死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 隠し部屋を出た後は二人はしばらく無言で歩いた。
 夕方の光はもう細くなり、王城の回廊には青い影が落ちている。
 高い窓から差し込む最後の光が石床の上に長く伸びていたが、それもゆっくりと薄れていた。
 遠くでは、祭りの名残のような騒めきがまだ微かに聞こえる。
 けれどここには届かない――ここにあるのは冷え始めた空気と、重たい沈黙だけだった。
 ルカは前を見たまま歩いていた。
 レオンも隣に並んではいたが、すぐに何かを言う気にはなれなかったらしい。
 先ほど見たものがまだ頭の中にこびりついているのだろう。
 心臓の入った魔力容器、術式の線、そして薬品棚。
 死んだ聖女を立たせるためだけに作られた、静かで醜い部屋。
 あれを見た後で、すぐに言葉を選べる人間の方が少ない。
 うあがて中庭へ出ると、空気が少しだけやわらいだ。
 噴水の水音が静かに響き、夜へ向かう庭には春の匂いが薄く残っている。
 けれどその穏やかさも二人の間には馴染まなかった。
 ルカは噴水のそばで立ち止まる。
 レオンも数歩遅れて止まり、深く息を吐いた。

「……頭が痛い」

 ぽつりと漏らした声は、冗談ではなかった。
 ルカはちらりとだけ彼を見た。

「考え慣れていないことを考えれば、そうもなるでしょうね」
「嫌な言い方だな」
「事実ですよ、はい」

 いつものやりとりだった。
 けれど、その軽さは長く続かなかった。
 レオンは噴水の縁に手をつき、しばらく水面を見ていた。
 細かく揺れる水が、夕暮れの残りの光を細かく砕いている。

「犯人は……大神官じゃないんだな」

 レオンの言葉に、ルカは笑顔で答えた。

「少なくとも、一番自然なのはそうです」
「自然、か」
「ええ」

 ルカは中庭の石畳に視線を落としながら言う。

「大神官サリエルは、聖女を死体のまま維持し続けることで利益を得ていた。教会の権威、寄付、王国の安定。全部、聖女という偶像が立っていることで保たれていたんです」
「だから、自分から壊す理由は薄い」
「その通りです。彼はむしろ、壊されることを最も恐れる側だったんですよ」

 ルカの発言に対し、レオンは頷ききれない顔をしていた。
 納得はしている。
 けれど感情の方がまだ追いついていないのだろう。
 三年前に聖女が毒で殺され、それを大神官が隠して使い続け、さらに別の誰かが今回その仕組みを壊した。
 頭では理解しても、心の方はすぐに整理できるものではない。
 ルカはそんなレオンの横顔を一度見て、それから淡々と続けた。

「今回の犯人には、いくつか条件があります」
「条件か?」
「ええ……誰でもできるわけではないということですよ」

 レオンが顔を上げる。
 ようやく話の形が見えてきたのか、その目に少しだけ集中の色が戻った。
 ルカは一つずつ言葉を置いていく。

「まず、聖女が死体だと知っていたこと」
「それは当然か……」
「ええ、当然です。生きている聖女だと思っている相手を、あの形で刺せばただの殺人になります。でも今回の刺し方は違う……まるで相手がすでに死んでいることを前提にしている」
「……そうか」
「次に、術の仕組みをある程度知っていたこと。核の存在までは知らなくても、死体を動かしている【何か】があると理解していたはずです。でなければ、胸を狙ってあの一撃を入れる意味が薄い」
「胸……心臓のあたりか」
「ええ……偶然ではないでしょう。あの場所を壊せば、術が崩れると見込んでいた可能性が高いですから」

 中庭の風が、二人の髪をわずかに揺らした。
 レオンは噴水の水面を見ながら、考えるように言う。

「つまり犯人は仕組みを知っていて、尚且つ……」
「今のまま使い続けることに耐えられなかった、と言う事になりますね」

 ルカが言葉を継いだ。
 その一言で、空気が少し変わる。
 レオンはゆっくりと視線を上げた。
 その条件だけは、理屈よりもずっと人の感情に近かったからだ。

「――我慢できなかったんですね」

 ルカの声は冷静なままだった。

「死んだ聖女が、奇跡のふりをさせられ、祈りのふりをさせられ、三年も立たされている。その状態を見続けるのが」
「……」
「――だから壊したんだ」

 ルカはそこで少しだけ言葉を切る。
 表情が違うのを、レオンは見逃さなかった。

「――いえ、壊すというのも正確ではないかもしれません」
「どういう意味だ」
「ただ傷つけたかったわけではない、ということです……もし遺体への憎しみだけなら、もっと乱暴にやればいい。切り刻んでも、燃やしても、方法はいくらでもある。でも今回の犯人はそうしなかった。胸を一度だけ、きちんと狙って刺している」

