死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 中庭には、やわらかな春の光が落ちていた。
 建国記念祭の日らしく、城の外からは遠くに人々のにぎわいが聞こえてくる。
 楽器の音、笑い声、鐘の響き。
 けれど、王城の奥にあるこの中庭だけは別の場所のように静かだった。
 噴水の水音だけが、細く絶えず耳に届いている。
 ルカはその水音を聞きながら、石造りの回廊の柱にもたれて立っていた。
 やがて、重い足取りで勇者レオンが姿を見せる。
 聖堂にいた時と同じく、その顔色は悪い。
 目の下には濃い隈があり、立っているだけでもつらそうだった。
 けれど、その疲れた様子以上に目立つのは、彼の手だった。
 指先が、わずかに震えている。
 ルカはそれを見逃さなかった。

「――座りますか?」

 そう言って、庭の端にある石の長椅子を目で示す。
 レオンは少しだけ驚いたような顔をしたが、無言でそこに腰を下ろした。
 座る動き一つにも痛みをこらえるようなぎこちなさがある。
 ルカも少し離れた場所に立ったまま、まっすぐに彼を見た。

「……レオン様は間違いなく疲れていますね」

 その言い方には気づかう色がほとんどなかった。
 事実をそのまま口にしただけの、平らな声だった。
 レオンは苦く笑う。

「……聖女を守れなかったんだ。疲れていない方がおかしいだろ」
「え、そうでしょうか?」

 ルカは首を少し傾けた。

「守れなかったことを悔やむのは自由です。でも、その感情で事実が変わるわけではありません」

 ルカの言葉に対し、レオンの眉がぴくりと動く。

「お前は……本当に、そういう言い方しかできないんだな」
「感情は大事な時もあります。でも、今は邪魔です」

 ルカはそう言い切った。

「自責も後悔も、今はただのノイズです。聞きたいのは、あなたの気持ちではありません。見た事と触れたことだけです」

 春の風が、二人の間を静かに通り抜けた。
 レオンは少しのあいだ黙っていたが、やがてゆっくりと息を吐いた。

「お前は……何を聞きたい」
「では簡単に申しますね。最後に、聖女アリアと肌が触れたのはいつですか」

 あまりにもまっすぐな問いだった。
 レオンは一瞬だけ目を見開く。

「肌が……?」
「ええ。服や手袋越しではなく、直接です」

 ルカは表情を変えない。

「最後に彼女の手や肌に触れた時の事を、できるだけ正確に思い出してください」

 レオンはすぐには答えなかった。
 噴水の音だけが静かに続き――やがて、彼は視線を下げたまま、小さく口を開いた。

「……半年前だ」
「半年前」
「叙勲式の時だよ。魔物の大群を退けた後で、王の前で褒賞を受けた。その時、アリアが……聖女が、祝いの言葉をくれた」

 レオンの声は、少しずつ遠い記憶をなぞるようにゆっくりになっていく。

「皆が見ている前で、彼女は俺の手を取った」

 そこで言葉が切れた。
 ルカは急かさず、ただ待つ。
 レオンの震えていた指先が、さらに強くこわばった。

「冷たかった」

 やがて、彼は低く言った。

「……驚くくらい、冷たかったんだ」

 ルカの目がわずかに細くなる。
 レオンはまだ自分の手を見ている。
 まるで、その時の感触が今も残っているかのようだった。

「冬の朝の石みたいだった。いや、それよりもっと……人の手じゃないみたいに冷えてた」
「脈は?」
「感じなかった」

 その答えは、ひどく小さかった。

「一瞬、変だと思った。だけど、周りには大勢人がいたし……あの時の俺は戦いの後で頭もぼんやりしていた。聖女なんだから、普通の人とは違うんだって自分でそう思い込んだ」

 レオンはそこで苦く笑った。

「馬鹿だよな。おかしいと思ったのに、見ないフリをしたんだ」

 ルカはその言葉に、優しくも厳しくもならなかった。

「見ないフリをした人は、あなただけではなさそうです」

 その淡々とした返しに、レオンは少しだけ顔を上げる。
 ルカはなおも静かな目で彼を見ていた。

「では次です。聖女の【奇跡】について聞かせてください」

 ルカの言葉を聞いて、レオンの表情が固くなる。

「……奇跡?」
「あなたは聖女の加護を受けて戦っていた。そうですね?」
「ああ、そうだ」
「どんな風に?」

 それを聞いて、レオンはしばらく黙り込んだ。
 言いたくないのだと、ルカにはわかった。
 そこには痛みだけでなく、情けなさもあるのだろう。
 けれど、ルカは待つだけだった。
 慰めもしなければ、言葉を選んでやることもしない。
 結局、折れたのはレオンの方だった。

「……最初は、傷が塞がるんだと思っていた」

 彼はぽつりぽつりと話し始める。

「戦場で体中が痛んでも、アリアが祈ると少し楽になった。剣を握れないくらい腕がしびれても、立てないほど腹を裂かれても、彼女の前に行けばまた動けるようになった」

 ルカは何も言わない。
 レオンは自分の腕を押さえるようにしながら続けた。

「でも、治ってなんかいなかったんだ」

 その声には、ようやく自分で気づいた人間の重さがあった。

「戦いが終わって、夜になると全部戻ってきた。痛みも、熱も、しびれも、傷の奥に残った嫌な感じも……全部」
「つまり、消えていたのは傷ではなく、痛みだけですか?」
「……そうだ」

