翌日、ふたりが向かったのは、かつて都の入口を飾った羅城門《らじょうもん》の跡地だった。
都の南の端、朱雀大路の突き当たりにそびえていたはずの巨大な門は、今や見る影もない。かつては二層の楼閣を持ち、瓦屋根の端には鬼瓦が並んでいたというが、長い年月の中で朽ち果て、今は土台石だけが草に埋もれて残っているばかりだった。
人影はまばらで、近づく者も少ない。昼間でも薄暗く、生ぬるい風が絶えず吹いている。
ここは、都に入れなかった者たちの無念が渦巻く場所だ。飢えと病で倒れた旅人、盗賊に殺された行商人、罪人として追われた者たち。世間から見捨てられ、この門の影で息絶えた無数の命が、今も地面の下に染み込んでいると言われていた。
星子は羅城門が恐ろしい場所だと聞いていたが、実際に足を踏み入れたのは今日が初めてだった。
跡地に近づくほど、空気が変わっていった。
温度が下がる。しかし寒さとは違う。体の外側が冷えるのではなく、体の内側から熱が奪われていくような、そういう冷たさだった。生ぬるい風の中に、泥と血が入り混じったような、形容しがたい嫌な臭いが漂っていた。腐敗した何かと、長年染み込んだ怨念が混ざり合ったような、鼻の奥にこびりつく臭いだ。星子は思わず袖で口元を覆った。
「ここ、怖いです」
星子が思わず身を縮めた。足が前に出ない。普段は怖いもの知らずで通っている星子だが、この場所の空気は、体の芯から何かを萎縮させるような、異質な重さがあった。
「この世に恨みを抱いて死んでいった者たちの怨念が集まっている」
不知火がそう言いながら、懐から数珠を取り出した。黒檀の珠がひとつひとつ丁寧に磨かれた、年季の入った数珠だった。
彼は荒れた土を踏みしめ、かつて門が建っていた場所の中心へと静かに進んだ。その足取りに迷いはない。こういう場所に、何度も来ているのだろう。
不知火が中心に立った瞬間、星子のすぐそばの空気が、急に冷たくなった。夏の夕暮れだというのに、肌が粟立つような寒さだ。
そして、見えた。
星子の目に、霊たちの姿が映り始めた。
最初はぼんやりとした影だった。しかしそれはじわりじわりと濃くなり、形を持ち始めた。人の形をしているが、人ではない。輪郭が定まらず、体が半透明で、地面の上に影を落とさない。
一体、二体、三体。気がつけば、跡地全体に、無数の影が揺れていた。
彼らは皆、こちらを見ていた。
怒りに満ちた目で。悲しみに満ちた目で。恨みに満ちた目で。しかしその奥に、もっと深いところに、誰かに気づいてほしいという、切実な何かがあった。
「不知火さま」
「見えるのかい」
「はい。たくさんいます。皆、こちらを見ています」
不知火が数珠を両手に絡め、深く息を吸い込んだ。そして、低く響く声で呪を唱え始めた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……」
九字を切るたびに、指先から薄く青白い火が灯った。空中をなぞるように光の文様が浮かび上がり、消え、また浮かび上がる。数珠の珠が擦れ合う音と合わせるように、周囲の地面がわずかに震えた。
その振動が合図になったかのように、霊たちが動き始めた。
ゆらりと揺れ、こちらに向かってくる。一体ではない。皆が、同時に。
地中から呻くような声が湧き上がった。人とも獣ともつかぬ、怒りと哀しみが幾重にも絡みついた声だった。低く、重く、まるで地の底から這い上がってくるようなその声は、星子の耳の奥に直接響いてくる感じがした。
「うううう、ここは、我らの、棲み処《すみか》……」
「出ていくな」「ここから、動くな」「我らは、ここにいる」
声が重なり合い、渦を巻く。それぞれに違う声なのに、同じ怒りを持った声だった。
濁った風が渦を巻き始めた。そして、無数の影が地表から這い出してきた。黒い靄のような姿をしたそれらは、かつて羅城門に集まった盗賊や疫病人、殺された旅人の霊たちだった。形がはっきりしているものもあれば、ただの染みのように地面を這うものもある。
しかしどれも、星子のほうを向いていた。
星子は、そこで気づいた。
霊たちの怒りは、不知火に向けられているのではない。星子に向けられている。より正確に言えば、星子の持つ力に向けられていた。幽世の巫女の力。あやかしと疎通できる、その力に。
「見える者がいる」「あの女には、見えている」「我らを、見てくれ」「我らの声を、聞いてくれ」
