死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 聖堂の空気は、張り詰めた糸のように細く、冷たかった。
 誰も動かない――燭台の火だけがわずかに揺れ、その淡い明かりが壊れた封印の痕を白く浮かび上がらせている。
 祭壇の前には依然として空白が横たわり、そこにもう聖女アリアの遺体がないことが、かえってこの場の異常を際立たせていた。
 ルカは、その静まり返った中心に立っていた。
 手袋をはめた細い指先を軽く下ろし、ゆっくりと一同を見回す。
 国王、エリザベート、サリエル、レオン、そしてバルガス。
 全員が固い顔で彼を見ていたが、その視線の意味は一人ずつ違う。
 怯え、祈り、怒り、諦め、そして覚悟。

「今回、聖堂で【二度目の死】を完成させた人物は――騎士団長バルガス様、あなたですね?」

 誰かが息を呑む。
 エリザベートだった。サリエルは顔を上げきれず、レオンはまっすぐにバルガスを見る。
 国王だけが表情を変えず、ただ沈黙のままその名が落とされたあとを受け止めていた。
 バルガスは否定しなかった。
 腕を組んだまま、石像のように立っている。
 けれどよく見れば、篭手の下で握られた拳にわずかな力がこもっていた。
 視線は逸れない。
 逃げるつもりも、言い逃れをするつもりもない――そんな沈黙だった。
 ルカはその反応を確認し、淡々と続けた。

「……論理的に消していけば、残るのはあなたしかいません」

 少年はまず大神官サリエルへ目を向ける。

「大神官は維持する側だった。三年前に聖女の死を隠し、死体を聖女として使い続ける仕組みを作った中心です……教会の権威も、民の信仰も、寄進も、全部がその偶像の維持にかかっていた。そんな人間が自分からその仕組みを壊す理由は薄いんですよ」

 ルカの言葉に対してサリエルは何も言わない。
 ただ唇を噛み、肩を縮めるだけだ。
 その沈黙すら、もはや反論にならない。
 ルカの視線は王女エリザベートへ移る。

「王女は違和感に気づいていた。背中の縫い目、食べるふりだけの食卓、鏡を失った部屋。恐怖はあったでしょう。でも、術への理解も実行するだけの胆力も足りない。少なくとも、この手の犯行を単独で設計するタイプではありません」

 エリザベートの睫毛が震えた。
 だが彼女もまた否定しない。
 否定できる場所をとっくに失っているのだ。
 次にルカはレオンを見た。

「勇者レオンは聖女の奇跡に依存しすぎていた。終わらせるより、縋る側だったんですよ。痛みを誤魔化され、壊れた体で立ち続けるために、あの偽りの奇跡を必要としていた。だからあなたは最後まで真実から目を逸らした」

 レオンは眉を寄せたが、反論しなかった。
 苦いものを飲み込むように喉が動くだけだった。
 そしてルカは、最後にバルガスへ向き直る。

「――ですが、あなたは違う」

 静かな声――けれど、その静けさの分だけ、言葉は酷く鋭かった。

「あなたは夜の城内で、壊れたように歩く聖女を見た。壁にぶつかっても痛がらず、ただ向きを変えるだけの、あまりに人間らしくない動きを。あの時点であなたは、アリアがもう普通ではないと知っていた」

 バルガスの眉が、わずかに動く。

「それでもあなたは、彼女を化け物とは見なかった。最後まで【人】として彼女を見ていた」
「……」
「あなたは聖女を憎んでいなかった。だからこそ、今の在り方に耐えられなかったんですよ」

 ――重い沈黙が落ちる。

 その言葉に、エリザベートが顔を上げ、レオンがわずかに目を細める。
 サリエルは苦しそうに呼吸を乱し、国王だけが無言のまま事の成り行きを見つめていた。
 バルガスは依然として否定しない。
 ただ、組んでいた腕をほどき、ゆっくりと拳を握り直した。
 その手つきには怒りよりも、ずっと深い痛みが滲んでいるかのように。
 ルカは容赦なく続ける。

