不知火は提灯に火を入れ、星子と並んで安倍家の門の外へ出た。
月と星の明かりがあっても、夜の闇は深い。提灯の橙色の光が、足元の石畳をほんのりと照らしている。しかしその先はすぐに闇に溶け、北の奥にある賀茂家までは、まだ一時間以上はかかる道のりだった。
不知火は提灯を持つ手を自然に伸ばし、星子の足元を照らした。その仕草に、星子はわずかに胸が温かくなるのを感じた。意識してそうしているのか、していないのか、この人にはわからない。
しばらく歩いたところで、石につまずいて星子がよろけた。不知火の腕がぐっとつかんで支えてくれたので、膝を打たずに済んだ。
「なんとか、なりません?」
星子が不知火の顔を見上げて言った。
「えっ、何ですか?」
「不知火さまは陰陽師なのですから、空を飛べたりしませんか?」
「飛ぶことはできません。私は天狗ではありませんから」
「それは残念。では、不知火さま、あなたには何ができるのですか?」
「占いや呪術はできますが……」
彼がちらりと星子の顔を見た。
「とてもがっかりしたお顔をしていますね」
「私、今日は疲れたので、屋敷までぱっと連れて帰ってほしいの」
「わかります」
そう言って、不知火が手を差し出した。手を引いてくれるらしい。星子はその手をしっかりと握った。思っていたよりも大きく、しっかりしている。温かい。
「しっかりした手ですね」
と、不知火のほうが先に言った。
しまった、と星子は思った。自分の手のことを忘れていた。星子は長年、農作業をしていたせいで手が鍛えられており、貴族の娘らしからぬがっしりとした手をしている。慌てて離そうとしたが、彼は手を放さなかった。
通りには、日除けのゴザがかけられた出店の跡があった。足元に野菜くずが落ちているから、昼間は八百屋が出ていたのだろう。
「あなたは庭で育てた野菜を売っていたのですよね」
「はい」
「大変でしたか」
「朝起きると、新しい芽が出ていたり、葉っぱが大きくなっていたり、そういうところは楽しいです。でも、荷物を運ぶのは大変です」
星子が重い荷物を背負う恰好をして見せた。肩をすぼめて前かがみになる、あの感じ。
「自分で運んだのですか。馬車ではなくて」
「うちは貧乏ですから、あ、ちょっと待って」
そう言ったところで、星子がふと足を止めて、耳を澄ませた。夜の静けさの中に、細い音が混じっている。
「何か聞こえますか?」
「コロコロ鳴いてる……あれはコオロギ」
「虫が好きなのですか?」
「大好きです。チキチキ鳴いてるのは、イナゴですね」
「虫の音はよいですよね」
「はい。とてもおいしいです」
不知火の足が止まった。
「何と言いましたか」
「イナゴはぷりっとしていて、コオロギは甘くて、豆みたいな味がします」
「味?」
「おいしいんですよ。虫の音を聞くと、お腹が空いちゃいます」
「虫を食べるんですか」
「もちろんです。不知火さまは食べたことがないんですか?」
「……ないです」
「もったいない。カブトムシも食べられますよ。バリバリしてて噛み応えはありますけど、飲み込みにくいのが難点ですが」
不知火が珍しく絶句していた。その顔が暗がりでも見て取れるほど固まっているのが、星子にはおかしかった。
ちょうどその時、星子がまた転びそうになり、また不知火の手に助けられた。
「足元に気をつけて。虫の話に夢中になってるからですよ」
「虫の音を聞くと、お腹が鳴るの」
星子は自分の顔が熱くなるのを感じた。でも夜の暗さが顔色を隠してくれるのは幸いだった。
「それに」
「それに、何ですか?」
「今日は誘拐されたりして、大変な一日だったので、疲れました」
「本当に、よく頑張りましたね」
その言葉が、じんわりと胸に沁みた。よく頑張りましたね、という言葉を、誰かにかけてもらったのは、いつ以来だろう。松江はいつも心配して叱るか、心配して泣くかのどちらかだったから、こういう言葉は、ほとんど聞いたことがなかった。
「姫が誘拐される物語は何度か読んだことがあるけれど……ああいう姫はみんな、美しいもの。私とは全然、違います」
暗闇の中で、不知火がわずかに間を置いた。
「……違いません」
「えっ?何が違わないのですか?」
「……それほど、悪くはない、というか」
星子は驚きすぎて、今度は本当に転んでしまった。
「痛っ」
「大丈夫ですか?」
不知火がかがんで、星子の足を確かめた。提灯の光が膝のあたりを照らしている。
「私の足、折れました」
「折れていませんよ」
不知火が着物越しに、そっと膝を叩いた。