 レオンの眉が僅かに動き、静かにルカを見つめている。

「それは……」
「止めるつもりだった」

 ルカは静かに言った。

「――このまま動かされ続ける状態を、終わらせたかったんですよ、多分」

 ルカの言葉を聞き、しばらく噴水の音だけが響いた。
 レオンはゆっくりと息を吸い、そして低く問う。

「それは……救おうとしたってことか」

 その問いは、まっすぐだった。
 聖女を。
 あるいは、聖女だったものを。
 今の状態から。
 それに対して、ルカはすぐには答えなかった。
 珍しく少しだけ考えるように目を伏せる。
 言葉を選んでいるというより、より正確な形に直しているような。
 やがて彼は、静かな声で言った。

「…・…救済と殺害は、時々同じ顔をすると、思います」

 レオンはその言葉をすぐには飲み込めなかったようだった。

「同じ……顔」
「ええ」

 ルカは中庭の闇を見たまま続ける。

「壊すことでしか終わらせられないものがある。殺すことでしか救えない状態がある。もちろん、それで何もかも許されるわけではありません……ですが、犯人の中にはおそらく、単なる悪意だけではない別のものがあった」

 ルカはレオンを見て答える。
 レオンは黙った。
 その表情は苦しかった。
 理解したいのに、理解してしまうのがつらいという顔だった。

 ――もし犯人が、聖女を本当に終わらせたかったのだとしたら。

 それは、今まで積み上げられてきた嘘そのものを壊すことでもある。
 王国にとっては危険で、秩序を乱す行為だ。
 だが、聖女アリア個人にとってはどうなのか。
 それは救いだったのかただの暴力だったのか。

 ――答えは、そう簡単ではない。

 ルカはその曖昧さごと、盤面に置いて考えていた。

「だからこそ厄介なんです」

 ルカは淡々と言う。

「感情だけの犯人なら読みやすい。怒り、嫉妬、恐怖、そのあたりで説明がつく。でも今回は違う。壊したい気持ちと、終わらせたい気持ちが混ざっている」
「……同情できる相手かもしれないってことか」
「同情はしません」

 ルカはきっぱり言った。
 澄み切った鋭い瞳を見せながら。

「――ただ、動機としては理解できるというだけです」

 それがルカらしかった。
 哀れみもしなければ、美談にも変えない。ただ構造として眺め、その上で必要な場所へ置いていく。
 レオンはそんな彼を横目で見て、小さく息を吐いた。

「お前と話してると、自分が感情的すぎるみたいに思えてくる」
「実際そうでしょう?」
「……否定しろよ、少しは」
「事実を曲げる理由がありません」

 レオンは苦く笑う。
 その笑いは短く、けれど少しだけ肩の力を抜かせるものでもあった。
 ルカはそのまま話を戻す。

「犯人像はかなり絞れます」
「聖女が死体だと知っていた」
「ええ」
「術の仕組みもある程度知っていた」
「はい」
「そして、今の状態を我慢できなかった……さらに言えば、聖女を単なる化け物としてではなく終わらせるべき存在として見ていたはずです」

 レオンはその言葉を繰り返すように小さく呟く。

「終わらせるべき、か……」

 夕方はほとんど終わり、庭の色は青から黒へ移り始めていた。噴水の水面にももう光は少ない。
 けれど、事件の輪郭だけは逆にはっきりしてきている。
 三年前に毒で殺された聖女。
 その死を隠して動かし続けた大神官。
 そして今、その仕組みに刃を入れた別の誰か。
 ルカは静かに目を細めた。

「もうすぐです」
「何がだ?」

「――最後の条件が埋まる」

 その声は低く、確信に近かった。
 ルカは次の何かを言おうとしたのだが、そのまま口を閉ざした。
 レオンはしばらく黙っていたが、やがてゆっくり頷いた。

「……なら、その最後まで付き合う」
「ええ、勝手にどうぞ」
「そう言うと思ったよ」

 短い会話のあと、二人はまた並んで歩き出した。
 中庭の向こうには、夜へ向かう回廊が伸びている。
 次に進めば、もう後戻りはしにくくなるだろう。
 けれどどちらも足を止めなかった。

 ――真実はもう近い。

 そしてその真実は、ただ犯人の名を明かすだけでは終わらない。
 誰かが壊そうとしたものが、何だったのか。
 その意味まで見届けなければ、この事件は閉じない。
 夜の入口みたいな冷たい風の中で、ルカは静かに思った。