陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚

 安倍家の庭では、夜風が竹の葉を騒がしく揺らしていた。葉擦れの音が波のように寄せては返し、その合間に虫の声が細く響いている。 星子は椅子に座ったまま、剛人の言葉を反芻していた。 不知火さまが、私を憎んでいる。 その言葉の重さを、じっくりと確かめるように。「それならば、なぜ彼は、そんなにも私を憎んでいるのに、結婚したのですか」 星子は静かに問うた。声が震えないように、意識して低く保った。「それは、あなたの力が必要だから。それだけですよ」 剛人が穏やかに、しかしはっきりと答えた。 星子は震えそうになる手を、ぎゅっと組み直した。膝の上で、指と指が白くなるほど絡み合う。「あなた方はあやかしの道を封印し始めたというではないですか。我々が作った地図を使って」「はい。それは認めます」「あなた方は地図を作ったというのに、どうして自分たちで見つけることができなかったのですか」「ですから、あやかしの通い路を見つけるには、あなたのお力が不可欠なのですよ」 安倍剛人の声は包み込むように柔らかかった。その柔らかさが、星子にはかえって不快だった。真綿で首を絞めるような、そういう柔らかさだ。「あちらが求めていたのは、つまり、あなたのその力だけが目当てなのですよ」「その力だけが……」 星子は夢遊病者のように、その言葉を繰り返した。「賀茂家の者たちは勉学はよくしますが、もともと心のない人たち。そこに、愛などはありません」 剛人が申し訳なさそうな顔をして、静かに頷いた。 私は、ただ利用されただけなのだろうか。 婚儀の後で、不知火は言った。「この婚礼は、心を交わすものではない」と。自分を見て笑うな、とも言った。あの言葉は、憎む相手の娘と顔を合わせたくないという意味だったのだろうか。 それを思うと怒りが湧いてもいいはずなのに、星子は自分が意外なほど平静でいることに、自分でも驚いていた。「賀茂家にとって、あなたは力の源にすぎません。それ以外、ありません」 剛人は迷いなく断言した。 星子は視線を落とし、両手を膝の上で静かに整えた。何度も同じことを繰り返されると、やはり心の奥底に、じわりと痛みが広がっていく。痛みを認めたくなくて、星子は奥歯を嚙んだ。 でも、本当に彼は今も私を憎んでいるのだろうか。 最初はそうだったのかもしれない。けれど今は?あの縁側での夜、並んで月を眺めた時間は。市場で盗み食いをして赤くなっていたあの顔は。羅城門の帰り道、星子の腕を振り払わなかったあの体温は。 それだけじゃないはず、という確信が、どこかにひっそりと芽生えているのを感じた。消したくても消えない、小さな灯のように。「なぜ、私をさらってまで、この話をしたのですか」 星子が静かな声で問いかけた。「本当のことを、あなたに知っていただきたかったからです」「いいえ。そんな理由だけのはずがないでしょう。他に目的があるのでしょう」 剛人の目に、一瞬、恐れと驚きが走った。視線がかすかに逸れる。 やはり、何かある。「星子さま、私は、あなたに選んでいただきたいのです」「選ぶって、何をですか」「我々、安倍家を、です」 剛人が居住まいを正して、続けた。「我が家もまた陰陽師の一族。あやかしを鎮め、封印の術を施し、人々を守ってきました。知識と霊力をもって、妖と対峙し続けてきたのです。我々にも、あなたのお力が必要なのです。どうか、安倍家へお越しいただけませんか」「ああ、そういうことでしたか。だから私を誘拐して、ここに連れてきたわけですね」 星子は軽く溜息をついた。話が見えてきた。「家のためだけではなく、この私のためにも」「あなたのため?」 剛人は手元の袖を指先でつまむようにいじりながら、しばし沈黙した。その仕草が、どこか少年のようで、星子は少し意外に思った。「不知火殿が常にあなたの傍におられるため、星子さまとお話しする機会がありませんでした。私は星子さまのことを……、どうぞこの気持ちを察しください」「お気持ちのある方が、あんなさらい方をしますか」「不躾な手段だったこと、深くお詫びします。ですが、あの家にいても、あなたご自身にとって、よいことは何もないはずです。この家にお連れしたのは、あなたをお救いするため。なりふり構わぬ私の一途な愛だとは、思っていただけませんか」「無理です」 星子は一秒も考えずに答えた。「あ、はい。そんなに強く言われなくても」 剛人がわずかに肩を落とした。それからまた姿勢を立て直して、続けた。「今回のことは深く反省し、二度と星子さまに不愉快に思われることはいたしません。理解していただくように努めます。我が家では三顧の礼をもって、あなたを心からお迎えいたします。それに当家には、もっと詳しい資料がそろっておりますから、お仕事もしやすいかと」「その資料は、先日の勝負の時に、不知火さまに全部渡してくださるべきだったのではないですか」「渡すことは承諾しましたが、全部とは約束していません」 星子はそれを聞いて、ふうと息を吐いた。「あなたは庭のスギナのような方ですね」「どういう意味でしょうか」「抜いても抜いても出てくるので、困りものです」「しつこいという意味ですか」「そうは言っていません。スギナは生ではだめですが、熱を加えたり乾燥させるとおいしくなりますから」 星子はそう言いながら、内心でスギナという表現は申し訳なかった、スギナに、と思った。 スギナに謝っている場合ではないが。 正直に言えば、彼はスギナというよりツキヨタケだ。闇の中で青緑に美しく光るが、実は強い毒性を持つキノコ。見た目は魅力的で、それなりに誠実そうに見えても、近づけば危ない。そういう種類の人間だと、星子は思った。 ただ、彼が完全に嘘をついているとも思えなかった。 母のこと、心之丞のこと、常盤緑のこと。あの話には、嘘をついて得するものが見当たらない。つまり、あの話はおそらく本当のことだ。 では、不知火さまは、どう思っているのか。 その答えは、彼自身に聞かなければわからない。 そして星子は、怖くても、聞くつもりでいた。