死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 告白のあと、聖堂はしばらく音を失っていた。
 バルガスはもう何も言わない。
 組んでいた腕をほどいたまま、ただ祭壇の前の空白を見つめている。
 そこにかつて聖女アリアの遺体が横たわっていた事を、今この場の誰よりも強く意識している顔だ。
 怒りも、開き直りもない――ただ、自分が何をしたのかを、今さらながら正面から見ているような沈黙だった。
 最初に崩れたのは、エリザベートだった。

「そんな……」

 か細い声が漏れたかと思うと、王女は口元を押さえた。
 肩が細かく震え、次の瞬間には涙が頬を伝っていた。
 堰を切ったように泣き崩れるのではない。
 ただ、ずっと張りつめていたものが静かに裂けて、声にならない悲鳴だけが零れていくような泣き方だった。

「アリアが……アリアが、そんな風に……」

 呼びかける名だけが、あまりに弱々しく聖堂に響く。だがその先は続かない。
 もう【聖女様】と呼ぶ事も【友人】と呼ぶ事もできないのだろう。
 自分が長い間に見ていたものが何だったのか、今やっと言葉にできない形で理解してしまったからだ。
 レオンはその姿を見ながら、微動だにしなかった。
 だが動けないだけだと、ルカにはわかっていた。
 怒りと理解が、彼の中でまだ噛み合っていない。
 バルガスを殴りたい気持ちもあるのだろう。
 けれど同時に、あれ以上アリアを立たせ続けたくなかったという言葉の意味も、痛いほど理解できてしまっている。
 だからこそ、怒りきれない――その不快な理解が、彼の顔色をさらに悪くしていた。
 サリエルは何も言わない、いや、言えないのだろう。
 椅子に座り込んだまま、法衣の上で手を組み、その手すら小刻みに震えていた。
 三年前に聖女を失い、その死を隠し、死体を聖女として売り続けた男。
 今さら何を言っても、自分の罪が軽くなることはないと理解している顔だった。
 国王は長い沈黙の中で、ようやく一度だけ深く息を吐いた。

「……王家もまた、この罪から逃れられぬな」

 低い声でそのように言った。
 誰に向けたわけでもない。
 けれど、王という立場にいる者が、その言葉をこの場で口にした意味は重かった。
 聖女という偶像が王国の安定に必要だったことを、彼もまた否定できないのだ。
 教会だけではない。
 勇者だけでもない。
 この国そのものが三年前から死体の上に立っていた。

 ただ、静かにルカはその全てを黙って見ていた。

 泣く王女、沈黙する大神官、揺れる勇者、項垂れる騎士団長、責任の重さを受ける王。
 誰もが感情の方へ傾いていく。
 だが、ルカだけは違った。
 違ったというより、最初からそこに付き合うつもりがなかった。
 彼にとって今必要なのは、場を処理し、式を閉じることだけだった。

「――さて」

 その一言だけで、全員の意識が再び彼へ向いた。
 ルカは祭壇の前へ一歩進み、空白となったその場所を見つめる。
 表情はいつもと変わらず、だが完全に無感動というわけでもなかった。
 ここまで来れば、あとは最後の証明を終えるだけだ。
 そう理解している者の、静かな緊張だけがそこにはある。

「では、終わらせましょう」

 冷たい声だった。
 エリザベートが涙に濡れた顔を上げる。
 レオンは息を呑み、サリエルの肩がびくりと震える。
 バルガスだけが、ゆっくりと目を閉じた。

「サリエル様」

 ルカが名を呼ぶと、大神官は疲れ切った顔で少年を見た。

「……まだ、何かあるのですか?」
「ありますよ。むしろ、これが最後です」

 ルカは淡々と言う。

「聖女アリアはまだ完全には終わっていません。核が残り、術式の残滓が繋がっている限り、【聖女】という虚構もまた完全には閉じない」

 サリエルの顔がわずかに歪む。その意味を、彼だけは正確に理解していたのだろう。
 隠し部屋で見た、あの臓器――いや、心臓。
 魔石と術式によって加工された核。
 三年前に死んだ少女を、なお聖女として立たせ続けた中心。

