外はすっかり暮れ、庭の草むらからは虫たちの合唱が響いていた。
鈴虫、コオロギ、クサキリの声が入り混じりながら続く音の波に、星子はそっと耳を澄ませた。虫たちは何を想い、こんなにも賑やかに歌うのだろう。いつか、不知火さまとそんなことを話してみたい。夜の庭を並んで眺めながら、他愛もないことを。
そう願いながら、星子はひとり寝殿の寝具に身を横たえた。
けれど今夜は、なかなか寝つけない。不知火さまはもう眠ってしまったのだろうか。こういう仕事には慣れているだろうから、きっと熟睡されていることだろう。
星子の脳裏に、昼間の会話がふとよみがえった。
「夫婦なのだから、秘密はなしだ」
「そんなこと、いつ約束しましたか。私たちは契約結婚で、本当の夫婦ではないのでしょう」
「契約結婚でも、夫婦は夫婦だよ」
「まだ、同じ布団に寝たことだってないのに」
あのとき彼は「寝たいのかい」と問い、星子は反射的に「夫婦なら当然じゃないですか」と言ってしまった。思い返すだけで、頬が熱くなる。
あの時、彼は「わかった」と答えたはず。
彼はまじめな人だから、もしかして、その約束を守ろうとして、今夜やってくるのかもしれない。その可能性は、大だ。
大変だ。
星子は慌てて身を起こし、這うようにして鏡台の前に向かった。月明かりを頼りに寝間着の襟元を整え、櫛で丁寧に髪を梳き、紅の瓶をそっと取り出した。鏡に映る自分と視線が合ったとたん、なぜか気恥ずかしさが込み上げてくる。それでも、唇にほんのりと紅をのせた。
深呼吸もして、心の準備もできた。さあ、よいですよ。
それなのに、不知火は一向に現れなかった。
待っても、待っても、廊下に足音はしない。
やっぱり来るはずがなかったのだ。最初に言われたあの言葉が、星子の胸に冷たく蘇る。
「この婚礼は、心を交わすものではない」
そうだった。
だから、もう眠ろう。明日も大事な一日が待っているのだから。
星子は鏡台の前を離れ、布団に戻った。紅をのせた唇のまま、目を閉じる。
*
その頃、不知火は月光のように艶めく白銀の絹寝衣を身にまとい、香を焚いていた。
白磁の香炉にくゆる沈香《じんこう》の匂いは、木々のぬくもりにかすかな甘さを溶かし込んで、静かに部屋を満たしていった。
この匂いを、星子は好むだろうか。
彼もまた、昼間の会話を忘れてはいなかった。それどころか、何度も思い返していた。あの言葉が、あの目が、頭の隅でずっと灯りを持ち続けていた。
彼は準備を整えて、女房の鏡に星子を呼びに行かせた。
しばらくすると、鏡が肩をすくめて戻ってきた。
「だめでございました」
女房が両手をぱっと広げて見せた。
「このように大の字で、豪快な寝相でございまして……。いくら呼びかけても、起きられる様子がございません」
「ああ、そうか。それならいい」
不知火がふっと目を伏せた。その表情は、いつもの冷たい凪ではなく、何か柔らかいものを押し込めたような、微妙な顔だった。
「明日の予定について少し話すつもりだった。明日、直接伝えることにしよう」
「かしこまりました」
鏡が引き下がろうとした時、不知火がふいに呼び止めた。
「鏡、このことは、星子には伝えなくてよろしい」
そう言いながら、不知火は静かに香炉の蓋を閉じた。
「たいしたことではないのだから」
沈香の残り香だけが、しばらく部屋に漂っていた。

