陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 すでに深夜だった。
 闇の底から虫の声が響き、安倍家の屋敷は静まり返っていた。しかし、その時、虫の音が一斉に止まった。
 まるで何かを感知したかのように。
 安倍家の屋敷の門の前に、ひとりの男が立っていた。月明かりに照らし出されたその姿は、鋭い瞳を持ち、腹を据えたような静けさがあった。しかしその静けさの底には、刃のような殺気が潜んでいた。腰に帯びた刀に、手がかかっている。
「安倍剛人殿に会いに来た」
 その声の主は、賀茂不知火だった。
 声は静かだった。怒鳴ってもいないし、叫んでもいない。ただ静かだった。しかしその静けさは、嵐の前の海のような静けさで、門に出た家人は総毛立ち、震え上がりながら、すぐに屋敷の中へ案内した。
 座敷の奥から、ゆっくりと剛人が現れた。
「不知火殿、来られましたか。ここを占いで見つけられたのですか」
「星子を連れ去ったと家人が申していた。この都で、そんなことをするのは、おまえしかいない」
 剛人は無理に微笑みを作り、暑くもないのに扇子をせわしなく動かした。手持ち無沙汰を隠すような、その仕草が、わずかな動揺を示していた。
「なるほど。だが私も、おまえが来ると思っていた」
「話は無用だ。星子を返しなさい」
 剛人はその言葉に、顔をゆがめて笑った。
「もう、おまえの母親が、彼女の母を殺した話はした。どう思うか」
 不知火は一瞬、眉をひそめた。しかしその表情は、ほんの刹那で消えた。まるで、そのことをとっくに知っていたかのように。
「昔の話だ」
「昔の話、か」
 剛人が扇子を閉じた。
「他人のことならいずれは忘れもするだろうが、肉親の話はそうはいかない。とくに敬愛していた母のことなら、なおさらだ。おまえの憎しみや悲しみは、決して消えるはずがない。それに、星子さまも、母を殺した男の息子の妻になどなりたくないはずだ。そうは思わないか」
「おまえが決めるな。おまえには関係ない」
「では、殺された側の気持ちはどうなのだろうな」
「それも、おまえには関係ない」
 ふたりの間に、静かな緊張が張り詰めた。
 剛人はその意味深な微笑をさらに深めた。
「では、星子さまに決めていただきましょう。ここに残るか、おまえのもとへ帰るか。この世の中に、母を殺した女の息子のもとに、帰りたい娘がいるものだろうか」
 その時、部屋の奥から星子が姿を現した。
 襖の陰で、ふたりのやり取りを聞いていたのだ。いつから聞いていたのかは、わからない。しかしその瞳は、今、きらきらと光っていた。
「星子さま、お休みではなかったのですか。今、呼びに伺おうと思っていたところです」
 剛人がやや慌てた様子で言った。
 星子は剛人をまっすぐに見据え、はっきりと告げた。
「私は、不知火さまのところに帰ります」
 一秒の迷いもない声だった。
「星子さま」
 剛人の顔に、驚きと落胆が混じった色が浮かんだ。
「この不知火という男が、どういうつもりであなたを迎えに来たのか、分かっておられるのですか。あなたのことなど愛してはいない。それに引き換え、私はあんな恥知らずなことをしても、あなたをお救いしたかったのです。どうぞ、この気持ちをわかってください」
 星子は剛人をまっすぐに見据えたまま、静かに言った。
「不知火という男は、あやかしを鎮めるまで、あなたを利用しているだけなのです。そう申し上げたでしょう」
「私、利用されても、かまわないのです。それで人を救えるのでしたら」
「それなら、安倍家におられても同じこと。こちらのほうが敬意をもって対応させていただきますと申しております」
「でも、ひとつ、大きな違いがあります」
「違い?それは何ですか」
「ここには不知火さまがおられないことです」
 剛人が一瞬、言葉を失った。
「星子さまは、何を言っているのですか。あなたの母上を殺した男の息子ですよ。憎くはないのですか。怖くはないのですか」
「他人の心はわかりません。剛人さま、あなたの心だって、どこまでが真意なのか、さっぱりわかりません」
「どういう意味ですか」
「不知火さまが私のことをどう思っているのかは、わかりません。でも、これだけははっきりしています」
 星子は一度だけ、不知火のほうに視線をやった。彼はそこに立っていた。いつもと変わらない顔で。しかし、その目が、わずかに揺れていた。
「初めてお見かけした時から、私は不知火さまが好きなのです。人の心はわからなくても、自分の心は、わかりますから」
 しんと、座敷が静まり返った。
 剛人はしばらく黙っていた。やがて、どこか力の抜けたような笑みを浮かべた。
「愚かな女だな。母親に似ているのだろう」
「言葉に気をつけろ」
 不知火が刀に手をかけた。その声は低く、静かで、しかし怒りが確かに滲んでいた。
 星子は急いで不知火の前に出た。
「これで、わかりました」
「なにがわかったというのだ」
「不知火さまを怒らせて、騒ぎを起こさせ、失った仕事を取り戻そうという計画だということがわかりました。その手には乗りません」
 剛人が目を細めた。星子に、自分の計画を見抜かれているとは思っていなかったのだろう。
 星子は不知火のそばに歩み寄り、その袖をそっと引いた。
「不知火さま、早く連れて帰ってください。明日も大事なお仕事がありますから」
 不知火は刀から手を離し、ゆっくりと頷いた。
「うん、そうだな」
 ふたりは並んで座敷を出た。廊下を歩きながら、星子はちらりと不知火の横顔を見た。
 彼は何も言わなかった。しかし、その横顔は、いつもより少し、柔らかかった気がした。
 気がしただけかもしれない。でも星子は、それだけで十分だった。
 夜風が、ふたりの間を静かに吹き抜けた。