 レオンはうつむく。

「次の戦いが来るたび、また聖女の祈りを受けた。そうしないと立てなかったからだ。体はどんどん悪くなっていったのに、戦っている間だけは平気なふりができた」

 風が吹き、木々の葉がかすかに揺れた。
 中庭の明るさとは反対に、話の中身はどんどん重くなっていく。
 ルカはようやく、ゆっくりと口を開いた。

「……なるほど、そうですか」
「これで、何がわかったか?」
「簡単に言いますと、聖女はあなたを治していたわけではありませんよ」

 その言葉に、レオンの顔が強張る。

「では何だと」
「痛みを消していただけです」
「それは今、俺も言っただろう」
「いいえ。もっと正確に言うなら」

 ルカはまっすぐにレオンを見た。

「――あなたの痛みを一時的にわからなくして、壊れかけた体を無理やり動かしていたんですよ」

 真っ直ぐな瞳でそのように告げるルカの姿に、レオンの喉が微かに鳴る。

「それって……」
「死霊術に近いものです」

 ルカの声はどこまでも静かだった。

「死体を動かす術を人間に使えば、似たことはできます。肉体そのものを良くするのではなく、反応を鈍らせる。痛みを感じる部分を眠らせる。そうすれば、壊れていても動ける」

 レオンは言葉を失っていた。
 ルカは続ける。

「あなたは加護を受けていたのではありません。戦えるように見せかけられていただけです」
「……そんな」
「薬で熱を下げても病気そのものが消えないのと同じです。いえ、それより悪いかもしれません。苦しさが見えなくなる分、壊れていることに気づけない」

 レオンは長椅子の上でじっと動かなかった。
 やがて、その手が膝の上で強く握られる。

「じゃあ俺は……」

 その声は震えていた。

「――俺は、もうとっくに限界だったのに……気づかず戦っていたのか」
「……気づいていたはずですよ、レオン様」

 ルカはあっさり言った。

「――ただ、見ないようにしただけです」

 その一言は、慰めよりもずっと鋭くレオンに刺さったようだった。
 彼は何かを言い返そうとして、できずに黙り込む。
 しばらくして、顔を覆うように片手を上げた。

「……アリアは、知っていたのか」

 その問いは、ルカに向けられたというより、自分自身に落としたもののように聞こえた。

「俺の体がもう駄目になってるって」
「おそらくは、ですけど……少なくとも、普通の治し方ではないと知っていたはずです」

 レオンの肩が、わずかに震えた。
 怒りなのか、悲しみなのか、後悔なのか、それは本人にもわからないだろう。
 いくつもの気持ちが重なりすぎて、もう形になっていないのかもしれない。
 ルカはその様子を見ながら、心の中で静かに考える。
 やはりそうだ――聖女は救いではなかったんだ。
 見た目だけ整った、壊れた仕組みだった。
 人々は奇跡と呼び、勇者は支えと信じ、王国は希望の象徴として祭り上げた。
 けれど、その中身はひどく冷たく、無理やりで、長く続ければ続けるほど人を壊すものだった。
 それでも運用は続いた。
 誰かが止めるまで。
 誰かが壊すまで。
 ルカは中庭に差し込む光の中で、ひとり静かに目を伏せた。
 聖女アリアがいつ死んだのか?
 誰に死なされたのか?
 それも大事だ。
 けれど今は、それ以上に見えてきたことがある。
 死んだ後も聖女を動かし続けた者たちは、ただ秘密を隠したかったわけではない。
 彼女という偶像を使い続けることで、いろいろなものを支えていたのだ。
 勇者の戦いも、民の信仰も、そして王国の安定も。
 だからこそ、この事件はただの死体の話では終わらない。
 もっと大きな歪みが、この国にはある。

「うん、今日はこれで十分です」

 ルカがそう言うと、レオンは顔を上げた。疲れ切った目をしていた。

「……十分?」
「ええ。あなたから聞きたい事は聞けましたから」

 ルカは少しだけ間を置いてから言った。

「半年前には、もう聖女の体は冷たかった。脈もなかった。奇跡は治癒ではなく、痛みを消していただけだった」

 その一つひとつを、確かめるように言葉にする。

「これで十分、次へ進めます」

 レオンは長椅子に座ったまま、苦しそうに息を吐いた。

「お前は本当に……容赦がないな」
「必要がありませんから」

 フフっと笑いながら、ルカはそう返す。

「優しい言葉は、真実を少し遅くするだけです」

 それを聞いたレオンは、怒るでもなく、ただ力なく笑った。

「そうか……」

 その笑いは乾いていて、少しだけ寂しかった。
 そのままルカは背を向け、中庭の出口へ歩き出す。
 春の光は明るいのに、その先に待つものは少しも明るくない。
 それでも彼の足取りに迷いはなかった。
 勇者は、もう聖女の奇跡なしでは戦えないところまで追い込まれていた。
 ならば、その仕組みを作り、続けさせた者がいる。
 そこに利益を見ていた者がいる。
 ルカの頭の中では、すでに次の問いが形を取り始めていた。

 ――誰が死体を聖女にしたのか?
 ――誰がその嘘を守ったのか?
 ――そして誰が、その壊れた仕組みを最も必要としていたのか?

 少年は中庭を抜けながら、小さく目を細めた。
 ようやく、この王国の腐った部分が見え始めてきた気がした。