レオンがフォール家の応接間で紅茶を飲みながら、ようやく少し肩の力を抜き始めた頃だった。
窓の外はまだ明るく、午後の日差しがレースのカーテン越しにやわらかく差し込んでいる。
王城の石造りの冷たさとは違う、ちゃんと人が暮らしている家のぬくもりが部屋の隅々にまで行き渡っていた。
フィオナは楽しそうにルカをからかい、エリオットはその横で苦笑しながら茶器を整えている。
一方、ルカ本人は相変わらず不服そうな顔でカップを持っていた。
その時、エリオットがふとレオンに視線を向けた。
「ところで勇者殿」
「……何だ?」
「少し、手を見せてもらっても?」
唐突な言葉だった。
レオンが目を瞬かせると、向かいに座っていたルカが、いかにも今さら気づいたんですか?という顔で淡々と言った。
「そのために呼んだんですよ?」
レオンは紅茶のカップを持ったまま固まった。
「……は?」
「……兄さんは医者です」
「いや、それは今初めて聞いたが……」
「言ってませんでしたからね」
「言えよ最初に!」
思わず声が大きくなる。
するとフィオナが吹き出し、エリオットは肩をすくめた。
「やっぱり説明してなかったんだね、ルカ?」
「来ればわかると思ったので……」
「そういうところなのよ、この子」
「姉さん、それはさっき聞きました」
ルカは若干うんざりした顔でそう言ったが、レオンはそれどころではなかった。
「……つまり何だ、お前、最初から俺を診せるつもりで?」
「ええ」
「だったらそう書け!」
「勇者殿、あの短い手紙でよく来ましたよね」
「お前のせいで来たんだよ!」
レオンが眉を寄せると、ルカは少しだけ首を傾げた。
「来なかったら困ると思ったので」
「……困る?」
「治療の機会を逃すのは非効率でしょう?」
フフっと笑いながら答える。
あまりにルカらしい言い方だった。
心配だから、とか、気にしているから、とは絶対に言わない。
だが、わざわざ家へ呼びつけ、医者である兄に診せようとしていた事実そのものがもう十分に答えだった。
レオンはそれに気づいてしまって、なんだか文句を言い続けるのもばからしくなった。
「……お前、本当に言い方だけは最悪だな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
「ですが、来てよかったでしょう?」
その問いに、レオンはすぐには返せなかった。
少しだけ視線を逸らすと、フィオナがにやにやしているのが見える。明らかに面白がっていた。
「ほらねえ、やっぱり少しは気にしてるのよ」
「姉さん、余計な解説は不要です」
「照れてるの?」
「違いますよ」
「じゃあ何?」
「……面倒なんです」
ぴしゃりと言い切るルカに、フィオナは「はいはい」と笑い、エリオットは穏やかにレオンへ手を差し出した。
「では、改めて。診せてもらえますか?」
レオンは小さく息を吐いてから、右手を差し出した。
エリオットの指先は、医者らしく驚くほど丁寧だった。
手首を取り、脈を測り、指の動きを確かめ、腕の筋肉の張りや関節の硬さをひとつずつ見ていく。
そのうち表情がわずかに曇る。
「痛みは?」
「ある」
「痺れは」
「時々」
「夜の方が強い?」
「……ああ」
エリオットは頷いた。
それから少し考えるように目を伏せ、今度は肩や背中の状態まで確認し始める。
レオンは医者に身体を預けること自体に慣れてはいたが、王都の名医とも違う、家の中の落ち着いた空気の中で診られるのは妙に妙な気分だった。
やがて一通り終えると、エリオットは静かに手を離した。
「思ったより良くないですね」
「兄さん、どのくらいですか?」
ルカの声が少しだけ低くなる。
レオンはその変化に気づいたが、知らないふりをした。
「無理を重ねすぎています。痛みを消されて戦っていた反動がかなり出ている。きちんと休めば回復する部分もありますが、今のまま王城で呼び出され続けたら長引くでしょうね」
「長引く、か……」
レオンがそう呟くと、エリオットは穏やかに頷いた。
