陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚

 正面に、男性が座った。
 けれどその彼は、女性を一度も見ようとしなかった。まるで、そこに誰もいないかのように。空気を見るような、あるいは空気すら見ていないような、その瞳は虚ろにどこか遠くを向いたまま、微動だにしない。

「これより、契りの儀を行いまする」

 静かに響く声。
 賀茂(かも)家の年長の陰陽師(おんみょうじ)が、渋く低い声で祝詞(のりと)を詠みあげはじめた。
 
 女性は指先を強く、きつく握った。
 いよいよなんだわ、と胸が苦しくなる。喜びではない。かといって、緊張でもない。何か言葉にできないものが、肋の内側をじわりと締めつけた。

 花嫁の名前は明原星子(あけのはらほしこ)

 白無垢の袖がかすかに震えている。焚かれた香の煙が細く立ちのぼり、目の奥に染みた。瞬きをこらえながら、星子は正面を見つめつづけた。

 屋敷の一室で行われる、簡素な儀式だった。夜半、ひそやかに整えられたこの場には、祝言を取り仕切る陰陽師の他に参列者はいない。祝いの言葉も、笑い声も、杯を重ねる音もない。ただ低く流れる祝詞と、油の燃える微かな音だけが、静寂を満たしていた。

 挙式が、なぜ夜なのだろう、と星子はぼんやりと思う。そして、なぜ、こんなにひっそりと。まるで、誰にも知られてはならないもののように。

「私、陰陽師賀茂不知火(かものしらぬい)、これより明原星子と契りを結びまする」
 濃紫の婿君がそう言った。花嫁の顔を、一度も見ずに。

 その言葉を合図に、星子はそっと顔を上げた。
 その時、夫となる賀茂不知火という男の顔を、はじめて正面からまともに見た。
 どきり、と心臓が鳴った。
 顔が好み!
 あわてて、目を伏せた。

 そんなことを思うべき場面ではないと知りながら、そう思ってしまった。切れ長の目は黒曜石のように光を宿し、すっと通った鼻筋と薄い唇が、端正という言葉以外では言い表せない顔立ちを作っている。
 
 そして、気がついた。
 この顔を見るたのは、初めてではない。
 あの時の彼だったのか、と今になって思う。



 はじめて結婚の申し込みがあった時、星子はそれを断るためにひとりで賀茂家へと赴いた。

 婚礼の話は突然のことだった。
 使者が訪れたのは、その十日ほど前のこと。
 父親が残した借財のために、いよいよ屋敷を手放さなければならないと覚悟を決めかけていた日のことだった。

 乳母(おばば)の話によれば、賀茂家から縁談が来たのだという。
 条件を聞いて、星子は非常に驚いた。
 持参金は不要、この屋敷も残してくれるという。

 こんなよい縁談があるはずがない。
 普通の縁談ではない。何か裏がある。こういう変な話は、避けたほうがよいに決まっている。
 そう思って、星子は自ら出向いて断るつもりで、賀茂家の門をくぐったのだ。
 
 老いた当主の奥の部屋に案内され、その座敷で向かいあった。
 当主は星子の話をにこやかに聞きながら、しかし肝心なことは何も答えなかった。ただ、お茶を勧めながら、ゆっくりと庭を眺めていた。
 
 そこへ、若い男が入ってきた。
 当主と一言二言、短く言葉を交わし、星子のほうには目もくれず、すぐに出て行った。
 ほんの一瞬のことだった。
 
 けれど星子は、しっかりと見ていた。
 彼の瞳は、冷たい炎が揺らめく黒曜石のようだった。すべてを見透かすような鋭さを持ちながら、同時に、どこか深いところで世を憂い、何かを投げ捨てたような翳りがあった。
 
 この若い男は、この家で修業しているのだろう。
 端正な顔立ちだが、どこかに暗い陰がある。微かに口元を歪ませると、それはまるで世のすべてを嘲笑するかのような表情になった。美しいのに、ひどく感じが悪かった。いや、美しいからこそ、その冷たさがよけいに際立つのかもしれない。
 
 その時、彼は濃紫の(ほう)に赤い下襲(したがさね)、黒い石帯の束帯を身につけていた。その姿は人の心を捉えて離さないほど美しかったが、この男は、決して私を好きにはなってくれないだろう、と根拠もなく思った。

 いや、私だけではない。誰のことも、きっとこの男は好きにはならないだろう。そういう種類の人間に見えた。
 
 私を憎んでいるような空気さえ漂っていた。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
 私は結婚を断りに来たのだし、その上、この人が夫になるわけではないのだから。
 そう思ったのだ。
 
 まさか、その彼こそが縁談の相手だったとは、今の今まで、これっぽっちも知らなかった。