死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 レオンがフォール家に滞在し始めて、三日が経った。

 最初はどうにも落ち着かなかった。
 王城のような張りつめた静けさもなければ、騎士団の宿舎のような簡素さもない。
 フォール家にはちゃんと人の暮らしの音があった。
 朝には使用人が廊下を歩き、昼にはフィオナの明るい声がどこかから響き、夜にはエリオットが薬や書類を片づける気配がする。

 そして、その中心にいるルカはというと、家の中でも相変わらずルカだった。

 診察の時刻には正確に現れ、薬はきちんと飲めと無駄なく言い、休むべき時間には休めと淡々と告げる。
 心配しているのかと問えば、きっと「治療効率の問題です」とでも答えるだろう。
 実際、ほとんどそんな調子だった。
 だが、レオンにも少しずつわかってきた。
 この家の中でのルカは、王城や聖堂にいた時とは少し違う。
 冷たいのは同じでも、ここではちゃんと【弟】であり、息子の【代わり】であり、兄妹に育てられた子どもなのだ。
 その事をもっとはっきり思い知ったのは、四日目の午後のことだった。
 エリオットの診察を終えたあと、レオンは中庭に面した小さな居間で一人、湯気の立つ薬草茶を飲んでいた。
 窓の外では春の光がやわらかく庭木を照らし、風が吹くたび若い葉がさらさらと揺れている。
 体調はまだ万全ではないが、王城にいた頃よりはずっと楽だった。
 少なくとも、夜ごとに痛みで目を覚ます回数は減っている。
 その静かな時間の中、不意に、ととと、と小さな足音が廊下から近づいてきた。
 レオンが顔を上げると、扉の隙間から小さな影がのぞいた。
 金色に近い柔らかな髪。丸い目。まだ幼い頬。
 年の頃は三つか、四つにも満たないだろう。
 その子は扉のところでぴたりと止まり、じっとレオンを見つめていた。

「……?」

 レオンも思わず見返す。
 しばらくの間、奇妙な沈黙が落ちた。
 やがて、小さな影がこてんと首を傾げる。

「おにいたん、だれ?」

 あまりにも素直な問いだった。
 レオンは一瞬、答えに困った。
 勇者だ、と言うのも違う気がする。
 客人だ、と言うには相手が幼すぎる。

「……レオンだ」
「れおん?」

 幼い声が、その名を慎重に繰り返す。
 それから、ちょこちょこと部屋の中へ入ってきた。
 足取りはまだ少し危なっかしいのに、好奇心の方が勝っているらしい。

「れおん、おきゃくさま?」
「まあ、そんなところだ」
「ふーん」

 納得したのかしていないのかわからない声だった。
 小さな子はレオンの膝のあたりまで来ると、じっと顔を見上げる。
 近くで見ると、目元がどこかルカに似ていた。
 ただし、あちらのようなひややかな鋭さはなく、ただ幼い丸さだけがある。

「おまえは?」
「ぼく、るーく!」

 胸を張るようにそう言ってから、その子――ルークは少し得意げに続けた。

「るかにいたんの、おとうと!」

 なるほど、とレオンは思う。
 前にフィオナが『家族はまだいる』と言っていた気もするが、実際に会うのは初めてだった。

「ルークか」
「うん!」

 元気のいい返事だった。
 それからルークは、なぜか急に真剣な顔でレオンの腕を見た。

「れおん、びょうき?」
「病気……というか、少し怪我みたいなものだな」
「いたいの?」
「ちょっとな」

 そう答えると、ルークは小さな眉をきゅっと寄せた。
 三歳児なりに心配しているらしい。

「かわいそう……」
「ありがとう」
「るかにいたん、なおすの?」
「いや、治すのはエリオット兄さんだ」
「えりおっとにいたん、すごいもんね!」

 そう言うと、ルークは急に嬉しそうに笑った。
 どうやらこの家では、兄も姉も等しく大好きらしい。

「るかにいたんも、すごいの」
「そうだろうな」

 それには、レオンも自然に頷いた。
 すごい、というのは間違いない。
 方向性に難があるだけで。
 ルークはその返答に満足したようで、今度は勝手にレオンの向かいの椅子へよじ登ろうとし始めた。
 もちろん三歳児の力ではうまくいかず、途中で足が空を切る。

「おっと」

 レオンが手を貸すと、ルークは「ありがと!」と明るく礼を言ってどうにか椅子へ座った。
 その様子があまりにも一生懸命で、レオンは少しだけ笑ってしまう。

「れおん、わらった」
「悪い。別に馬鹿にしたわけじゃない」
「いいよ。ぼく、のぼれたもん」

 誇らしげである。
 レオンは苦笑しながら薬草茶を口にした。
 少ししてから、ルークがまた問いかけた。

「れおん、るかにいたんと、おともだち?」
「……どうだろうな」
「ちがうの?」
「友達というより……」

 そこでレオンは言葉に詰まった。
 共犯者でもない。仲間というにはまだ少し硬い。
 事件を通じて奇妙に並んだ当事者、と言うのがいちばん近いのだろうが、三歳児に説明しても伝わらない。

