面が大きく盛り上がった。
黒い水が柱のように立ち上がり、そこから何かが這い出してくる気配がした。形はない。しかし確かに、何かがいる。水の中で長い間、沈んでいた何かが。
低い声が、水面から響いた。人の声ではない。しかし、かつて人だったものの声だった。
「……冷たい……、暗い……、ここから、出してくれ……」
星子の背筋が凍った。
鴨川は古くから、多くの命を呑み込んできた川だった。戦で死んだ者、病で倒れた者、絶望して身を投げた者。その無念が、長い年月をかけて川底に沈み、積み重なり、やがてあやかしとなって蠢き始めたのだ。
「……出してくれ……、なぜ、私だけが……」
声が重なり合う。一つではない。何十、何百という声が、水底から湧き上がってくる。
不知火が川の流れに逆らうように術を発動した。
彼の掌から放たれた白い光は、水面を滑るように進み、黒い波紋の中心へと向かった。光が波紋に触れた瞬間、川面がざわりと揺れた。黒い水が光を拒むように、うねり、逃げようとする。
しかし不知火の光は追いかけた。
水面を這うように、黒い淀みの一つひとつを追い詰めていく。光が触れるたびに、黒い波紋がじゅっという音を立てて消えていく。水底からの呻き声が、高くなった。苦しんでいるのか、怒っているのか、それとも泣いているのか、判別できない声だった。
不知火が低く、しかし力強く呪を唱えた。
「流れよ、清めよ、水の道よ、澱みを押し流せ。迷える魂よ、川の流れとともに、あるべき場所へ帰れ」
その言葉が川面に落ちると、白い光の渦が水中で広がり始めた。黒い淀みが渦に巻き込まれ、砕かれ、散っていく。水底からの声が、次第に細くなっていった。
「……ありがとう……」
最後に、ひとつだけ、そんな声が聞こえた気がした。
やがて川は静かになった。水の色が戻っていく。透き通った、澄んだ川の色に。朝の光が再び川面に反射して、きらきらと輝いた。
不知火が大きく息を吐いた。その額に、うっすらと汗がにじんでいた。
「終わりましたか」
「ああ」
「声が聞こえました。水の中から、大勢の人の声が」
「この川は、長い間、多くの命を呑んできた。その怨念が積み重なって、あやかしの道になっていたのだ」
「かわいそうですね」
星子がそっと川面を見た。今は何もない、美しい川だ。しかしその底に、どれほどの悲しみが沈んでいるのだろう。
「かわいそうというより、苦しかったのだろう。出口を求めて、長い間、彷徨っていたのだ」
「これで、楽になれましたか」
「なれたと思う」
ふたりはしばらく、並んで川を見ていた。水の音だけが、静かに流れていた。
翌日、ふたりが訪れたのは、鳥辺野《とりべの》の入口、六道の辻だった。
京の東の外れに位置するこの場所は、古くから生者と死者の境界と言われてきた。葬送の列がここを通り、死者はこの辻から冥途へと旅立つという。昼なお薄暗く、木々が鬱蒼と茂り、空気が重い。
星子は六道の辻に足を踏み入れた瞬間、体が重くなる感覚を覚えた。まるで見えない何かが、体にまとわりついてくるようだった。
「ここは、鴨川とは全然違います」
「どう違う」
「鴨川の気配は、悲しみの色でした。でもここは、もっと暗い。悲しみというより、執念のような」
星子が周囲を見回した。
六道の辻には、いくつかの石仏が並んでいた。風雨に削られ、顔が曖昧になっている。その中のひとつの陰に、黒い靄のようなものが見えた。
「あそこです」
星子が指さした場所に、不知火も目を向けた。
「見えるのかい」
「はっきりと。石仏の後ろで、ゆらゆらとしています。あれは、ひとつではないですね。重なっています」
ふたりが近づくにつれ、空気の温度が下がっていった。真夏だというのに、吐く息が白く見えそうなほどの冷たさだ。石畳の隙間から、黒い煙が細く立ち上っている。
その煙が、ゆっくりと形を作り始めた。
人の形だった。しかし輪郭が定まらず、揺らめいている。顔があるような、ないような。ただ、その気配から伝わってくるものは、圧倒的な「残りたい」という意志だった。
