陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 星子が足を踏み入れた市場の裏路地は、表の賑やかさとは打って変わって、薄暗く、生ぬるい空気が澱んでいた。
 狭い道には打ち捨てられた魚の骨や腐りかけの野菜が散乱し、湿った土埃の臭いが鼻をついた。表の市場から聞こえてくる威勢のよい掛け声が、この路地に入った途端に遠のいていく。まるで、別の世界に足を踏み入れたような感覚だった。
 しかし星子が感じているのは、その暗さや臭いだけではなかった。
 何かがいる。
 体の奥から、じわりと伝わってくる気配があった。皮膚がひやりとする、あの感覚だ。しかしこれは、単なる寒さではない。もっと深いところから来る、冷たさだった。
「これ、持っていてください」
 星子は市場のおばさんからもらったおでんの串を不知火に手渡し、目を閉じて呼吸を整えながら、あちこちと歩き回った。
 意識を集中させる。雑念を消す。体の外側ではなく、内側に耳を澄ます。
 しばらくして、星子は手を振って不知火に合図をした。
「このあたり、何か感じないですか」
 星子が不知火を見上げた。
「どうなのだろうか」
 彼は目をこらし、空気の臭いを嗅ぎ、周囲の気配を探った。しかし星子には見えているものが、不知火にはまだ見えていないようだった。
「星子、あなたは自分が思うように行動してみて。私がそばにいて守るから、心配しなくていい」
「はい」
 星子は先ほど感じた気配の源を探して、意識をさらに深く集中させた。
 体の中心から、細い糸が伸びていくような感覚があった。その糸が、何かに引き寄せられていく。
 目を開く。
 右手の路地の奥、古びた大木の根元に、異様な数のカラスが集まっていた。十羽、二十羽、三十羽。いや、もっといるかもしれない。黒い影が幾重にも重なり合い、何かに群がるように地面を突いている。
 しかしそのカラスたちの様子が、どこかおかしかった。
 普通のカラスは、人間が近づけば飛び立つ。しかしこのカラスたちは、星子と不知火が近づいても、まったく動じなかった。まるで、何かに縛りつけられているかのように、執拗に同じ場所を突き続けている。その動きが、生き物の動きではなく、何かに操られているような、機械的な繰り返しに見えた。
「あそこが怪しいです」
 星子の指が、自然とカラスの集まる木を指した。
 その瞬間だった。
 カラスたちが一斉に頭を上げた。一羽も例外なく、同時に。そしてそのすべての目が、星子に向いた。
 黒い目が、一斉にこちらを見ている。
 星子の背筋に、冷たいものが走った。カラスの目が、カラスの目ではなかった。その奥に、何か別のものが宿っていた。暗く、深く、人間のものではない何かが。
 次の瞬間、カラスたちが一斉に飛び立った。
 ばっさばっさと、羽音が轟いた。黒い群れが空を覆い、太陽の光を遮る。羽音が頭上で渦を巻き、風が起きた。星子は思わず頭を抱えてしゃがんだ。
 カラスたちが去ると、路地に静寂が戻った。
 木の下には、カラスが突いてできたらしい小さな穴がいくつも開いていた。そこから、ねばりつくような邪気が、細い煙のように立ち上っているのが見えた。煙は無色透明だったが、目には見えた。空気が歪んで見えるような、陽炎に似た揺らめきが、地面から立ち上っている。
 その煙の臭いが、星子の鼻を突いた。
 腐敗した花のような、甘くて気持ち悪い臭いだった。生き物が死んだ後に放つ臭いに似ているが、もっと濃く、もっと複雑で、嗅いでいると頭がぼんやりしてくるような臭いだった。
「ここか。ここが、あやかしが通ってくる道の入口なのか」
 不知火の眼差しが、木の下の穴に釘付けになった。その目が、いつになく真剣だった。
「私、確かに感じます。でも、これは今まで感じてきたものとは少し違います」
「どう違う」
「今まで感じてきたあやかしの気配は、どこかに意志がありました。怒りとか、悲しみとか、恐れとか。でもここのは、もっと無機質な感じがします。まるで、穴が開いているだけのような」
「それが、道だからだ」
 不知火が静かに言った。
「あやかしそのものではなく、あやかしが通る道が、ここに口を開けているのだ。道には意志がない。ただ、繋がっているだけだ」
「では、ここを通ってあやかしがこの世に入ってくるということですか」
「そうだ。だから封印しなければならない」
 不知火が前に出た。
「わかった。しばらく、離れていて」
 星子は数歩後退した。
 不知火が術を行い始めた。右手を胸の前に掲げ、指を絡めて印を結ぶ。その動作は淀みなく、流れるように美しかった。周囲の空気が変わっていくのがわかった。先ほどまでの生ぬるい空気が、張り詰めた緊張感を帯びていく。