「……解除、するのですか」
「ええ」

 ルカはあっさりと頷く。

「死者は【墓場】へ戻すべきですから」

 その言い方に、サリエルは目を伏せた。
 皮肉でもなく、怒りでもなく、ただ秩序の話として言い切られることが、かえって残酷だった。
 しかし、ルカは笑っているが、目は全く笑っていない――まるで、人形のように。
 彼はゆっくりと立ち上がる。
 足取りは重く、法衣の裾が石床を擦った。
 隠し通路の先にあった核はすでに運び込まれていた。
 厚い水晶のような容器に封じられたまま、祭壇の前に置かれている。
 青白い液体の中で、赤黒く加工された心臓が静かに浮かんでいた。
 鼓動はなく、生きてもいない。
 なのに、あまりにも強く【聖女】を名乗るためだけに残された異様な存在感があった。
 エリザベートが、声にならない息を漏らす。
 レオンの顎が強張り、バルガスはその心臓から目を逸らさなかった。
 サリエルは容器の前に立つと、震える指を持ち上げた。
 指先に淡い光が宿る。
 それはかつて祈りを導き、祝福を授けるための神聖な光だったはずだ。
 だが今、その光が解くのは祝福ではなく、三年間積み上げられてきた冒涜の術式だ。

「……最後まで、私が」

 絞り出すような声だった。
 ルカは何も言わず、ただ一歩だけ下がった。
 やるべき役目を、最後の最後だけは術者本人に返したのだろう。
 レオンは息を詰め、エリザベートは両手を胸の前で組みしめる。
 国王もまた、厳しい顔で見守っていた。
 サリエルの指先が容器へ触れる。

 ――青白い魔法陣が床一面に広がった。

 幾重にも描かれた円と古代文字が、聖堂の石床を覆うように浮かび上がる。
 神聖な光ではない。
 死を押し留め、時間を閉じ込め、死体を人形として使い続けるために組まれた歪んだ式が、いま最後の姿を現したのだ。
 サリエルの口から短い解除の言葉が落ちる。

 次の瞬間、心臓を這っていた黒い術糸がぱきぱきと乾いた音を立てて切れ始めた。

 容器の中の液体が大きく揺れる。
 赤黒い心臓の表面に埋め込まれた小さな魔石が、一つ、また一つと光を失っていく。
 青白かった光は鈍く濁り、やがて灰色へと沈んでいく。
 そのたびに、聖堂の空気そのものがひどく古びていくようだった。
 石床の上に置かれていた白銀の法衣が、何もないはずの場所でふわりと沈んだ。
 誰かが息を呑む。

 そこにはもう、【聖女】はいなかった。

 法衣の中に保たれていた輪郭が、まるで長い夢から醒めるように崩れ始める。
 見えない内側から支えていた虚構が消え、空の器だけが本来の時間へ引き戻されていく。
 布はなお白く美しい。
 だがその中身は違う。
 今、そこに起きているのは、三年間押し留められていた時間が一気に返ってくる現象だった。
 法衣の胸元から、細かな灰がこぼれた。
 それは腐敗というより、もっと静かな崩壊。
 長く聖女の姿に保たれていたものが、とうに失われていた本来の形――何者でもない、ただの遺骸の終わりへと還っていく。
 白銀の布の襞のあいだから、さらさらと灰が落ちる。
 その光景は醜悪というより、酷く痛ましかった。

「アリア……」

 エリザベートがそう呼んだ。

 震えた声で、そのように言った。
 懇願のような、祈りのような。
 だが当然、返事はない。
 青い液体の中で最後の光を失った心臓も、祭壇の前で灰へ変わっていく法衣の中身も、もう何も返さない。
 レオンは目を見開いたまま立ち尽くしていた。
 拳を強く握っている――怒りなのか、悔しさなのか、それとももっと別の感情なのか、本人にもわからないのだろう。
 バルガスはわずかに顔を伏せた。
 サリエルは解除の光を失った指先を見つめ、その場で崩れそうなほど力を失っていた。

 ルカだけが、静かにその終わりを見ていた。

 彼の顔にはいつものような笑みはなかった。
 冷淡な観察者の表情は崩れていない。
 だが、それでも完全な無関心ではない。
 美しく飾られた聖女の偶像が、ようやくその嘘を終え、灰へ戻っていく。
 その最後を、彼なりにきちんと見届けていた。
 やがて白銀の法衣の中身は完全に崩れた。
 残ったのは、嘗てそこに何かがあったことだけを示す淡い灰と、空になった衣だけだ。

 聖女は灰になった。

 奇跡の象徴は消え、死を隠していた虚構は終わり、三年前から続いていた嘘もまた、ようやくここで閉じた。

 聖堂には誰も何も言えなかった。
 燭台の火だけが小さく揺れ、冷えた石床の上に長い影を落としている。
 その中心には、もう聖女はいない。
 偶像も、祈りも、奇跡もない。
 ただ、終わったという事実だけが静かにそこに残っていた。
 そしてその沈黙の重さを、誰一人、軽くすることはできなかった。