「この世に未練を残して死んだ者が、あやかしになって現世に留まろうとしている」
不知火が静かに言った。
「ここ数年で、この近くに住む農民一家が全滅したという記録があった。病や飢えで次々と死んでいった一家だ。彼らの恨みと未練が、この辻に凝り固まったのだろう」
「死にたくなかった人たちですね」
「そうだ」
黒い靄が、ふたりに気づいたように動いた。ゆらりと揺れて、こちらに向かってくる。その動きに意志がある。ただ漂っているのではなく、確かに、近づいてこようとしている。
「星子、後ろに」
不知火が星子の前に出た。
靄がさらに形を固め始めた。農民の姿をしている。やせ細った体、土で汚れた着物。しかしその目だけが、異様に光っていた。
「なぜ、死ななければならなかったのだ」「なぜ、我らだけが」「まだ、生きたかった」
声が重なり合う。一家全員の声が、ひとつの靄の中に混ざり合っていた。
不知火が膝を折り、地面に手をついた。印を結び、深く息を整える。その姿勢のまま、呪文を唱え始めた。声は低く、しかし揺るぎなかった。
「汝らの怒りは、聞こえている。汝らの悲しみは、わかっている。しかし、この世に留まることは、汝らの苦しみを長引かせるだけだ。行くべき道へ、行きなさい」
靄が激しく揺れた。怒っているのか、それとも、その言葉に揺さぶられているのか。
「行けぬ。まだ、行けぬ」
「何が、引き留めているのですか」
星子が思わず、前に出て問いかけた。
「星子」
「不知火さま、少し待ってください」
星子は靄に向かって、真っすぐに立った。
「あなたたちは、何が心残りなのですか。教えてください」
靄がぴたりと止まった。
しばらくの沈黙の後、声が聞こえた。今度は重なり合う声ではなく、ひとつの声だった。老いた女の声だ。
「……孫が、心配で」「あの子は、ひとりになってしまった」「誰が、面倒を見るのか」
「孫御さんがいらっしゃるのですね」
「……ひとりぼっちに、してしまった」
「わかりました。孫御さんのことは、必ず、誰かに届けます。だから、安心して行ってください」
星子がそう言った瞬間、靄がふっと和らいだ。張り詰めていた空気が、少し緩む。
「……頼む」
老女の声が、消えていくように小さくなった。
不知火が印を結び直し、呪を唱えた。石仏の後ろの地面から立ち昇っていた黒い煙が、網で絡め取られるようにひとつにまとまり、天へと昇ったかと思うと、ぱっと消えた。
残り香のように、冷たい空気だけが漂っていた。
「星子、今の約束、どうするつもりだ」
「六道の辻の近くで、ひとりで残された子供を探します。それくらいは、できますから」
不知火が少し呆れた顔をして、しかし何も言わなかった。
帰り道、東側に鴨川が見えると、不知火が逆の方向を向いた。
「別の道を歩こうか」
「私は川沿いを歩きたいです。流れを見るのも好きですし、水の音が好きです。もうすぐ桜が咲いて、きれいでしょうね」
「私は好まない」
「川がですか。桜がですか」
彼は黙っていた。少し間があって、ぽつりと言った。
「好まないのは、このあたりで、……母が身を投げたからです」
「お母さまは、入水なさったのですか。喉を突かれたのではないのですか、のみで」
「いいや。どうして、そんなことを言うんだい」
「あの家で聞きました」
「剛人が言ったのかい」
「はい」
「おかしい。私は運ばれてきた母上を見ている。ずぶ濡れで」
「喉は」
「気がつかなかった。誰もそのことについては語っていない」
ふたりはしばらく、黙って歩いた。川の音だけが静かに続いていた。
「調べてみなくてはなりませんね」
星子がそう言うと、不知火はゆっくりと頷いた。
その夜、屋敷の玄関で、不知火の足が止まった。
夕暮れの空が橙色に染まり、ひぐらしの声が遠くから聞こえてくる。今夜は塩で身を清め、ゆっくりと風呂に入る予定だった。不知火はいつも家の陰陽師たちと夕食をとり、星子の食事は部屋に運ばれる。しかしその後の時間は、自由だった。