「ええ。悪化するよりはずっとましですが、少なくとも放っておいて大丈夫な状態ではありません」
その言葉に、応接間が少し静かになる。
レオンは自分の手を見下ろした。
やはりそうか――という気持ちと、改めて言葉にされると重く感じる気持ちが半分ずつだった。
勇者である前に、今の自分はただの消耗した男なのだと何度でも現実を突きつけられる。
その時だった。
「じゃあ、治るまでここにいれば?」
あまりにも軽やかに、フィオナが言った。
一瞬、誰も反応できなかった。
「――は?」
最初に声を出したのはレオンだった。
続いて、ルカが額を押さえる。
「姉さん……」
「何よ、いい案でしょう?」
「軽すぎます」
「でもお城に置いておくより、こっちで兄さんに診せながら休ませた方が良くない?」
「それは、理屈としてはそうですが……」
そこまで言って、ルカは本当に頭を抱えた。
両親を早くに亡くし、双子の兄妹に育てられた少年が、今まさに家族の自由さに振り回されている。
その図が妙におかしくて、レオンは思わず口元を押さえた。
「お前、そんな顔もするんだな」
「……今ちょっと本気で面倒になっています」
「顔に出てるぞ?」
そんな二人のやり取りを見て、フィオナはますます楽しそうだった。
「大丈夫よ、部屋はあるし。食事もちゃんと出るし、兄さんは医者だし、私もいるし」
「最後の一つは不安要素では?」
「失礼ねぇ」
「事実でしょ?」
「もう、本当に可愛げがない」
フィオナが頬を膨らませると、ルカは疲れたように息を吐いた。
その姿に、エリオットが苦笑する。
「でも、案としては悪くないよ」
「兄さんまで……」
「実際、王城よりは静かに休める。勇者殿が嫌でなければ、だけど」
全員の視線がレオンへ向いた。
レオンは少し困った。
こういう善意には慣れていない。
王城では勇者として扱われるか、事件の関係者として見られるか、そのどちらかばかりだった。
けれど今この家で向けられているのは、もっと普通の、個人に対する申し出だ。
しかも、多分発端はルカだ。
この不器用で、言い方の悪い少年が、自分の兄に診せるためにわざわざ呼んだ。
その事実がじわじわ効いてくる。
「……どうするべきだと思う?」
半分冗談、半分本気でそう言うと、ルカは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ視線を逸らしながら答える。
「身体を優先すべきかと」
「つまり?」
「……治療のために数日滞在するのは、合理的です」
言い方は最後までルカだった。
だが、その言葉を聞いたフィオナは満足げに頷く。
「はい、決まりね」
「いや、まだ俺は……」
「お城にはこっちから話を通すわ。勇者様を借りますって」
「借りますって物みたいに言うな」
「でも半分くらいそうでしょ?」
「否定しきれないのが嫌だな……」
レオンが苦く笑うと、エリオットも笑った。
ルカだけはまだ若干不本意そうだったが、それでも本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
応接間の空気は柔らかい。
外ではまだ王国が真実の後始末を続けている。
聖女の死も、教会の罪も、勇者の傷も、そう簡単に癒えるものではない。
それでも、人はこうして誰かの家で紅茶を飲み、少し先のことを勝手に決められたりしながら生き延びていくのだろう。
「……その、お世話になります」
レオンがそう言うと、フィオナはぱっと顔を明るくした。
「ええ、任せて」
「姉さんが一番信用ならないんですが」
「何ですって?」
「本当のことです」
「エリオット、この子叱って」
「二人とも落ち着いて」
そのやり取りを見ながら、レオンは少しだけ肩の力を抜いた。
王城にはない騒がしさだった。
けれど、悪くなかった。
そしてルカは、そんな空気の中で小さくため息をついた後、紅茶のカップを持ち直してぼそりと言った。
「……だから最初から、説明が面倒だったんですよ」