「……知り合い、だな」
「しりあい?」

 ルークは首を傾げた。
 どうやらあまり納得していない。

「るかにいたん、れおんのこと、おはなししてたよ」
「え?」
「れおんさまは、すぐむりするからめんどうです、って」
「……あいつ」

 思わず額を押さえたくなった。
 どうしてそういう言い方になるのか。
 けれどルークは気にした様子もなく、にこにこしている。

「でもね、るかにいたん、ちょっとたのしそうだったよ」
「……そうか?」
「うん!」

 無邪気に頷かれてしまうと、否定もできない。
 レオンはなんとも言えない気分になりながら、窓の外へ目をやった。
 春の光は穏やかだった。
 聖女の死も、密室の謎も、王国の嘘も、ここにはない。
 ただ、幼い子どもの声とあたたかい家の空気だけがある。
 その時、ルークがふと思い出したように言った。

「ぼくね、るかにいたんだいすきなの」

 それはあまりにもまっすぐな告白だった。
 レオンが視線を戻すと、ルークは小さな胸を張って続ける。

「だからしょうらい、るかにいたんみたいになるの!」

 その言葉に、レオンは数秒、本気で黙った。
 目の前にいるのは無邪気な三歳児だ。
 愛らしいし、健やかに育ってほしいとも思う。
 だからこそ、その将来像だけは、どうしても見過ごせなかった。

「…………それだけはやめた方が良いぞ?」

 思わず、心の底からそう言っていた。
 ルークはきょとん、と目を丸くする。

「なんで?」
「なんでと言われると難しいが……」
「るかにいたん、かっこいいよ?」
「それは否定しない」
「すごいよ?」
「それも否定しない」
「じゃあ、なんで?」
「性格がな……」

 そこまで言ったところで、背後からすっと冷えた声が落ちてきた。

「――聞こえていますよ、レオン様」

 振り返ると、居間の入口にルカが立っていた。
 相変わらず無駄のない姿勢で、しかし目だけはじとりとこちらを見ている。
 ルークはぱっと顔を輝かせた。

「るかにいたん!」

 椅子から降りようとして、また少し危なっかしくよろける。
 ルカは素早く近づき、その小さな体を支えた。

「走らないでください」
「はーい」
「返事だけは良いですね」
「えへへ」

 ルークは嬉しそうに笑いながら、ルカの服にぴとりとくっついた。
 そんな弟を見下ろすルカの横顔は、普段よりほんの少しだけ柔らかい。
 たぶん本人はそのつもりはないのだろうが、見ている方にはわかる程度には違っていた。

「今、れおんがね、るかにいたんみたいになるなっていった!」
「……ほう」

 ルカの目がすっと細くなる。
 レオンは嫌な予感しかしなかった。

「何か問題でも?」
「いや、だいぶあるだろう」
「心外ですね」
「お前、自分がどう見られてるか少しは自覚しろ」
「高く評価されていると理解していますが」
「そこだよ!」

 思わず声が大きくなる。
 するとルークがけらけらと笑った。

「れおん、おもしろーい!」
「おもしろくはない……」
「ありますよ」
「お前まで言うな」

 ルカはほんの少しだけ口元を上げた。
 勝ち誇るでもなく、ただ、いつもの薄い笑みよりはずっと年相応に近い表情だった。

 その様子を見て、レオンは小さく息を吐く。

 なるほど、と心の中で思う。
 こうして家の中で弟にまとわりつかれ、兄姉にからかわれているルカを見ると、たしかにルカみたいになるなとは言いたくなる。
 けれど同時に、こういう場所がこの少年にあるのだと知ると、少しだけ安心もするのだ。
 ルークはそんな大人たちの複雑な気持ちなど知らず、ルカにしがみついたまま嬉しそうに笑っている。

「ぼく、るかにいたんだいすき!」
「はいはい、知っています」
「るかにいたんも、ぼくだいすき?」
「質問が雑ですね」
「すき?」
「……嫌いではありません」
「やったー!」

 その返答で満足するあたり、兄弟というのは不思議なものだとレオンは思った。
 自分なら、そんな回りくどい言い方では納得できない気がする。
 だがルークは嬉しそうだし、ルカもそれ以上否定しない。
 午後の陽だまりの中、幼い弟の笑い声が響く。
 その音を聞きながら、レオンはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
 世界は相変わらず面倒で、嘘も罪も、きれいには片づかない。
 それでも、こういう時間はちゃんと残る。
 それだけで少しは救われるのかもしれないと、そんなことを思った。

 もっとも――

「でもやっぱり、ルカみたいになるのはおすすめしないがな」
「まだ言いますか」
「大事なことだからな」
「失礼ですね、本当に……」

 ルカのぼやきに、ルークがまた笑う。
 その笑い声はしばらく、春の光の中で明るく弾んでいた。