「今夜、あとで、来てくれますか」
不知火が言った。
「はい。でも、私、不知火さまのお部屋を知りません」
「そうなのかい。では、鏡を迎えに……。いや、私が行こう」
しかし星子は下を向いたまま、動かなかった。
「だめですか」
星子が首を振ると、髪の毛がさらさらと揺れた。
「いいえ。そうではなくて」
「何でも言ってほしい」
星子はゆっくりと言葉を選んだ。
「昨日は鴨川で、水底に沈んでいた魂たちのあやかしを封印しました。今日は六道の辻で、孫を心配しながら死んだお婆さんのあやかしを封印しました。その人たちのことを思うと、ひとりで喪に服して慎みたいと思うのです。せっかくお誘いいただいたのに、すみません」
不知火はしばらく黙っていた。
「……言ってくれてありがとう。実は、私も似たようなことを思ってはいたのだけれど」
彼が珍しく、少し照れたような顔をした。
「でも、星子に大きなことを言った手前、一日伸ばしにしていては、小さな男だと思われるような気がして、それもいやだし、実は、途方にくれていたのだよ」
「どんなことがあっても、私はあなたが小さい男だなんて、思いませんから」
「ありがとう」
「では、こうしませんか。地図の赤丸の場所を全部封印したら、ふたりでゆっくりと、私が作った夕食を食べて、それから……」
星子が恥ずかしくなって、口元を隠した。
「それから、お母さまのことも調べなくてはなりませんよね」
「いいね。それがいい」
ふたりは笑顔を交わした。
星子はうれしくて、ぴょんぴょんと跳ねたいような気分だった。不知火さまがこんなに楽しそうに笑ったのは、初めてだ。星子が笑うと「笑うな」と叱っていた人なのに、実はこんなにすてきな笑顔を隠し持っていたのだ。
次の日は、都の北、鞍馬街道沿いの深い森の近くまで出かけた。
朝から空気が違った。屋敷を出た時から、星子の肌がざわついていた。普段のあやかしの気配とは、質が違う。もっと古い、もっと深いところから来る気配だ。
鞍馬の森は、古くからあやかしが棲むと言い伝えられてきた。道を進むほどに木々が深くなり、昼間でも光が届きにくくなっていく。空気がひんやりと冷たく、しかしどこか生々しい「気」が肌に感じられた。
「ここの空気は、今までとは全く違います」
星子が木々の間を見回しながら言った。
「どう違いますか」
「今までのあやかしは、どこか人間に近い気配がありました。悲しみとか、怒りとか、人間が持つ感情の延長線上にあるものでした。でも、ここのは違います。もっと根源的な、人間とは全く別の存在の気配がします」
「さすがだ。その通りだ」
不知火が星子を見た。
「ここにいるのは、人間の死から生まれたあやかしではない。この土地に太古の昔から棲み続けているあやかしだ。人間が来るずっと前から、この森にいたものたちだ」
「それが、目を覚まし始めているのですか」
「都に人が増え、森が切り開かれ、彼らの棲み処が侵されてきた。その怒りと、封印が弱まった今の状況が重なって、動き始めたのだろう」
ふたりが森の奥へと進むにつれ、空気がさらに変わっていった。
木の隙間から差し込む光が、奇妙に歪んで見える。まっすぐに差し込むはずの光が、途中で曲がって、地面に不自然な影を作っていた。
そして、音が聞こえ始めた。
風の音ではない。木の鳴る音でもない。もっと低い、大地そのものが唸るような音だ。地の底から、じわりじわりと響いてくる。
「聞こえますか」
「聞こえる」
不知火の顔が、珍しく緊張していた。
その時、大きな古木が揺れた。風もないのに、幹が震え、枝が大きく揺れる。葉が一斉に落ち、地面を覆った。そしてその古木の根元から、黒い光が滲み出てきた。
黒い光、という矛盾した表現しかできないものが、確かにそこにあった。光なのに闇のように深く、しかし確かに何かを放射している。その光に触れると、体の芯から力が抜けていくような感覚があった。
「星子、絶対に近づくな」
不知火の声が鋭かった。
