建国記念祭から数日が過ぎ、王城にはようやく本来の静けさが戻りつつあった。
あの日、王都を包んでいた華やかな鐘の音も、広場を埋めていた楽師たちの賑わいも、今はもう遠い記憶のようだった。
色鮮やかな旗は片づけられ、祝祭のために飾り立てられていた花々も、その多くがすでに萎れ始めている。
人は祭りの終わりを驚くほど早く日常に押し流していく。
けれど、王城の奥で起きたあの一夜のことだけは、そう簡単には片づかなかった。
――聖女アリアは三年前に死んでいた。
その死は毒殺だった。
大神官サリエルはその事実を隠し、死体を【聖女】として使い続けた。
そして騎士団長バルガスは、その歪みきった仕組みに終わりを与えるため密室という形で最後の破壊を加えた。
事件は終わった。少なくとも形の上では。
だが終わったからといって、全てがすぐに綺麗な形へ戻るわけではない。
寧ろ本当の意味で面倒なのは、その後だとルカは思っていた。
壊れたものが元に戻らないのと同じように、暴かれた真実もまた、もう何もなかった頃へは戻せない。
バルガスは自ら剣を預け、拘束を受け入れた。
あの夜、聖堂での講釈が終わった後も、彼は最後まで騎士団長らしい姿勢を崩さなかった。
言い逃れも、無駄な弁明もしなかった。
ただ一度だけ、祭壇の前に残された灰を見てほんの僅かに目を伏せた。
それが悔恨だったのか安堵だったのか、あるいはその両方だったのかは、本人にしかわからないだろう。
王の前で膝をつき、罪を認めた時の声は静かでどこかもう戦いのあとの兵士のようだった。
サリエルもまた、その罪を免れなかった。
三年前の毒殺犯を追わなかった事。
聖女の死を隠した事。
死体を加工し、奇跡の偶像として運用し続けた事。
それは一つひとつが重く、しかも全部が教会の中枢で行われていた。
神に仕えるはずの男が、死者を神託の道具として使い続けたのだ。
その罪が軽いはずもない。
最も彼に対してどのような裁きが下るのか、その詳細はまだ公にされていなかった。
王家も教会も流石にこの件を一息に全て白日の下へ晒すわけにはいかなかったのだろう。
真実はあまりにも重く、国の土台をそのまま揺らしかねない。
国王は、その扱いに苦慮していた。
どこまでを公表するのか。
何を伏せ、何を残し、何を切り捨てるのか。
聖女の死そのものは、もはや隠し通せない。
だが、その死体が長く運用されていたことまで民衆に知られれば、教会への信仰は大きく揺らぎ、王権もまた無傷ではいられない。
真実は必ずしもそのまま世に出されるわけではない。
そこにはいつだって、生者の都合という名の選別が入る。
ルカはそれを聞いて、特に失望もしなかった。
国とはそういうものだ。王とはそういう役割を負うものだ。
美しくないが、構造としては理解できる。
寧ろ真実を前にしてなお計算をやめられないところにこそ、この王国の本質があるのだろう。
レオンは、少しだけ変わった。
【勇者】という肩書きは、まだ彼の上に残っている。
だが、その響きは以前よりずっと空虚になった。
聖女の加護という奇跡が偽りであった以上、そこに神聖さを上乗せされていた勇者譚もまた、完全なままではいられない。
彼自身の体も、もう前のようには動かないのだろう。
歩く姿には今も疲労が滲んでいるし、顔色も良いとは言えない。
それでも、レオンは逃げなかった。
事件のあと、教会関係者や王家の側近たちが錯綜する中で、彼は何度かその場に立っていた。
真実を知って泣く者、怒る者、受け入れられずに縋る者。
その相手をするのは、確かにルカより彼の方が向いていた。
聖女に最も寄りかかり、その恩恵と代償を身をもって知っているからこそ、言葉にできることもあるのだろう。
少なくとも今の彼は【勇者】である前に、生き残った一人の人間として立っていた。
その事実を、ルカは別に口には出さなかった。
言わなくてもわかる事をわざわざ言語化するのは面倒だ。
だが、あの夜中庭で自分が渡した役割を、レオンが本当に拾い上げたのだとは理解していた。
そして今日、ルカは一人で再び聖堂へ来ていた。
昼でも夜でもない、曖昧な時刻だった。
高窓から差し込む光は白く薄く、聖堂の中を均一に冷たく照らしている。
燭台には火がない。
人の気配もない。
壊れた扉はすでに仮修復されていたが、封印の痕は完全には消えておらず、白い傷跡のように木の表面へ残っていた。
中へ入ると、空気は相変わらず冷たかった。
祭壇の前は片づけられている。
白銀の法衣も、術式の残滓も、心臓を封じていた容器も、もうここにはない。
灰もほとんど掃き清められていた。
ただ、石床の継ぎ目にごく細かな灰色の粉がわずかに残っていて、そこに嘗て何かがあったことだけは完全には消しきれていなかった。
ルカはその場所の前で足を止める。
そこは、聖女アリアが倒れていた場所。
