陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚

 岩割りの勝負に敗れた安倍剛人は、約束に従い一枚の地図を差し出した。
 京の町の地図で、病気が集中的に発生している場所に赤い丸が記されていた。それらは神社や寺院を避けるようにして、荒れた路地、古い屋敷の跡地、墓地や葬儀場の近く、橋の下、そして市場など、百二十三か所に及んでいた。
「ここがあやかしが出たという場所なのですね」
「そうだ」
「荒れた場所にあやかしが出るのはわかりますが、どうして市場なのでしょうか。あやかしも、人と同じで、活気のある場所が好きなのかしら」
 星子が不思議そうに呟いた。
「それはない」
「そうですよね」
「人の欲望、怒り、執着が渦巻く場所だからだろう」
 不知火の答えに、星子は感心して小さくうなずいた。この人は考えが深い。表情には出さないけれど、ものを見る目が確かだと、こういう時にわかる。
「では、この赤丸の場所へ行ってみよう。まずは七条市場だ」
「ええっ、七条市場ですか」
 星子が声を濁らせた。
「あのう、三条市場のほうがよくないですか。内裏に近いですし、大きいですよ」
「七条のほうに赤い点が多いだろう。七条だと、何か困ることでもあるのかい」
「そういうわけでは、ないのですが」

 ふたりが七条市場に入ると、道端の屋台から湯気が立ちのぼり、焼き魚や煮物の香ばしい匂いが漂ってきた。人々の活気あふれる声が飛び交い、木箱に詰められた野菜がいくつも積み上げられている。子供が走り回り、行商人が声を張り上げ、どこもかしこも人と匂いと音で満ちていた。
「不知火さまは、ここは初めてですか」
「そうだ。星子は」
「……はい、私も」
 星子は顔を少し伏せたまま歩いていた。
「おい、星子ちゃんじゃないか」
 声をかけられ、星子は思わず肩をすくめた。不知火が横で尋ねる。
「知っているのかい」
「ああ、そうでした、ここには夕食の買い物に来たことがありました。行きましょう。赤丸の場所はどこですか」
 星子は足早に通り過ぎようとした。しかし、煮物の鍋をかき回していたおばさんが顔を上げ、にっこりと笑いながら竹串に刺したおでんを差し出してきた。
「星ちゃん、久しぶりだね。元気にしていたのかい」
「ありがとうございます。でも、あのう、今日はいいです」
「どうしたのさ、これ、大好物じゃないか。最近見かけなかったけど、もう店は出さないのかい。大根が不作かい」
「あの、すみません……」
 星子は申し訳なさそうに串を受け取って、足早に歩を進めた。
「店は出さない、とは」
 不知火が歩調を合わせながら、訝しげな顔をした。
「だから、七条市場はいやだって言ったのに」
「あなたは何かを隠していますね」
「そんなことは……ありません」
「夫婦なのだから、秘密はなしだ」
「そんな約束、いつしましたか。私たちは契約結婚で、本当の夫婦ではないと、あなたが言ったのではないですか」
「契約結婚でも、夫婦は夫婦だよ」
「まだ、同じ布団で寝たことだってないのに」
 星子が頬を膨らませると、不知火は無表情のまま言った。
「寝たいのかい」
「えっ。今、何て言われました」
「私が、何か言ったか」
 不知火は自分が不用意なことを言ってしまったと気がついたのか、わずかに動揺しているようだった。冷静沈着な彼には珍しいことで、星子はそれがおかしくて、おかしくて、でも笑うと叱られるから必死にこらえた。
「言いました。でも、そんなこと、夫婦なら当然じゃないですか」
「なにが」
「もういいですから」
「わかったよ。じゃあ、まず秘密を話して」
 この人は何がわかったというのだろうか。
「私、ここで店を出していたんです」
「いつ」
「かなり前からです」
「なぜ」
「うちは貧乏で……没落貴族なので、お金がないんです。だから庭で野菜を育てて、ここで売っていました」
 不知火が、突然声をあげて笑った。
 星子は目を丸くした。この人が、声を出して笑うところを、はじめて見た。
「そんなに笑うことですか。あなたは笑ってはいけないと言いましたよね。自分は笑ってよいのですか」
「私は笑ってはいない」
「笑っていました」
「ただ呆れていただけだ」
「どうして」
「貴族の娘が市場で野菜を売るなんて、聞いたことがない」
「仕方ないでしょ。それしか生きる方法がなかったのですから」
「よその年頃の娘みたいに、屋敷に貴公子が訪ねてきたりしなかったのかい」
「うちのボロ屋を見たら、誰も来ませんよ。たいていの場合、妻側に住むことになるから、父親に財がないと駄目みたいです」
「そうなのか」
 不知火の声が、ほんのわずか、柔らかくなった気がした。
「あー、でも」
「何かあったのか」
「思い出しました。貴公子から和歌をもらったことがありました」
「いつのことだ。それで」
「そんなこと、もういいではないですか。不知火さまは、誰かに歌を送ったり、通ったりしたことはありますか」
「もちろん、あるに決まっている」
「何度くらい」
「二十八回」
「それ、嘘ですね」
「なぜわかるのだ」
「その数って、不知火さまの年齢ですよね。そういうことは、性格的に、無理かと」
「失礼な」
 不知火が足元の小石を軽く蹴った。
 星子はその仕草が、なんだかとても人間らしくて、好きだと思った。
 その時、星子が背後から飛び立った烏の姿を目で追いながら、ふいに立ち止まった。目を閉じる。
「あらっ、このあたり、感じます」
「何を」
「妖気みたいなもの。ひんやりしていて。なんだか、微妙な感覚がしませんか」
 そう言って、星子は市場の裏手へと向かって歩き始めた。不知火がその後を、静かに、しかし素早くついていく。
 市場の喧騒が遠ざかるにつれ、空気がじわりと変わっていくのを、ふたりは同時に感じていた。