星子は足を止めた。黒い光は、じわじわと広がっている。根元から幹へ、幹から枝へ。木全体が、その光に侵食されていくようだった。
不知火が大樹の前に立った。天を仰いで、目を閉じる。両手を広げ、深く呼吸を整えた。その姿が、木の大きさに比べて、ひどく小さく見えた。しかし不知火は揺るがなかった。
彼が両手から術を放ち始めた。
白い光が、不知火の掌から流れ出す。それは細い糸のように空中を進み、古木を包むように広がっていった。黒い光と白い光が触れた瞬間、空気が震えた。ふたつの光が押し合い、引き合い、木の周りで渦を巻く。
古木が、唸った。
木が唸る、という感覚を、星子はその時初めて知った。幹の奥から、地の底から響くような声が来る。怒りとも悲しみとも違う、もっと原始的な感情の声だ。
「この木に宿っているのは、何なのですか」
星子が思わず問いかけた。
「太古の精霊だ。人間が来る前からこの地を守っていた存在が、長い年月の中で歪んでしまったのだ。もともとは悪いものではない」
「歪んでしまった理由は」
「人間が、この森を傷つけてきたからだ」
不知火が答えながら、術を続ける。白い光の網が、古木をじわりと包み込んでいく。黒い光が抵抗する。しかし不知火は押し続けた。
星子は目を閉じた。
何かをしなければ、という気持ちがあった。不知火ひとりに任せてはいけない。しかし自分に何ができるのか。
幽世の巫女の力。あやかしと疎通できる力。
星子は深く息を吸い、意識を集中させた。あの時、術の印を無意識に真似して岩を割った時のように。七条市場の裏路地で、あやかしの道を見つけた時のように。体の奥から、何かがじわりと湧き上がってくるのを待った。
来た。
指先が熱くなった。
星子は両手を古木に向けて伸ばした。言葉はなかった。ただ、その精霊に向かって、心の中で語りかけた。
あなたの怒りは、わかります。あなたの悲しみも。でも、このまま歪み続けても、あなたは楽にならない。眠ってください。この森を、守り続けてきたあなたが、安らかに眠れる場所に、戻ってください。
星子の指先から、淡い光が流れ出した。不知火の白い光とは違う、温かみのある光だった。
その光が古木に触れた瞬間、唸り声が変わった。怒りの声から、何かが解けていくような声に。
黒い光が、少しずつ薄れていった。
不知火の術と星子の力が、同時に古木を包んだ。白と淡い金色の光が混ざり合い、木全体を覆っていく。やがて黒い光は完全に消え、古木は元の古木に戻った。どっしりとした幹、大きく広がる枝、青々とした葉。
森が、静かになった。
深い、穏やかな静けさだった。
不知火が大きく息を吐き、膝に手をついた。
「大丈夫ですか」
「……少し、疲れた」
「今日は、これで終わりにしましょう」
「まだ、あと」
「だめです。今日はここまで」
星子が不知火の腕を取った。不知火は珍しく、抵抗しなかった。
森を出ると、陽の光が眩しかった。都の喧騒が、遠くから聞こえてくる。
「星子」
「はい」
「今の、あなたがやったのですか」
「よくわかりません。でも、何かをした気がします」
「確かに、あなたの力があった。私ひとりでは、もっと時間がかかっていた」
星子は少し照れて、空を見上げた。青い空に、白い雲がゆっくりと流れていた。
「不知火さまが言っていましたよね。あやかしの道を見つけるだけが、私の仕事ではないと」
「言ったか」
「似たようなことを。でも、今日わかりました。私の力は、あやかしを封じることだけじゃなくて、あやかしに語りかけることもできるのかもしれません」
「そうだな」
不知火が静かに頷いた。
「月子さまも、そういう力をお持ちだったと、祖父から聞いた。あやかしを力で押さえるのではなく、言葉で解くことができた」
「祖母と、似ているのですか」
「似ているところが、ある」
それだけだったが、星子には十分だった。
ふたりは並んで、都への道を歩いた。森の出口で振り返ると、鞍馬の古木が夕暮れの光の中に静かに立っていた。
その木は、もう唸っていなかった。

