音と味のあいだで恋をした

「おい、お前…」
 その声は、どこかで聞いたことがある。それも一番の思い出として今も忘れずに記憶の中に生き続けている。でも、今回の声はその記憶としての声色もトーンも違っていて、重い何かが乗っかる。



 今は静かな放課後の調理室前の廊下。
 僕は毎日、所属している調理部が終わってすぐにこの調理室の中で密かにお菓子を食べる。調理部と言ってもほとんどが幽霊部員ばかり、来ていたとしてもすぐに帰る人が多い。だけど、それほど自由という強みもある。
 今日も僕以外の何人かは作り終わるなり帰り支度を進めながら、どこで遊ぶ、と次の予定を立てている。効率の良さは尊敬するが気が抜けすぎじゃないのかと心配になってしまう。しかし僕の気持ちとは裏腹に彼らはそそくさと去ってしまう。別に僕が嫌われているとか無視されているとか仲間外れにされているとか、そういうことではない。どうしても料理になると周りが見えなくなるほど没頭する。以前にも誘われていたみたいだが、肩を叩かれなければ気が付かなかった。
 さきほど作ったクッキーは自分が食べる用の失敗したものと友達にプレゼントしようと包んだクッキーの二つに分けて梱包した。
「はやく、食べたいな」
 本当ならいつものように味見していたが、今回は味見をせずに作ってしまって、今はどんな味なのかがすごく頭を離れない。この前も味見をしたのはいいが、塩と砂糖を間違えて、本来甘いはずなのにしょっぱかった。
 窓から微かに橙色が差して、夜を案ずる光が僕の身体に当たっては縁が赤く染まる。
「もう一日も終わるのか……」
 日の終わりの余韻に浸りながらも、気づけば行きつけにしている空き教室の前まで来ていた。
 扉に手を伸ばすなり、一つの影が空き教室の扉窓から覗き込む僕の眼に捕らえられる。
「……あぁ、寝てるのか、な。反対側で食べるか」
 微かな音を立てながら扉を開け閉めしても彼は起きることはなかった。横目で見た彼の近くには大胆に開かれたノートらしきものに文字が連なっている。うっすらと見えた一文には、孤独しか知らない俺を、認めてくれるだろうか、と書かれているのが見て取れた。僕の好奇心と興味はそのノートに集中していた。気が付けば僕の手はノートを一枚一枚(めく)っていた。
 ──このままでは、俺の心はどうにかなりそうだ、夢をいつか抱いても前を向けないかもしれない、君は俺を受け入れてくれ……。
「おい、お前…」
 夢中になっていた視線はその一言を機に、横にいた長身のイケメンに目が行ってしまった。
 彼は続けて────。
「そのノート…俺のだから返せ」
「え、あ、ごめんなさい! つい気になってしまって…。でもこの言葉、気持ちが凄くこもってて、僕は好きだな」
 本音の隠れた文字の数々には思いがたくさん詰まっていて、それが音に合わせて空中を飛び交う。
 僕にはそんな気がした。
「あ、あぁ。ありがとう…。じゃなくて返して」
 謝って返すなり、乱暴ではないがすぐさまノートを回収して、頬を赤くさせてそっぽを向いている。
「…もしかして朝霧(あさぎり)くん?」
「そうだけど、君は?」
「僕は小日向(こひなた)、小日向(しゅう)だよ」
「俺とお前、どっかで会ったことあったっけ」
 朝霧くん警戒心強いな、そりゃあそうだよね。僕が朝霧くん知ったのは、去年、一年生の頃の学園祭で朝霧くんが軽音部のボーカルとして舞台に出て歌ってた。
 その時の声、表情、ファンサ、全てに虜になっていった。そこからは、ちょくちょく、軽音部の楽屋から少量流れる練習の音を聞いて、彼の声で満たしていた。完全にストーカーみたいだ、そう友達に言われたが、僕はそれでもその声に救われて、学校が楽しいと感じ始めたところなんだ。だから、ほぼ推しのように朝霧くんを見てる。
「去年の、学園祭で歌を聞いて好きになりました!」
「……あぁ、そうか。ありがとう」
 僕の勢いに負けたのか、背もたれについている朝霧は、さきほどより少し壁に触れる背の面積が増えたように思えてしまった。
「てか、朝霧くん! 前々から思ってたけど、ちゃんと食べてる? 見かけるたびに心配になる!」
「うるさい…、別に心配されなくてもいい」
「ダメだよ! あ、これ食べて!」
 咄嗟に出したものは明日友達にプレゼントしようとしていたクッキー入りの袋だった。
「いらないよ。俺甘いの苦手だし」
「大丈夫! 今回のは甘さ控えめだから! でも、もし無理だと思ったら僕に返していいから」
 そう話していると放課後に一回だけ鳴る夕方を示すチャイムが空き教室にも廊下にも学校全体にこだましていく。

「…やべ、もう電車に間に合わなくなる、じゃあ僕はもう帰るから! 朝霧くんも気を付けて帰るんだよ! 遅く帰ったら変な人に捕まっちゃうかもだから気を付けてね! じゃあね!」
「お前は俺のオカンか!」
 そんなツッコミを扉を閉める音と一緒に耳に飛び込んできては、内心はすごく微笑ましいように思えた。しかも、無意識に口角が上がっていたみたいで、顔に意識を向けた時に気が付いた。



「でも嬉しいな…。推しの朝霧くんと話せて幸せ!」
 支度をする手は動きながらも口も思考もそれ以上に動き回っている。
 これからはないだろう幸せを今だけ噛みしめる。