死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 夜の中庭は、静かだった。
 建国記念祭の余熱はもう遠く、城の外から届くざわめきも、今は酷く微かに聞こえる。
 噴水の水音だけが、一定の調子で石畳の上に落ちる。
 春の夜気は冷たすぎるほどではない。
 けれど、昼に比べればずいぶんと温度を失っており、ルカはその空気を吸い込みながら噴水の縁に背を向けて立っていた。
 やがて、石畳を踏む足音が一つ、回廊の奥から近づいてくる。
 振り返らなくても誰かわかった。
 この時間、この場所へ来るとしたら一人しかいない。

「……やっぱり、ここにいたか」

 レオンが姿を見せるが顔色は相変わらず悪い。
 だが、その目だけはこの数日の中で一番よく醒めて見えた。

「ええ。少し静かな場所が欲しかったので」
「お前でも、そういうことを思うんだな」
「失礼ですね。僕だって騒音は嫌いですよ?」

 ルカがそう返すと、レオンは小さく息を吐いた。
 笑ったわけではない。
 ただ、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
 レオンは噴水のそばまで来ると、縁に片手をついた。
 水面に月の光が揺れ、しばらく彼はそれを見ていた。

「……終わったあと、俺はどうすればいいんだろうな」

 ぽつりと落ちた声は、誰に聞かせるでもない独り言のようだった。
 けれど、ルカはきちんと聞き取っていた。

「知りませんよ、そんなこと。僕に聞かないでください」

 ルカに聞いた所で彼が何をするわけがない。
 そもそもルカはまだ十三歳の子供なのだから。
 そんなルカに対し、レオンが呆れたように顔を上げる。

「……少しくらい考えてから言えないのか」
「考えた結果ですよ。そもそも僕に聞く相手を間違えていますよレオン様。人生相談に向いているように見えますか?」
「まったく見えない」
「でしょう?」

 そこで短い沈黙が落ちる。
 噴水の音だけが静かに続いた。
 レオンは視線を落としたまま、低く言った。

「……俺は【あいつ】に縋って戦っていた」

 その言葉は、ルカに向けたというより、自分の中へ落とした確認のようだった。

「治してもらっていたんじゃない。救われていたわけでもない。ただ、痛みを誤魔化されていただけだった。壊れてるのにまだ動けると思わされていたんだ」
「ええ、そうですね」
「それでも俺は、立てるならそれでいいって思ってた。剣が振れるなら、勝てるなら、それでいいって……」

 レオンの指先に、わずかに力が入る。
 噴水の縁を掴む手の節が白くなった。

「今さら真実を知ったところで、何も返せない」
「当然でしょう」

 ルカの声は冷たかった。
 しかし、いつものようにただ刺すだけではなかった。

「死者に返すものなんてありません。もう受け取る側がいないんですから」
「……っ」
「あるとすれば、生きている側の後始末だけです」

 ルカの言葉に対し、レオンは何も言わなかった。
 だが、その沈黙は否定ではなかった。
 ルカは少しだけ視線を上げ、夜の庭を見た。
 白い月光に照らされた石畳は、昼間よりずっと整然として見える。

「……もう以前のようには戦えないかもしれませんよ、レオン様」
「……ずいぶんはっきり言うな」
「事実ですからねぇ」

 ルカは言葉を切らない。

「聖女の奇跡が本当の治癒ではなかった以上、今のあなたの体は、借金を先延ばしにしたようなものです。支払いの時期が来ただけでしょう」
「……嫌な喩えだ」
「ですが、わかりやすいでしょう?」

 レオンは苦く笑った。
 その笑いはすぐに消えた。

「【勇者】なんて呼ばれても、もう前みたいには立てないかもしれない」
「そうかもしれませんね」
「全部暴かれたら、俺が何に支えられて戦っていたかも明るみに出る。民が見ていた勇者も、聖女も、きっと今までのままじゃいられない」