「あなたは死体を損壊したかったのではなく、また侮辱したかったのでもない。終わらせたかったんです。人形のように立たされ続けるその状態を」

 バルガスの喉が、わずかに上下した。

「だから胸部を狙った。術式の中心に最も近い場所を、ただ一撃だけ……切り刻む必要はなかった。燃やす必要もなかった。あくまで【壊す】のではなく【止める】ための一撃だったんでしょう?」

 それでも、バルガスはまだ黙っていた。
 ルカはそこで、ほんの少しだけ口元を歪める。
 冷たい、知的な嗜虐を含んだ笑みだ。

「情は理解できますよ、バルガス様」
「っ……!」
「彼女をこれ以上立たせたくなかったのでしょう?死んだまま祈らされ、笑わされ、民の前に立たされ続けるのが、どうしても耐えられなかった。ええ、その感情自体は理解できます――ですが、愛だの情だのという不確定要素で、国家の統治機構を壊すとは、実に非論理的だ」

 バルガスの眉間に深い皺が刻まれる。
 だが、怒鳴らない。
 怒鳴れないのだろう。
 ルカの言葉が事実として、あまりに正確だからだ。

「しかも手口は雑で、密室としても二流です。傷の位置は適切でも、証拠処理は甘い。術式の崩れ方も中途半端で、美しさがない。救済を気取るには、あまりに設計が甘い」

 その言葉が終わった後も、しばらく誰も口を開かなかった。
 燭火だけが、静かに揺れている。
 やがて、バルガスが低く息を吐いた。

「……本当に、嫌なガキだな」

 その声には怒りもあった。
 だが、それ以上にもう隠しきれない者の諦めがあった。
 彼はゆっくりと顔を上げる。
 視線はルカではなく、祭壇の前の空白へ向いていた。

「あれは、もう聖女じゃなかった」

 言葉は静かだった。
 押し殺したぶんだけ、返って深く響く。

「だが……化け物とも呼びたくなかった」

 エリザベートが小さく息を呑む。
 レオンは微動だにせず、その声を聞いていた。

「誰もが聖女を使っていた。教会も、王家も、俺たちも。祈らせて、立たせて、笑わせて……死んでるのに、それでもまだ聖女のフリをさせていた……俺には、あれがどうしても耐えられなかった」

 言い訳の声ではない。
 そして、自分の罪を軽くしようとする響きもない。
 ただ、ここまで胸の内で煮え続けていたモノを、ようやく言葉にしただけの声だった。

「あれ以上、あの人を立たせたくなかった」

 その一言が、聖堂の空気をさらに冷たくした。

「誰も終わらせないなら、俺が終わらせるしかなかった」

 レオンがゆっくりと目を伏せる。
 そこにあるのは単純な怒りではない。
 理解したくないのに、理解してしまう者の苦さだった。
 エリザベートは両手を口元に当て、サリエルは顔を伏せたまま動かない。
 ルカだけが、変わらず静かだった。

「なるほど」

 その相槌に温度はない。
 ただ、答え合わせを終えた者の納得だけがある。

「……あなたは彼女を救ったつもりだったのでしょう?」

 バルガスは何も言わない。
 否定しないこと自体が答えだった。
 ルカは手袋の指先を軽く払う。

「――ですが、犯行計画としては落第です」

 その一言は、慰めも同情も許さない冷たさで落ちる。

「あなたのした事は救済を名乗るには雑すぎる……密室としても甘いし、証拠も残し、術の理解も中途半端で、盤面全体を荒らしただけだ」

 ルカはバルガスをまっすぐ見上げる。
 年齢差も体格差も、この場では何の意味もない。
 しっかりと、その瞳でバルガスを見ていた。

「救済を気取るには、あまりに設計が甘い」

 聖堂に再度、沈黙が落ちた。
 それは、真犯人の名が告げられた瞬間の沈黙ではない。
 誰かの情が、誰かの罪になったと、全員がようやく理解した瞬間の沈黙だ。
 壊れた封印の痕だけが、白く、静かに闇の中で浮かんでいた。