声が変わった。怒りではなく、懇願に変わっていた。
星子の胸が、締め付けられた。
影の一つが、不知火のほうへ細長く伸びた。そしてかぶさるように、彼の肩から背中へと覆いかかった。
「煩悩《ぼんのう》は塵と散れ——応身観自在天《おうじんかんじざいてん》、法界諸仏《ほっかいしょぶつ》、ここに顕現《けんげん》したまえ!」
不知火が左手で地面に五芒星《ごぼうせい》を描き、その中央に護符《ごふ》を叩きつけた瞬間、烈しい光が弾けた。雷鳴のような音があたりを轟かせ、怒号とも断末魔ともつかぬ声が、地の底から響いてきた。
「ぎゃあああああっ!」
不知火の額に汗がにじんでいる。白い衣が風にあおられ、まるで戦場の旗のように激しく翻っていた。その顔は青白く、しかし目だけが燃えるように鋭く光っていた。
「闇に潜む者どもよ、今こそ成仏の刻」
不知火が再び印を結ぶ。彼の周囲に白い光の環が現れ、門跡全体をゆっくりと包み込んでいく。
しかし霊たちは簡単には去らなかった。
光の環に押し返されながら、それでも霊たちは叫び続けた。
「裏切られた……追い払われた……なぜ我らだけが」
「生きていたかったのに……」
「なぜ、なぜ、なぜ……」
星子は見ていた。
霊たちが、不知火の封印に抵抗しながら、それでも何かを訴えようとしているのを。彼らは消えることを恐れているのではなかった。消える前に、誰かに聞いてほしかったのだ。
「不知火さま、少しだけ、待ってください」
「星子、危ない」
「大丈夫です」
星子は霊たちに向かって、一歩踏み出した。
「あなたたちの声は、聞こえています」
霊たちの動きが、一瞬止まった。
「あなたたちがここで死んだこと、誰にも気づかれなかったこと、誰にも悼まれなかったこと、私には、わかります」
「……わかるのか」
一つの霊が、ぼんやりとした顔を星子に向けた。
「わかります。あなたたちは、忘れられたくなかったのですね」
「……忘れられたくない……」「名前すら、ない……」「誰も、泣いてくれなかった……」
「私が、覚えています。あなたたちがここで生きて、死んだことを。今日、私がここに来たことを、覚えていきます」
霊たちの中に、揺らぎが生まれた。怒りが和らいでいく。長い間、ここに縛りつけていたものが、少しずつ解けていくような気配があった。
「行っていいですよ。もう、ここにいなくていいです」
星子がそう言った瞬間、不知火が最後の護符を空へと高く放り、地に両手をついて、深く頭を垂れた。
「祓《はら》え給え、清め給え!」
火のような光柱が天高く昇った。霊たちの叫びがかき消されていく。空気が大きく震え、門跡の地面から黒い影が次々に引き剥がされていった。引き剥がされるたびに、苦しそうな悲鳴と、そして最後に何か安堵したような静けさが、交互に広がった。
光がゆっくりと収まり、周囲が静かになった。
あの異様な臭気も、粘りつくような空気の重さも、もう漂っていなかった。空気が澄んでいた。夏の夕暮れの、ただの空気になっていた。
不知火は数歩よろけた。尻もちをつきそうになったところを、星子が慌てて駆け寄り、その身体を両手で支えた。
「ありがとう。ああ、疲れてしまった」
「お疲れさまでした。今日はもう帰りましょう」
星子が彼の腕をしっかりと握ったまま、来た道を歩き始めた。
しばらく歩いた時、星子が不知火を見上げた。
「不知火さまは、寝不足ですか」
「えっ、どうして」
彼の瞳が大きくなった。あ、この顔だ、と星子は思った。驚くと、こういう顔をするのだ。普段あれだけ表情を殺しているのに、こういう時だけ、不意打ちのように素顔が出る。星子は隠してあったものをこっそり見つけたような、得した気分になった。
「いいえ、別に」
わざと何でもない顔をして、星子は前を向いた。
屋敷の門をくぐる時、朝に女房が耳打ちしてくれた言葉がふと思い出された。
「ところで、不知火さま。昨夜、私をお呼びになりましたか」
「いいや」
あの女房め、口が軽すぎる。不知火は苦笑交じりにやれやれと肩をすくめた。その仕草が、普段の彼にしては妙に人間らしくて、星子は内心おかしくてたまらなかった。
「どうかしましたか」
「いや、なんでもない」
彼が少し顔を赤らめた。
その様子を見て、星子は「もしかしたら今夜もお呼びがあるかもしれない」と胸をひそかに高鳴らせながら、屋敷の中へと入っていった。

