魔術で封印されていた聖堂の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
建国記念祭の朝だというのに、ここには祝祭の色も音も届かない。
ただ薄く差し込む朝の光だけが、祭壇の白い石床を冷たく照らしている。
その中央に、聖女アリアは倒れていた。
祭壇の前へ身を投げ出すように伏し、胸には刃が深々と突き立っている。
白銀の法衣は清らかなままで大きく乱れた様子もない。
床にも血飛沫はほとんどなく、惨劇の現場というより誰かが丹念に整えた静物画のようだった。
――美しい。
あまりにも美しく、だからこそ異様だった。
「アリア様……!」
震えた声を上げたのは、王女エリザベートだった。
彼女は青ざめた顔で数歩よろめき、口元を押さえる。
大きく見開かれた目には涙が滲んでおり、その視線は倒れた聖女から離れない。
「そんな……どうして……どうして、こんな……」
掠れた声は途中で悲鳴に変わったかのように。
その痛ましい響きが聖堂に広がっても、鑑定士であるルカはほとんど反応を示さなかった。
彼は王女を一度だけ冷ややかに見やり、それから何事もなかったかのように遺体のそばへ歩み寄る。
「ルカ様……聖女様に何を――」
サリエルが声をかけたがルカは答える膝をついた。
白い手袋越しに、聖女アリアの右手を取る。
その指先は、蝋細工のように白く見える。
「……なるほど」
ルカが静かに呟いた次の瞬間――ぱき、と乾いた音がした。
「……っ!」
エリザベートが息を詰める。
ルカは聖女の人差し指を、不自然な角度に折り曲げていた。
生きた人間なら決してありえない方向へ、なんのためらいもなく。
「何をしている!」
最初に怒鳴ったのは騎士団長バルガスだった。
鎧を鳴らし、ルカへ詰め寄る。
「貴様、聖女様のご遺体に――!」
「フフ、ご遺体だからですよ騎士団長」
ルカは静かに笑いながら淡々と答えた。
顔も上げないまま、折れた指先を静かに見つめている。
「死後数時間?冗談はやめてくださいよ、本当に」
その言葉に、聖堂の空気がぴたりと止まった。
バルガスが眉をひそめる。
「……何だと?」
ルカはようやく立ち上がり、一同を見回した。
その目には怯えも遠慮もなく、ただ事実だけを突きつける冷たさがある。
だが、ルカは笑っていた。
まるでこの状況を楽しんでいるかのように。
「死後硬直すら起きていない……いえ、正確には、起きる【段階】をとうに過ぎている、と言うべきでしょうか?」
「な……何を馬鹿なことを言っているのですかルカ様!」
ルカの言葉を聞いたサリエルが声を荒げるように返事を返す。
「あ、アリア様は昨夜まで、確かに生きておられた!この封印聖堂にご自身の足で入られたのだ!」
「サリエル様、そう見えた、の間違いでは?」
ルカの返答はあまりに素っ気なかった。
サリエルの顔色が変わる。
「貴様……!」
だが、ルカは相手の怒りには興味がないとでも言うように、再び聖女へ視線を落とした。
胸に刺さった刃。
その周囲の布。
傷口の縁。
そして、床に落ちた、ごくわずかな染み。
観察するたびに、彼の中で数式が整っていく。
「うん……やはり」
小さく呟く。
ルカのその姿を見つめた勇者であるレオンが壁から身体を離し、低い声で問うた。
「ルカ殿、何が見える?」
勇者の顔は蒼白だった。
だがその目だけは、苦痛よりも真実を求めていた。
レオンの言葉を聞かず、ルカは傷口へそっと顔を寄せた。
血の匂いは薄く、そして新しい死体特有の生々しさもない。
代わりに感じるのは、乾いた布と古い薬品のような、妙に冷たい匂いだった。
傷の縁は赤くない。
いや、赤みそのものが足りなかった。
「……不思議ですね。傷口が乾いています」
「乾いて……?」
ルカの言葉にエリザベートが震える声で繰り返す。
「これは、刺されたばかりの傷では、ありませんね……フフ、本当に不思議です」
ルカは静かに立ち上がる。
その口調には、芝居がかった重みももったいぶった間もない。
彼は、真実しか語らないのだから。
「死体は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって現場の方ですから」
少年の言葉に、誰も言葉を返せなかった。
その間聖女は朝の光の下、白銀の法衣をまとった聖女はなおも美しく横たわっている。
まるで眠っているかのように穏やかな顔で。
けれどその静けさは命の終わりのそれではなく、もっと別の、長く放置された何かのようだった。
ルカは祭壇の前をゆっくりと見回す。
色々と視線を向けながら、頭の中で考えていた。
乱れのない法衣に飛び散らない血。
乾いた傷口と、死後数時間では説明のつかない肉体の状態。
完璧に見えた密室――興奮していたのだが、一気に冷めた感じがした。
だが、その数式には決定的な欠陥がある。
「この現場には、致命的な誤植があります」
ルカはそう言って、聖女アリアの遺体を見下ろした。
「彼女は――刺される前から、すでに【死体】だった、と言うべきでしょうか?」
その言葉が落ちた瞬間、エリザベートの唇から小さな悲鳴が漏れた。
「う、そ……」
バルガスは目を見開いたまま動かない。
サリエルは何かを言おうとして、しかし声にならず喉を震わせただけだった。
レオンだけが、どこか覚悟していた者のように目を伏せる。
聖堂に満ちる沈黙は、先ほどまでとは違っていた。
それは神聖な沈黙ではない。
積み重ねられた嘘が一つ、剥がれ落ちたときの沈黙沈黙――ルカはその重さを意に介さず、ゆっくりと手袋の指先を払った。
「さて」
少年の声だけが、異様に澄んで響く。
「ようやく、まともな話ができそうですね皆さん」