 ルカは頷かなかった。
 だが否定もしない。

「壊れるべきものは壊れますよ」
「お前は簡単に言うな」
「簡単なことですから」

 澄んだ声で、ルカは告げる。

「――嘘で支えられたものが、嘘ごと崩れるだけでしょう?」

 静かに言ってきたルカの言葉に、レオンはしばらく何も言わなかった。
 怒るでもなく、反論するでもなく、ただ噴水の水面を見つめている。
 夜の風に揺れた水面は、月の光を細かく砕きながら、絶えず形を変えていた。
 その落ち着かない揺らぎは、今のレオンの内側によく似ているように、ルカには見えた。

 壊れるべきものは壊れる――そう言葉にするのは簡単だ。

 だが実際にその崩壊の只中に立たされる人間にとっては、そんな理屈で片づけられる話ではない。
 ルカはそれを理解していないわけではなかった。
 ただ、その理解に情を混ぜる必要を感じていないだけだ。
 横目でレオンの横顔を見ながら、ルカは静かに続けた。

「……ですが、壊れた後に残るものまで消えるとは限りません」

 レオンがわずかに顔を上げる。
 反射的な動き――その目にはまだ疲労が濃く残っていたが、今の言葉が少しだけ予想外だったのだろう。
 ルカの口から“その後”を語るような響きが出たことに、ほんのわずかに意識を向けた顔だった。

「何?」

 短い問いに、ルカは視線をそらさなかった。
 月光の下で、その瞳だけがひどく澄んでいる。
 子供の顔立ちには不釣り合いなほど、冷たく、曇りがない。

「僕は嘘を暴きます。あるべき場所へ戻すだけです。死者は墓場へ、嘘は終わりへ」
「……それで終わりか」
「ええ。僕はその後の整理には向いていませんから」

 そう答えたあと、ルカはほんのわずかに口元を緩めた。
 笑った、というほど大きな変化ではない。
 けれど、いつもの皮肉とも違う、僅かな温度のずれがそこにはあった。

「でも、あなたは違うでしょう?」

 レオンは目を瞬かせた。
 あまりに不意を突かれた顔だった。
 責められることにも、切り捨てられることにも、ここ数日で少しは慣れた。
 だが、役目を与えられるとは思っていなかったのだろう。
 しかもそれを言ったのがルカだったからこそ、なおさらだった。

「……俺が?」
「ええ。泣く人、怒る人、縋る人、そのあたりを相手にするのは僕よりあなたの方が向いていますよ」

 ルカの声音は相変わらず平坦だった。
 慰めるような優しさも、相手を持ち上げるような飾りもない。
 ただ、盤面を見た上で最も妥当な配置を口にしているだけ――そんな調子だった。
 それでもレオンにはわかった。
 これは単なる皮肉ではない。
 少なくともルカは、自分にはできない役割を、レオンなら担えると見ている。

「それは……役目を押しつけてるのか?」

 思わずそう聞いてしまったのは、半分は照れ隠しのようなものだった。
 こんな形で何かを託されるのは、どうにも落ち着かない。
 勇者として期待されることには慣れていても、それとは別の形で必要とされることには、まだ慣れていなかった。

「フフ、僕は役割を渡しているんです」

 ルカはあっさりと言った。
 何でもないことのように。
 だが、その何気なさが、かえって本気であることを示していた。

「真実が出れば、教会も、王家も、民も揺れます。その時、僕は説明できますが、支えることはできません。面倒なので」
「最後の一言で台無しだな」
「本音ですからねぇ」

 レオンは思わず小さく笑った。
 乾いた笑いだったが、それでも先ほどよりは自然だった。
 張りつめたばかりの会話の中で、ほんの少しだけ空気が緩む。
 ルカはそんな変化を気にした様子もなく、相変わらず淡々としていた。

