死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―


 聖堂に落ちた沈黙の中、ルカはゆっくりと視線を床へ落とした。
 聖女アリアの遺体の傍に祭壇へ続く絨毯の端に、ほんのわずかな変色がある。
 血痕にしては色が薄すぎる――朝の光に透かせば、そこだけ繊維が不自然に固まっており、鈍く艶を帯びていた。
 ルカは何も言わずに跪く。
 白い手袋の指先で、その染みをそっとなぞった。

「何をしている」

 騎士団長バルガスが険しい声を投げるが、ルカは答えない。
 指先についたわずかな湿り気を見つめ、次にそれを鼻先へ近づける。

(……甘い、な)

 花の蜜のような、だがどこか冷たく鼻の奥に残る人工的な香り。
 ルカの瞳がわずかに細くなった。

「うん、やっぱり……」
「何かわかったのか」

 レオンの問いに、ルカは立ち上がることなく淡々と告げた。

「血ではありません。高級防腐液です」
「……防腐液?」

 王女エリザベートが震える声で答えるに対し、ルカは頷いた。

「死体の腐敗を遅らせるための魔法薬ですよ。一般にはあまり出回りません……高価ですし、調合できる術師も限られる。香りでわかります。甘さで薬臭さを隠している、上等な品です」

 ルカのその言葉を聞いて、サリエルの肩がぴくりと揺れた。
 彼はそれを見たが、まだ何も言わない。

「――待て」

 レオンが一歩前へ出た。
 蒼白な顔のまま、しかしその目には怒りが宿っている。

「あなたは何を言っている?アリアは昨日まで生きていた。確かに話したし、笑っていたんだ」

 その声には、必死な否定が混じっていた。
 ルカはようやく立ち上がり、勇者へ向き直る。

「――主観という名の誤差ですね」
「……何?」
「あなたが見たのは【生きているように見えた】彼女でしょう。本当に生きていたかどうかとは別問題です」
「ふざけるな!」

 その言葉に対し、レオンの声が聖堂に響く。
 苦しげな呼吸がさらに乱れ、肩が上下する。

「彼女は俺に言葉を返した!祈りも捧げた!あれが死体のわけが――」
「動いた。喋った。笑った。だから生きていた。実に人間らしい雑な結論です」

 ルカの声は静かだった。
 静かな分だけ、容赦がない。

「人は見たいものを見ます。信じたいものを、都合よく“事実”と呼ぶ。ですが、死体の状態は違う。そこには願望も情も入り込まない」

 少年は床の染みを指さした。

「この防腐液が、その証拠です。生者に使う理由はない。少なくとも、日常的には」

 レオンは言い返せず、歯を食いしばった。
 その横で、大神官サリエルだけが不自然なほど黙っていた。
 ルカは視線を移す。
 老人の顔色は青い。
 額の汗は先ほどより増え、指先は法衣の端をきつく握りしめている。
 聖女の死に動揺している、というだけではない。
 もっと具体的な何かに怯えている顔だった。

「……サリエル様」

 ルカが名を呼ぶと、サリエルはびくりと肩を震わせた。

「この薬品に、見覚えがありますね」
「な、何を根拠に――」
「否定が遅いんですよ……しかも、薬の種類そのものを否定しなかった。普通なら【違う】と言う場面です。なのにあなたは【何を根拠に】と来た。つまり心当たりがある」

 サリエルの唇がわなないた。

「私は……」
「さらに言えば、あなたは最初から封印の完全性ばかりを気にしていた。中にいる聖女本人よりも、封印が破損することを恐れていた。あの時点であなたはある程度わかっていたはずです。扉の向こうにいたのが、助けを求める生者ではない可能性を」
「だ、黙れ!」

 思わず、といったようにサリエルが叫んだ。
 その声はあまりに鋭く、聖堂の全員を一瞬で凍りつかせた。
 老人は自分でも失言に気づいたのか、はっと息を呑むが、もう遅い。
 ルカはまるで興味深い数字を見つけた学者のように、静かに目を細めた。