その言葉に、今度はレオンがはっきり笑った。
窓の外はまだ明るく、午後の日差しがレースのカーテン越しにやわらかく差し込んでいる。
王城の石造りの冷たさとは違う、ちゃんと人が暮らしている家のぬくもりが部屋の隅々にまで行き渡っていた。
フィオナは楽しそうにルカをからかい、エリオットはその横で苦笑しながら茶器を整えている。
一方、ルカ本人は相変わらず不服そうな顔でカップを持っていた。
その時、エリオットがふとレオンに視線を向けた。
「ところで勇者殿」
「……何だ?」
「少し、手を見せてもらっても?」
唐突な言葉だった。
レオンが目を瞬かせると、向かいに座っていたルカが、いかにも今さら気づいたんですか?という顔で淡々と言った。
「そのために呼んだんですよ?」
レオンは紅茶のカップを持ったまま固まった。
「……は?」
「……兄さんは医者です」
「いや、それは今初めて聞いたが……」
「言ってませんでしたからね」
「言えよ最初に!」
思わず声が大きくなる。
するとフィオナが吹き出し、エリオットは肩をすくめた。
「やっぱり説明してなかったんだね、ルカ?」
「来ればわかると思ったので……」
「そういうところなのよ、この子」
「姉さん、それはさっき聞きました」
ルカは若干うんざりした顔でそう言ったが、レオンはそれどころではなかった。
「……つまり何だ、お前、最初から俺を診せるつもりで?」
「ええ」
「だったらそう書け!」
「勇者殿、あの短い手紙でよく来ましたよね」
「お前のせいで来たんだよ!」
レオンが眉を寄せると、ルカは少しだけ首を傾げた。
「来なかったら困ると思ったので」
「……困る?」
「治療の機会を逃すのは非効率でしょう?」
フフっと笑いながら答える。
あまりにルカらしい言い方だった。
心配だから、とか、気にしているから、とは絶対に言わない。
だが、わざわざ家へ呼びつけ、医者である兄に診せようとしていた事実そのものがもう十分に答えだった。
レオンはそれに気づいてしまって、なんだか文句を言い続けるのもばからしくなった。
「……お前、本当に言い方だけは最悪だな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
「ですが、来てよかったでしょう?」
その問いに、レオンはすぐには返せなかった。
少しだけ視線を逸らすと、フィオナがにやにやしているのが見える。明らかに面白がっていた。
「ほらねえ、やっぱり少しは気にしてるのよ」
「姉さん、余計な解説は不要です」
「照れてるの?」
「違いますよ」
「じゃあ何?」
「……面倒なんです」
ぴしゃりと言い切るルカに、フィオナは「はいはい」と笑い、エリオットは穏やかにレオンへ手を差し出した。
「では、改めて。診せてもらえますか?」
レオンは小さく息を吐いてから、右手を差し出した。
エリオットの指先は、医者らしく驚くほど丁寧だった。
手首を取り、脈を測り、指の動きを確かめ、腕の筋肉の張りや関節の硬さをひとつずつ見ていく。
そのうち表情がわずかに曇る。
「痛みは?」
「ある」
「痺れは」
「時々」
「夜の方が強い?」
「……ああ」
エリオットは頷いた。
それから少し考えるように目を伏せ、今度は肩や背中の状態まで確認し始める。
レオンは医者に身体を預けること自体に慣れてはいたが、王都の名医とも違う、家の中の落ち着いた空気の中で診られるのは妙に妙な気分だった。
やがて一通り終えると、エリオットは静かに手を離した。
「思ったより良くないですね」
「兄さん、どのくらいですか?」
ルカの声が少しだけ低くなる。
レオンはその変化に気づいたが、知らないふりをした。
「無理を重ねすぎています。痛みを消されて戦っていた反動がかなり出ている。きちんと休めば回復する部分もありますが、今のまま王城で呼び出され続けたら長引くでしょうね」
「長引く、か……」
レオンがそう呟くと、エリオットは穏やかに頷いた。
