死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―


 魔術で封印されていた聖堂の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 建国記念祭の朝だというのに、ここには祝祭の色も音も届かない。
 ただ薄く差し込む朝の光だけが、祭壇の白い石床を冷たく照らしている。
 その中央に、聖女アリアは倒れていた。
 祭壇の前へ身を投げ出すように伏し、胸には刃が深々と突き立っている。
 白銀の法衣は清らかなままで大きく乱れた様子もない。
 床にも血飛沫はほとんどなく、惨劇の現場というより誰かが丹念に整えた静物画のようだった。

 ――美しい。

 あまりにも美しく、だからこそ異様だった。

「アリア様……!」

 震えた声を上げたのは、王女エリザベートだった。
 彼女は青ざめた顔で数歩よろめき、口元を押さえる。
 大きく見開かれた目には涙が滲んでおり、その視線は倒れた聖女から離れない。

「そんな……どうして……どうして、こんな……」

 掠れた声は途中で悲鳴に変わったかのように。
 その痛ましい響きが聖堂に広がっても、鑑定士であるルカはほとんど反応を示さなかった。
 彼は王女を一度だけ冷ややかに見やり、それから何事もなかったかのように遺体のそばへ歩み寄る。

「ルカ様……聖女様に何を――」

 サリエルが声をかけたがルカは答える膝をついた。
 白い手袋越しに、聖女アリアの右手を取る。
 その指先は、蝋細工のように白く見える。

「……なるほど」

 ルカが静かに呟いた次の瞬間――ぱき、と乾いた音がした。

「……っ!」

 エリザベートが息を詰める。
 ルカは聖女の人差し指を、不自然な角度に折り曲げていた。
 生きた人間なら決してありえない方向へ、なんのためらいもなく。

「何をしている!」

 最初に怒鳴ったのは騎士団長バルガスだった。
 鎧を鳴らし、ルカへ詰め寄る。

「貴様、聖女様のご遺体に――!」
「フフ、ご遺体だからですよ騎士団長」

 ルカは静かに笑いながら淡々と答えた。
 顔も上げないまま、折れた指先を静かに見つめている。

「死後数時間?冗談はやめてくださいよ、本当に」

 その言葉に、聖堂の空気がぴたりと止まった。
 バルガスが眉をひそめる。

「……何だと?」

 ルカはようやく立ち上がり、一同を見回した。
 その目には怯えも遠慮もなく、ただ事実だけを突きつける冷たさがある。
 だが、ルカは笑っていた。
 まるでこの状況を楽しんでいるかのように。

「死後硬直すら起きていない……いえ、正確には、起きる【段階】をとうに過ぎている、と言うべきでしょうか?」
「な……何を馬鹿なことを言っているのですかルカ様!」

 ルカの言葉を聞いたサリエルが声を荒げるように返事を返す。

「あ、アリア様は昨夜まで、確かに生きておられた!この封印聖堂にご自身の足で入られたのだ!」
「サリエル様、そう見えた、の間違いでは?」

 ルカの返答はあまりに素っ気なかった。
 サリエルの顔色が変わる。

「貴様……!」

 だが、ルカは相手の怒りには興味がないとでも言うように、再び聖女へ視線を落とした。
 胸に刺さった刃。
 その周囲の布。
 傷口の縁。
 そして、床に落ちた、ごくわずかな染み。
 観察するたびに、彼の中で数式が整っていく。

「うん……やはり」

 小さく呟く。
 ルカのその姿を見つめた勇者であるレオンが壁から身体を離し、低い声で問うた。

「ルカ殿、何が見える?」

 勇者の顔は蒼白だった。
 だがその目だけは、苦痛よりも真実を求めていた。
 レオンの言葉を聞かず、ルカは傷口へそっと顔を寄せた。
 血の匂いは薄く、そして新しい死体特有の生々しさもない。
 代わりに感じるのは、乾いた布と古い薬品のような、妙に冷たい匂いだった。
 傷の縁は赤くない。
 いや、赤みそのものが足りなかった。

「……不思議ですね。傷口が乾いています」
「乾いて……?」

 ルカの言葉にエリザベートが震える声で繰り返す。

「これは、刺されたばかりの傷では、ありませんね……フフ、本当に不思議です」

 ルカは静かに立ち上がる。
 その口調には、芝居がかった重みももったいぶった間もない。
 彼は、真実しか語らないのだから。

「死体は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって現場の方ですから」

 少年の言葉に、誰も言葉を返せなかった。
 その間聖女は朝の光の下、白銀の法衣をまとった聖女はなおも美しく横たわっている。
 まるで眠っているかのように穏やかな顔で。
 けれどその静けさは命の終わりのそれではなく、もっと別の、長く放置された何かのようだった。
 ルカは祭壇の前をゆっくりと見回す。
 色々と視線を向けながら、頭の中で考えていた。
 乱れのない法衣に飛び散らない血。
 乾いた傷口と、死後数時間では説明のつかない肉体の状態。
 完璧に見えた密室――興奮していたのだが、一気に冷めた感じがした。
 だが、その数式には決定的な欠陥がある。

「この現場には、致命的な誤植があります」

 ルカはそう言って、聖女アリアの遺体を見下ろした。

「彼女は――刺される前から、すでに【死体】だった、と言うべきでしょうか?」

 その言葉が落ちた瞬間、エリザベートの唇から小さな悲鳴が漏れた。

「う、そ……」

 バルガスは目を見開いたまま動かない。
 サリエルは何かを言おうとして、しかし声にならず喉を震わせただけだった。
 レオンだけが、どこか覚悟していた者のように目を伏せる。
 聖堂に満ちる沈黙は、先ほどまでとは違っていた。
 それは神聖な沈黙ではない。
 積み重ねられた嘘が一つ、剥がれ落ちたときの沈黙沈黙――ルカはその重さを意に介さず、ゆっくりと手袋の指先を払った。

「さて」

 少年の声だけが、異様に澄んで響く。

「ようやく、まともな話ができそうですね皆さん」