「お前、本当に容赦がないな」
「必要がありません」
「少しは治したほうが良いぞ?」
「勇者殿に人格矯正される趣味はありませんよ」

 やり取りは短かったが、不思議と息は合っていた。
 いつからこうなったのか、レオンにはよくわからない。
 最初に会った時は、ただ神経を逆撫でする生意気な子供にしか見えなかった。
 今でも、言い方の悪さだけを取れば大して変わらない。
 それでも、この少年の冷たさの中には一貫した筋があると今は理解していた。
 誰にも優しくない代わりに、誰にも誤魔化しを与えない。
 その不親切さが、時に救いになることもあるのだと、認めたくはないが思い始めていた。
 ひとしきり言葉が止んだあと、夜気が二人の間を通り抜けていった。
 春の名残を含んだ風のはずなのに、どこか終わりの匂いがした。
 祭りの余韻も、聖女の奇跡も、勇者の栄光も――今夜を境に、もう元の形には戻らない。
 それを二人ともわかっていた。
 やがてレオンが、低い声で言った。

「……じゃあ、お前はどうする?」

 ルカが目を向ける。
 その仕草は小さかったが、きちんと相手の言葉を拾う姿勢だった。

「全部暴いて、並べて、切って終わりか?」
「そのつもりです」
「それで済むと思うなよ」

 レオンの声は強くはなかった。
 怒りも威圧もなく、だが、不思議とはっきりしていた。
 ここで濁したくないことだけは、自分でもわかっていたのだろう。

「お前が暴くのは、ただの謎じゃない――人が縋ってた【もの(聖女)】だ。壊れた後で泣く奴も、怒る奴も、立てなくなる奴もいる」

 言いながら、レオン自身の胸にも同じ言葉が刺さっていた。
 自分もその一人なのだと、痛いほどわかっている。
 聖女の奇跡に縋って立っていたのは、ほかでもない自分なのだから。
 それでもなお、今ここで口にしたのは、ルカが切り裂くものの重さを、少しでもこの少年に渡しておきたかったからかもしれない。

「……でしょうね」
「だったら、少しくらいは見ていけ」

 その言葉のあと、ルカは答えなかった。
 珍しく、すぐには返さなかった。
 月の光が水面で揺れ、その揺らぎが石畳へ淡く反射している。
 ルカはそれを見ているようで、見ていなかった。
 視線の奥では、たぶん別の計算が動いている。
 けれど今は、その数式の中に少しだけ、自分ひとりでは処理しきれない何かが混じったのだろう。
 やがて、ルカは静かに言った。

「……気が向けば」

 酷くルカらしい返事だった。
 約束でもなく、誓いでもなく、責任感の表明ですらない。
 それでも、何も譲らないこの少年なりの限界まで寄せた答えなのだと、レオンにはわかった。
 だからこそ、少しだけ口元が緩んだ。

「十分だな」
「え?」
「お前にしては、ずいぶん譲った方だ」

 レオンに言葉にルカはわずかに眉を寄せた。
 言い返すこともできたが、しない――理由は否定するのも、少し面倒だった。
 それに、確かにその通りかもしれないと、ほんの僅かでも思ってしまった自分がいた。
 遠くで、鐘の音がひとつ鳴る。
 夜がまた一段、深くなる。
 その音は、まるで今夜の終わりを告げる予鈴のように、中庭の静けさに溶けていった。

「―ーそろそろ時間ですね」

 ルカがそう言うと、レオンは噴水の縁から手を離した。
 濡れた指先に残る冷たさが、妙に現実的だった。

「ああ」
「逃げないでくださいね?」
「お前こそな」
「僕は逃げませんよ。面倒でも、最後までやります……仕事だし」

 ルカは踵を返し、聖堂へ続く回廊へ歩き出す。
 レオンもまた、その横に並んだ。

 真実を暴く者と、真実のあとを引き受ける者。
 役割は違う、見ているものも、抱えている痛みも少し違う。
 それでも今夜だけは、同じ場所へ向かうのだ。
 石の回廊に、二人分の足音が静かに重なる。
 その音は夜の奥にある聖堂へ向かって、迷いなく伸びていくのだった。