「ええ。悪化するよりはずっとましですが、少なくとも放っておいて大丈夫な状態ではありません」
その言葉に、応接間が少し静かになる。
レオンは自分の手を見下ろした。
やはりそうか――という気持ちと、改めて言葉にされると重く感じる気持ちが半分ずつだった。
勇者である前に、今の自分はただの消耗した男なのだと何度でも現実を突きつけられる。
その時だった。
「じゃあ、治るまでここにいれば?」
あまりにも軽やかに、フィオナが言った。
一瞬、誰も反応できなかった。
「――は?」
最初に声を出したのはレオンだった。
続いて、ルカが額を押さえる。
「姉さん……」
「何よ、いい案でしょう?」
「軽すぎます」
「でもお城に置いておくより、こっちで兄さんに診せながら休ませた方が良くない?」
「それは、理屈としてはそうですが……」
そこまで言って、ルカは本当に頭を抱えた。
両親を早くに亡くし、双子の兄妹に育てられた少年が、今まさに家族の自由さに振り回されている。
その図が妙におかしくて、レオンは思わず口元を押さえた。
「お前、そんな顔もするんだな」
「……今ちょっと本気で面倒になっています」
「顔に出てるぞ?」
そんな二人のやり取りを見て、フィオナはますます楽しそうだった。
「大丈夫よ、部屋はあるし。食事もちゃんと出るし、兄さんは医者だし、私もいるし」
「最後の一つは不安要素では?」
「失礼ねぇ」
「事実でしょ?」
「もう、本当に可愛げがない」
フィオナが頬を膨らませると、ルカは疲れたように息を吐いた。
その姿に、エリオットが苦笑する。
「でも、案としては悪くないよ」
「兄さんまで……」
「実際、王城よりは静かに休める。勇者殿が嫌でなければ、だけど」
全員の視線がレオンへ向いた。
レオンは少し困った。
こういう善意には慣れていない。
王城では勇者として扱われるか、事件の関係者として見られるか、そのどちらかばかりだった。
けれど今この家で向けられているのは、もっと普通の、個人に対する申し出だ。
しかも、多分発端はルカだ。
この不器用で、言い方の悪い少年が、自分の兄に診せるためにわざわざ呼んだ。
その事実がじわじわ効いてくる。
「……どうするべきだと思う?」
半分冗談、半分本気でそう言うと、ルカは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ視線を逸らしながら答える。
「身体を優先すべきかと」
「つまり?」
「……治療のために数日滞在するのは、合理的です」
言い方は最後までルカだった。
だが、その言葉を聞いたフィオナは満足げに頷く。
「はい、決まりね」
「いや、まだ俺は……」
「お城にはこっちから話を通すわ。勇者様を借りますって」
「借りますって物みたいに言うな」
「でも半分くらいそうでしょ?」
「否定しきれないのが嫌だな……」
レオンが苦く笑うと、エリオットも笑った。
ルカだけはまだ若干不本意そうだったが、それでも本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
応接間の空気は柔らかい。
外ではまだ王国が真実の後始末を続けている。
聖女の死も、教会の罪も、勇者の傷も、そう簡単に癒えるものではない。
それでも、人はこうして誰かの家で紅茶を飲み、少し先のことを勝手に決められたりしながら生き延びていくのだろう。
「……その、お世話になります」
レオンがそう言うと、フィオナはぱっと顔を明るくした。
「ええ、任せて」
「姉さんが一番信用ならないんですが」
「何ですって?」
「本当のことです」
「エリオット、この子叱って」
「二人とも落ち着いて」
そのやり取りを見ながら、レオンは少しだけ肩の力を抜いた。
王城にはない騒がしさだった。
けれど、悪くなかった。
そしてルカは、そんな空気の中で小さくため息をついた後、紅茶のカップを持ち直してぼそりと言った。
「……だから最初から、説明が面倒だったんですよ」
その言葉に、今度はレオンがはっきり笑った。