「折れました。もう一歩も歩けません」
不知火は少し困った顔をした。しかしふと何かを思いついたように片膝をつき、背を向けて言った。
「さあ、どうぞ。早く家に帰りましょう」
「よいのですか」
「あなたは、野菜を市場まで自分で運んだのでしょう。私は男ですから、このくらいはできます」
星子が彼の背に乗ると、不知火は静かに立ち上がり、歩き出した。
その背中は、思ったよりずっと広かった。温かかった。星子はしばらく、その温もりをただ感じていた。
しばらくして、不知火が歩きながら、ぽつりと言った。
「私たちのように、不運な境遇に生まれた者は、結ばれてよいのでしょうか」
星子には、それがどういう意味かわかった。母の日子と、不知火の父の恋。そして不知火の母が日子を殺した、あの過去のことだ。
「あなたは、何を心配しているのですか?世間の声ですか?」
「いいや、世間のことではない。決して忘れられることではないのですから、こんな私たちでも、この先、うまくやっていけるのだろうかと、考えるのです」
星子はしばらく黙っていた。うまい答えが、すぐには出てこなかった。
でも、うまい答えなど、なくてもいいのかもしれない。
「私も、どうすればよいかは、わからないけれど」
星子は彼のうなじに、そっと額を押し付けた。
「とにかく、うまくやっていきましょう。ねっ」
そう口にした途端、星子の喉から嗚咽がこぼれた。泣くつもりはなかった。それなのに、声が勝手に震えた。必死に口元を押さえたが、その微かな震えは不知火にしっかりと伝わったはずだった。
彼は黙ったままだった。
しかし、彼女を支える腕に、そっと力が込められた。
言葉はなかった。それでも星子には、その腕の力が、何かを伝えてくれているような気がした。夜道は続き、提灯の明かりが揺れ、ふたりの影が暗闇に溶けていった。
第十七話「赤丸の地図と約束」
次の日、ふたりが訪れたのは、都を流れる鴨川の河原だった。
川面は朝の光を受けてきらきらと輝いているが、その美しさとは裏腹に、星子が川岸に立った瞬間、水底から響くような不気味な音が聞こえてきた。
「不知火さま、何か変な音が聞こえませんか」
「いや、私には聞こえないが」
「低くて、くぐもった、呻くような音です。何かが、下から押し上げてくるような」
星子が水面に手をかざすと、指先に刺すような冷たさを感じた。そして、水の一点から、墨を落としたように黒い波紋が広がっていく。
「星子、下がっていなさい」
不知火は川の流れに逆らうように術を発動した。彼の掌から放たれた光は、水面を滑るように進み、黒い波紋の中心で渦を巻いた。すると水底からかすかに震えるような音が響き、濁った黒い水が底へと吸い込まれるように消え去った。
川はまた、ただの川に戻った。
翌日、ふたりが訪れたのは、鳥辺野《とりべの》の入口、六道の辻だった。
昼なお薄暗いこの場所は、生者と死者の境界が曖昧になると言われている。普段は旅人や商人、あるいは葬送の列が通るばかりなのだが、この近くに住む農民一家が全滅したという記録が残っていた。
「石仏の陰に、黒い靄みたいなものが見えます」
星子がその場所を指さした。
「昨日の川とは、においからして違います。もっと重くて、冷たくて、何かにずっとしがみついているような」
「これは、この世に未練を残して死んだ者が、あやかしになって現世に戻ろうとしているのだろう」
不知火はその空気が一番よどんだ場所に近寄り、膝を折り、呪文を唱えて印を結んだ。すると、石仏の後ろの苔が生えた地面から立ち昇っていた黒い煙が、網で絡め取られるようにひとつにまとまり、天へと昇ったかと思うと、ぱっと消えた。
帰り道、東側に鴨川が見えると、不知火が逆の方向を向いた。
「別の道を歩こうか」
「私は川沿いを歩きたいです。流れを見るのも好きですし、水の音も好きです。もうすぐ桜が咲いて、きれいでしょうね」
「私は好まない」
「川がですか。桜がですか」
彼は黙っていた。少し間があって、ぽつりと言った。
「好まないのは、このあたりで、……母が身を投げたからです」
「お母さまは、入水なさったのですか。喉を突かれたのではないのですか、のみで」
「いいや。どうして、そんなことを言うんだい」
「あの家で聞きました」
「剛人が言ったのかい」
「はい」
「おかしい。私は運ばれてきた母上を見ている。ずぶ濡れで」
「喉は」
「気がつかなかった。誰もそのことについては語っていない」
ふたりはしばらく、黙って歩いた。川の音だけが静かに続いていた。