死体が【聖女】として横たわり、最後には灰へと還った場所。
静かだった――あまりにも静かで、ここにあれほど多くの嘘と感情と罪が積み重なっていた事がかえって信じがたいほどだった。
ルカはしばらく何も言わず、その空白を見つめる。
――死者は沈黙していた。
三年前に毒で殺された時も。
奇跡の偶像として使われ続けた三年間も。
聖堂で胸を刺され、密室の中で二度目の死を与えられた時も。
アリア本人は、ついに何一つ語らなかった。
語れなかったのではない。
もうとうに語る資格を奪われていたのだ。
そこにいたのは聖女ではなく、死体であり、人形であり、国家と教会と勇者譚の都合を支えるために加工された沈黙の器だった。
その沈黙に、勝手な意味を載せたのは生者だ。
教会は信仰を守るために。
王家は国の安定を守るために。
勇者は戦うために。
王女は壊れない世界にしがみつくために。
騎士団長は人として終わらせるために。
愛も、保身も、信仰も、責任も、罪悪感も――全部が、死者の上に勝手に積まれたノイズだった。
人は見たいモノを見て、信じたいモノを信じ、そうして事実の輪郭を濁らせる。
そこにどれだけ高尚な理由を飾ろうと、構造として見ればやっていることは同じだ。
死者を黙らせたまま、生者が勝手に意味を喋り続けているだけだった。
それでも最後に残るのは、動かない事実だけだ。
三年前、聖女アリアは毒殺された――その【死】は隠された。
死体は奇跡として運用された。
そして最後に、それを終わらせたいと願った者が壊した。
式として整理すれば、答えは驚くほど単純だった。
そこへ至るまでにどれだけ多くの感情や願望が絡みついていようと、最後に残る骨格そのものは冷たく、簡潔で美しさすらあるほどだ。
だが――と、ルカは心の中でわずかに思う。
美しいのは数式の方であって、人の営みではない。
人がそこへ持ち込む愛情や執着や恐れは、いつだって計算を濁す。
だからこそ面白い、と言えるのかもしれない。
だが同時に、そこには決して清潔とは言えない後味が残るのも事実だった。
ルカは祭壇の前に立ったまま、小さく息を吐く。
風はなく、けれど高窓から入る薄い光が、石床の灰をほんの少しだけきらめかせた。
まるでそこに最後の痕跡だけが、まだ世界に居残っているようだった。
その時、背後の扉の方で微かな足音がした。
ルカは振り返る事はなく、誰かはわかっていた。
「……やっぱり、ここにいたか」
低い声、レオンだ。
彼は聖堂の入口のあたりで立ち止まり、中までは入ってこなかった。
まるでここがもう自分が簡単に踏み込んでいい場所ではないと知っているかのように。
顔色は相変わらず優れない。
だが、その目には以前のような濁りではなく、少しだけ乾いた静けさがあった。
「……少し、最後の確認をしていただけです」
「確認?」
「全部ちゃんと終わったかどうか、ですよ」
レオンは祭壇の前の空白を見た。
そこにはもう何もない。
ただ片づけられた石床と、消えきらなかったわずかな灰だけがある。
「……終わったように見えるがな」
「見えるだけで十分でしょう?」
ルカはそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑みというほどでもない、ごく僅かな歪みだった。
レオンはそれ以上何も言わなかった。
代わりに、扉のところで静かに待っていた。
聖堂の中へは深く入らない。
けれど、ルカが出るのを待つ程度には、そこにいた。
その気配を背後に感じながら、ルカは祭壇の前の空白へもう一度だけ視線を落とした。
そして、静かに呟いた。
「――死者は嘘をつかない」
その声は、誰に聞かせるでもない独白だった。
「嘘をつくのは、常に生者だけなのだから」
聖堂は何も答えない。
灰も、石床も、壊れた封印の痕も、ただ沈黙している。
ルカはその沈黙をしばらく見つめていたが、やがて踵を返した。
黒い礼装の裾が、石床を静かにかすめる。
祭壇の前を離れ、扉の方へ向かって歩いていき、その足取りに迷いはない。
もうここに残すものはないのだろう。
入口で待っていたレオンが、何も言わずに横へずれる。
ルカもまた特に言葉を交わさず、その隣を通り過ぎる。
――聖堂を出る直前に、ルカは一度だけ立ち止まった。
振り返りはしない。
それでも、背後に広がる静かな空間へ向けて、心の中でひとつだけ付け足した。
(――だから世界は、少しも美しくないんだ)
そうして少年は聖堂を後にした。
その先の回廊には淡い午後の光が差し込んでいて、外の世界は何事もなかったかのように静かだった。
レオンの足音が少し遅れて重なる。二人は言葉を交わさず、それでも同じ方向へ歩いていく。
この国の【嘘】は終わった。
偶像は灰になってしまった。
けれど、生者の時間だけはこれからも続いていくのだ。