「なるほど。やはり、あなたは知っていたんですね?」
「違う……私は……」
「では何を知っていたんです?」

 詰めるでも脅すでもなく、ただ平然と問う。
 その平坦さがかえって逃げ道を奪う。
 サリエルは答えられない。
 王女エリザベートが怯えたようにサリエルを見る。

「大神官様……?まさか、本当に……アリアが……」

 エリザベートの言葉にサリエルは目を逸らした。
 その沈黙だけで十分――ルカは聖女アリアの遺体へ目を戻す。
 白銀の法衣を着ており、そして美しく整えられた髪。
 刺し傷のある胸、乾いた傷口、そして飛び散らない血。そして床の防腐液。
 死体が先にあり、その後でまるで【聖女の死】が演出された。
 ならば考えるべきは、誰が刺したかではない。
 もっと前、もっと大きな構造だ。
 ルカの思考は、静かに組み替わっていく。

 ――誰が彼女を死体にしたか?

 その問いはまだ早い。
 先に計算すべきは別の項だ。

 ――誰が、彼女を死体のまま動かし続けることで利益を得たか?

 その瞬間、彼の頭の中で王国全体の輪郭が数式のように並び始めた。
 聖女は象徴――病を癒やし、魔を退け、民に希望を与える存在。
 戦場では兵の士気を支え、王都では教会への信仰と寄進を呼び込む。
 王権の正当性を補強し、勇者の武功に神聖さを与える。

 ――もし、その聖女が途中で死んだらどうなるか?

 国は揺らぎ、そして教会は権威を失う。
 祭礼は成り立たず、寄付は減り、民の不安は一気に噴き出し、勇者譚にも傷がつく。
 王家にとっても神殿にとっても、損失はあまりに大きい。

 ――死んだ聖女を【生きていることにする】?

 非人道的だが、政治的には実に合理的だ。
 醜悪だが、よくできた仕組みだった。
 ルカはほんのわずかに口元を歪める。

「フフ……経済的には理解できますね」
「……何を、言っている」

 バルガスが低く唸るように問う。
 ルカは彼を見た。

「聖女という装置は高価なんですよ。失えば困る者が多すぎる……だから壊れた後も、無理やり動かし続けた」
「装置、だと……!」

 エリザベートが顔を強張らせる。

「人を、そんなふうに……」
「そう扱った者がいた、という話です」

 ルカは淡々と切り捨てる。

「感情で怒るのは後でいい。先に構造を見なければ」

 ルカはそのように言いながら大きく息を吸い、再びサリエルへ視線を向けた。
 大神官はもはや反論もしない。ただ青ざめ、祈るように指を組みしめている。
 その姿を見て、ルカの中でひとつの確信が形を得る。

 ――聖女アリアは、昨日死んだのではない。

(……もっと前に死んでいるって事、かな?)

 そしてその後も、誰かの都合で【聖女】を演じさせられていた。
 死霊術か、それに類する術式で。
 ルカは心の中で、その結論に小さく印をつけた。

【まぁ……ようやく、盤面が見えてきたね)

 ルカは再度笑い、この状況を楽しんでいた。
 だってこれは、これは単純な密室殺人ではない。
 死体が動き、国家がそれを利用し、誰かがその均衡を壊した事件だ。
 美しい密室の皮を被った、極めて醜い統治機構。
 少年は祭壇の前に立つ聖女の亡骸を見下ろし、静かに呟く。

「……なるほど」

 その声は冷たく、どこか愉しげですらあった。

「誰が殺したか、ではなく、誰が、この死体を生かし続けることで得をしていたのか」

 その問いこそが、この事件の中心にある。
 ルカは振り返り、蒼白な大人たちを見渡した。

「ようやく、まともな計算が始められそうです」