陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 星子はある屋敷の一室に入れられていた。
 部屋の中央には、中華風の豪奢な細工が施された堂々たる大椅子が鎮座している。深紅の刺繍が入った厚手の布が背もたれを飾り、彫刻された龍がその腕を支えていた。その椅子はまるで支配者の玉座のように、部屋全体を圧する存在感があった。
 星子は周囲をゆっくりと見回した。
 誘拐されたにしては、あまりに丁重な扱いだ。室内には香炉から漂う異国の甘い香りが満ち、壁際には金細工の施された屏風が並んでいる。天井には絹張りの飾りが揺れ、燭台の炎を控えめに反射していた。床には厚い敷物が敷かれ、足元は柔らかい。
 恐怖が全くないわけではない。しかし、ここまで丁重に扱うということは、少なくとも今すぐ命を奪うつもりではないらしい。星子は深呼吸をして、心を落ち着かせようとした。
 命は大丈夫そうだ。
 もしかして、人違いではないのか。いや、あの男は「明原星子」と名前を呼んだ。人違いではない。では、誰が、何の目的で。
 彼女を連れてきた男たちは何も言わずに去っていった。椅子に座らせると、そのまま姿を消したのだ。逃げようと思えば逃げられるかもしれない。しかしここがどこなのかもわからないし、外には見張りがいるかもしれない。星子はひとまず動かず、じっと様子をうかがうことにした。
 それにしても、不知火さまは今頃どうしているだろう。
 星子がいないことに気がついたのはいつだろうか。もしかしたら、まだ気づいていないかもしれない。それはそれで少し悲しいが、今は関係ない。
 とにかく、来る者を見てから判断しよう。
 星子は背筋を伸ばして椅子に座り直した。どんな相手が来ても、気圧されまいと心に決めた。
 その時、夜の静けさを破るように、重厚な木の扉が軋む音を立てて開いた。
「手荒なことをして、申し訳ありません」
 そこに現れたのは、安倍剛人だった。
 彼は入口に立ち、深々と頭を下げた。その所作は丁寧で、言葉には落ち着いた丁重な響きがある。あの岩割りの勝負で見せた傲慢な態度は、今はどこにも見えなかった。
 星子は冷ややかな視線を向けた。
「こんなことをするからには、それ相応の理由があるのでしょうね」
「もちろんです。我々は、あなたさまをお救いしたかったのです」
 剛人の顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。しかしその穏やかさが、かえって星子の胸をざわつかせた。本当に親切心からそう言っているのか、それとも何か別の思惑があるのか、読めない。
「私を救いたかった、ですって」
「はい。あなたを賀茂不知火殿からお救いしたのです」
「それは余計なお世話。不知火さまは私の夫。あなたに助けていただく必要はありません」
 星子は声に力を込めた。怖いと思っているのを、悟られたくなかった。
「ですが、あなた方は本当には結婚なさっていないでしょう。賀茂家が欲しかったのは、あなたの幽世巫女としての特別な力。あなたは、ただ利用されているだけなのですよ」
 星子は静かに息を吸い込み、視線を逸らさぬまま言葉を返した。
「誰がそんな馬鹿げた噂を流したのですか。私たちは正真正銘の夫婦です」
「そうでしょうか」
 剛人が近くの卓に置かれた茶器を手に取り、湯気の立つ茶を一口すすった。まるで、この状況を楽しんでいるかのような余裕だった。
「では教えてさしあげましょう。あなた方が決して結ばれるはずのない理由を」
 決して、私たちが結ばれるはずのない理由。
 そんなものが、あるのか。
 燭台の炎が揺れ、部屋の陰影が濃くなる。星子は知らず知らず、息を詰めていた。
「あなたの母上、日子さまは若くして未亡人になられました。あなたが三歳の頃のことです。夫を亡くされた日子さまは、それからしばらくして、ある男性に心を寄せるようになりました」
 剛人が間を置いた。その間が、じわりと星子を不安にさせた。
「その男性が、不知火の父、心之丞でした」
「母が、不知火さまのお父上を?」
 星子の声が、思わず上ずった。
「そうです。信じがたい話かもしれませんが、日子さまと心之丞は密かに愛し合っていました。心之丞はすでに賀茂家に婿養子として入り、妻も子もある身でした。それでも、ふたりは逢瀬を重ねたのです」
 星子は、言葉が出なかった。
「しかしその関係を知った心之丞の妻、常盤緑さまが激怒しました。彼女は誇り高き陰陽師の家の娘。夫を奪われた怒りと、家の誇りを汚された屈辱が、彼女の中で燃え上がったのです」
 剛人の声は静かで、感情が込められていない。だからこそ、その言葉の一つひとつが、冷たい刃のように星子の胸に刺さった。
「ある夜、常盤緑さまは日子さまのもとを訪ねました。ふたりの間に何があったのか、詳しくは誰も知りません。しかし翌朝、日子さまは刺し傷を負って亡くなっているのが見つかりました」
「まさか」
「本当です。そして、その直後、常盤緑さまはのみで喉を突いて、自刃《じじん》されたのです」
 空気が、凍りついた。
 星子は震える指先を膝の上でそっと組み直した。体の奥から、冷たいものが這い上がってくる感覚があった。
「そんなこと、あるはずがないではないですか」
 そう言いながら、しかし脳裏に何かが走った。
 母のことを思い出していた。
 そういえば、母はあまり父の話をしてくれなかった。子供の頃、何度か尋ねたことがあったが、「優しい人でした」としか答えず、その顔はいつもどこか遠くを見るように悲しげだった。一度だけ、眠りながら誰かの名を呼んで、静かに涙を流していた夜があった。その名前が何だったか、幼かった星子には聞き取れなかった。
 その相手が、もしかして……。
「あるはずがないことが、あったのですよ」
 剛人が静かに続けた。
「婿養子だった心之丞は、すべての原因を作った男として、賀茂家から勘当され、都を追われました。そして不知火さまは、わずか八歳で父と母を同時に失ったことになります。父は追放され、母は傷心のまま死んだ。八歳の子供が、そのことをどう受け止めたか、想像できますか」
 星子は、黙っていた。
 八歳の不知火が、脳裏に浮かんだ。冷たい目をした、小さな子供。感情は弱さだと言い張る、あの男の子供の頃。どれほど泣いたのだろう。泣かなかったのだろうか。
「だから不知火殿は、母を奪った日子さまの娘であるあなたを、憎んでいるのです。当然のことではないですか。そんな歴史を持つ相手を本当に愛せる、とあなたは思いますか。不知火殿に、それができると思いますか。あなた自身は、できますか」
 燭台の炎が左右に揺れ、影もまた揺らめいていた。
 屋敷は静まり返り、星子の胸の鼓動だけが、剛人にも聞こえてしまいそうなほど高鳴っていた。
 不知火さまが、私を憎んでいる。
 その言葉が、胸の奥にゆっくりと、深く、刺さっていった。
 だからか、と星子は思った。
 だから、最初から冷たかったのか。だから、顔を見なかったのか。だから、感情は弱さだと言い続けたのか。
 すべてが、一本の線で繋がっていくような気がした。そしてその線は、星子の心を、静かに締め上げていった。