「調べてみなくてはなりませんね」
星子がそう言うと、不知火はゆっくりと頷いた。
*
屋敷の玄関で、不知火の足が止まった。
ふたりとも、一日の疲れを体に抱えていた。夕暮れの空が橙色に染まり、ひぐらしの声が遠くから聞こえてくる。今夜は塩で身を清め、ゆっくりと風呂に入る予定だった。不知火はいつも家の陰陽師たちと夕食をとり、星子の食事は部屋に運ばれる。しかしその後の時間は、自由だった。
「今夜、あとで、来てくれますか」
不知火が言った。
「はい。でも、私、不知火さまのお部屋を知りません」
「そうなのかい。では、鏡を迎えに……。いや、私が行こう」
しかし星子は下を向いたまま、動かなかった。
「だめですか」
星子が首を振ると、髪の毛がさらさらと揺れた。
「いいえ。そうではなくて」
「何でも言ってほしい」
星子はゆっくりと言葉を選んだ。
「昨日は鳥辺野で、未練を残してあやかしになった人を、今日は悲しみを抱いて亡くなった人のあやかしを封印しました。その人たちのことを思うと、ひとりで喪に服して慎みたいと思うのです。せっかくお誘いいただいたのに、すみません」
不知火はしばらく黙っていた。
「……言ってくれてありがとう。実は、私も似たようなことを思ってはいたのだけれど」
彼が珍しく、少し照れたような顔をした。
「でも、星子に大きなことを言った手前、一日伸ばしにしていては、小さな男だと思われるような気がして、それもいやだし、実は、途方にくれていたのだよ」
「どんなことがあっても、私はあなたが小さい男だなんて、思いませんから」
「ありがとう」
「では、こうしませんか。地図の赤丸の場所を全部封印したら、ふたりでゆっくりと、私が作った夕食を食べて、それから……」
星子が恥ずかしくなって、口元を隠した。
「それから、お母さまのことも調べなくてはなりませんよね」
「いいね。それがいい」
ふたりは笑顔を交わした。
星子はうれしくて、ぴょんぴょんと跳ねたいような気分だった。不知火さまがこんなに楽しそうに笑ったのは、初めてだ。星子が笑うと「笑うな」と叱っていた人なのに、実はこんなにすてきな笑顔を隠し持っていたのだ。
*
次の日は、都の北、鞍馬街道沿いの深い森の近くまで出かけた。
古くからあやかしが棲むと言い伝えられる霊的な場所だという。道を進むほどに木々が深くなり、昼間でも光が届きにくくなっていく。空気がひんやりと冷たく、しかしどこか生々しい「気」が肌に感じられた。
「ここの空気は、今までの感じとは全く違います」
星子が木々の間を見回しながら言った。
「何か見えますか」
「木の隙間から差し込む光が、奇妙に歪んで見えます。あと、何かが、うごめいています。深い眠りから覚めかけているような、そういう感じです」
「これは、森の奥深くで長い眠りについていたあやかしたちが、目覚めの兆候を見せているのだろう」
「人の世に、ずっと住み続けているあやかしもいるのですか」
「そうなのだ。とてもやっかいなあやかしだ」
不知火は森の大樹の前に立ち、天を仰いでから、呪術を始めた。彼の両手から放たれた術は、森全体を覆うように幾重にも重なる結界の幕を作り出した。それは森の古木から放たれる霊気と共鳴し、目覚めかけた妖の力を静かに鎮め、あの世へと帰し、現世へ戻ってくる道を永遠に閉ざした。
森が、深く静まり返った。
*
誰が伝えたのだろうか。賀茂不知火があやかしの道を次々と封印しているという噂が、いつの間にか都中に流れ、やがて内裏にまで届いた。
不知火にしてみれば、時明親王の病のことを忘れたことなど一日もなかった。ただ、もう少し確実な封印術を身につけてから参内しようと思っていただけだった。
それが、急いで参内せよという勅が届いた。
不知火が勅書を読んでいる時、星子が自然に隣に座った。
「明日は内裏に行くことになった。星子には、内裏のどこにあやかしの道があるのかつきとめてほしい。疲れているだろうが、よろしく頼みます」
「私は大丈夫。不知火さまこそ、お疲れではないですか」
「疲れていると言っている場合ではないからね。でも、星子のおかげで全封印のめどがついて、うれしいよ」
星子は不知火の肩に、そっと頭をのせた。
彼はいやがるどころか、その頭を優しく撫でてくれた。
こういう小さなことが、すごくうれしい。明日もがんばるぞ、という気持ちになる。何かが変わったわけではない。まだふたりの間には、越えなければならないものがある。でも、今この瞬間は、それだけで十分だった。