 木の下の穴から立ち上っていた煙が、不知火の動きに反応するように、激しくなった。穴が広がっているような、そんな感覚があった。まるで、封印されることを察知して、急いで何かを引き込もうとしているかのように。
 星子は息を呑んだ。
 穴の周囲の地面が、じわりと黒ずんでいく。草が枯れ、土が変色し、その黒ずみがゆっくりと広がっていった。地面の下で何かが動いているような、不規則な震えが伝わってきた。
 そして、声が聞こえた。
 声、というより、音だった。言葉ではない。しかし確かに何かを発している。低く、重く、遠くから来るような音。まるで、地の底にある巨大な何かが、この小さな穴を通して息を吐いているような。
 不知火の張りのある声が、路地に響き渡った。
「天地開闢《てんちかいびゃく》、陰陽和合《いんようわごう》、結界成就《けっかいじょうじゅ》、万物鎮魂《ばんぶつちんこん》、八方塞陳《はっぽうさいちん》」
 印を結んだ掌から、光の渦が放たれた。
 白い光だった。しかし星子が知っている白とは違う、もっと深く、もっと澄んだ白だった。その光は穴に向かって一直線に進み、触れた瞬間、穴の周囲の黒ずみが激しく反応した。
 地面が揺れた。
 わずかな、しかし確かな震えだった。穴の底から、何かが押し返してくるような力があった。光と闇が、地面のすぐ下でぶつかり合っている。
 星子は気がつくと、両手を胸の前で組んでいた。
 何かをしなければ、という衝動があった。しかし何をすればいいのかわからない。ただ、不知火の術を、自分の中で受け取るように、体を向けていた。
 その時、不思議なことが起きた。
 星子の指が、ふいに動いた。意識していなかった。しかし気がつくと、不知火が結んでいる印と同じ形を、自分の指が作っていた。
 裂地の印。
 不知火が先ほど結んでいた形だ。それを、星子の指が、無意識に真似ていた。
「裂地の印」
 不知火の声が聞こえた。
「裂地の印」
 星子も、小さく口の中で言ってみた。
 その瞬間、体の奥から熱が走った。じわりではなく、一気に。指先から、淡い光がふわりと揺らめいた。
 同時に、木の根元の穴の表面に、細かな亀裂が走った。
 亀裂は広がった。蜘蛛の巣のように、穴の周囲の地面全体に広がっていく。黒ずみが、亀裂に沿って砕けていく。
 そして穴が、閉じた。
 ゆっくりと、しかし確実に。開いていた口が、縮まり、消えていった。最後に一度だけ、地の底から低い音が響き、それからすべてが静かになった。
 煙が消えた。臭いが消えた。空気の歪みが消えた。
 路地には再び、腐敗した野菜と魚の骨の臭いだけが漂っていた。変わらない、ただの路地だった。しかし何かが、決定的に変わっていた。
 不知火が大きく息を吐き、星子のほうを振り向いた。
 初めて、きちんと目が合った。
 その顔には濃い疲労の色があった。けれど瞳の奥に、任務を完遂した静かな満足感が宿っているように見えた。そして、それだけではなかった。何か、驚きに似たものが、その目の奥にあった。
「よく見つけたね、星子」
「あれで、よかったのですか」
「上等です」
 初めて褒められた。星子はうれしすぎて、もう少しで涙ぐむところだった。
「さあ、帰ろう。都には赤丸の場所がまだたくさんある。うちに帰って休んで、明日また出かけよう。できるかい」
「できます」
「お腹が空いただろう」
「はい」
 路地を抜けると、ふたりは再び賑やかな市場に戻ってきた。干物の香ばしい匂い、威勢の良い掛け声、人々のざわめき。さっきまでとは別の世界のようだった。
 しかし星子には、その喧騒が今日はいつもより温かく感じられた。あの静寂と闇から戻ってきた後だからかもしれない。人の声が、人の匂いが、こんなにも温かいものだとは、思わなかった。
「あらっ、さっきの串刺しはどうしましたか。捨てちゃいましたか」
「いや」
「預かってもらいましたが、どこですか」
「それが」
「まさか、私が集中している間に食べてしまったということはないですよね」
「一口味見をしたら、止まらなくなってしまった。ああいうものは初めてなんだ。なかなか……うまい」
「信じられない。不知火さまが、お仕事中に盗み食いするなんて」
「ごめん」
 赤くなっている不知火を見て、星子がふふふと笑った。
「でも、私、感心しています」
「何を」
「あんな汚い場所で、よく食べられたものだと」
「もう言うな」
 今回は、星子が笑っても、不知火は睨みはしなかった。
「では、褒美に、ほしいものを何か買ってあげよう」
「ほしいもの?」
「高価なものでも何でもいい」
 不知火の問いかけに、星子は首を傾けた。いつもならこの活気ある市場で目移りするほど多くの品々に心が動くはずなのに、今は何もほしくなかった。お腹も、不思議と空いていなかった。
 胸を満たしていたのは、不知火を助けて、ひとつ問題を解決できたことのうれしさだった。
 それだけで、十分すぎるほど十分だった。