大神官サリエルの部屋は、書庫の奥にある小さな執務室だった。
夕方の光はもう薄く、細長い窓から差し込む色も青みを帯びている。
部屋の中には古い紙と香の匂いが混ざり合い、どこか息の詰まるような静けさが漂っていた。
壁際には帳簿や祈祷書が積まれ、机の上には使いかけの蝋燭と、まだ乾ききっていないインク壺が置かれている。
サリエルはその机の前に立ち、入ってきたルカとレオンを見て、わずかに肩を揺らした。
「……また来たんですか?」
声を聞くと、疲れているのが分かった。
ただ、それ以上に強かったのは、追い詰められた者の張りつめた気配だった。
いくつも隠し事を見抜かれ、それでもなお、最後の何かだけは守ろうとしている――そんな顔をしているように見える。
ルカは部屋の中央まで進むと、それ以上は近づかずに立ち止まった。
レオンは半歩うしろ、少し斜めの位置に立つ。
その並びはまだぎこちなかったが、もう単なる関係者同士の距離ではなかった。
まるで、問いを投げる者と、それを見届ける者。
そんな形が少しずつでき始めている。
「えっとですね、いくつか確認したいことがあります」
ルカはいつもの平らな声で言った。
それに対し、サリエルは答えない。
ただ机の端に指を置き、その先で法衣の裾をかすかにつまんでいた。
「あなたは三年前の夏、聖女アリアが毒殺されたことを認めました」
「……ええ」
「その後、あなたは死体を聖女として使い続けた」
「……そう、です」
「そして、そのための薬品や術式の維持にも関わっていた」
サリエルはゆっくり頷く。
そこまでは、もう否定しないつもりなのだろう。
認めざるを得ない事と、まだ隠せると思っている事とを、自分の中で分けている顔だった。
ルカはその様子を静かに見つめた。
「……ですが、まだ話していないことがありますね、サリエル様」
その一言で、サリエルの目がわずかに動いた。
ほんの一瞬だった。だが、ルカは見逃さない。
「もう十分でしょう……私が隠していたことは話した。聖女様の死を隠し、教会のために使い続けたことも認めた。これ以上、何を――」
「では、【核】はどこにありますか」
微かに鋭い視線で、ルカの言葉は短かった。
ぴたり、と空気が止まる。
サリエルの唇が動く。だが声は出ない。
レオンが眉をひそめた。
「――【核】?」
「死体を動かしていた中心ですよ」
ルカはサリエルから目を離さないまま答えた。
「遺体に直接術を流していただけでは、三年も維持できないはずです……どこかに核になるものがある。術をつなぎ止めるためのもっと濃い中心が」
レオンは黙り込む。
その意味を考えるように、わずかに視線を落とした。
サリエルは机を掴む指に力を込める。
「そんなものは、ありません」
「あります……でなければ、今回の密室で術式があそこまで乱れた説明がつきません。死体そのものだけでは、あれほどはっきりした暴走は起きない」
「ないと言っている!」
サリエルの鋭い声が響く。
だがその強さは、真実を押し返すためというより、崩れかけたものを無理やり支えているような響きに見えた。
ルカは表情を変えない。
ただ、サリエルの目だけを見ていた。
「……お前、何を見てるんだ」
横から、レオンが低く訊いた。
ルカはようやく一度だけそちらに視線を流す。
「言葉ではなく、視線です」
「視線?」
「ええ……人は隠したい場所を見ないようでいて、逆に気にしてしまうものです」
その説明は静かだったが、妙にはっきりしていた。
「見てはいけない。考えてはいけない。そう思うほど、意識はそちらへ向きます。真正面から見なくても、呼吸が止まる瞬間や、焦点がぶれる方向に出る」
レオンは小さく息を呑む。
サリエルの顔色はさらに悪くなった。
ルカは一歩だけ踏み込んだ。
「――先ほどから、あなたは何度も右後ろを気にしているようですね」
サリエルが肩を震わせる。
その方向には壁しかない。
正確には、本棚が並んでいるだけだ。
古い聖典や記録書が隙間なく詰め込まれていて、ぱっと見にはただの壁と変わらない。
レオンがそちらを見た。
「書庫、か?」
「違います」
ルカは首を横に振る。
「書庫そのものではない……もっと別です」
サリエルが何か言おうとした瞬間、ルカはその言葉を遮るように続けた。
「あなたは帳簿を隠した時とは目の動きが違う。あの時は紙の束を守ろうとしていた。でも今は、もっと狭い場所を気にしています。視線が一点に吸い寄せられて、すぐ逸れる――」
レオンは壁際の棚を見つめる。
たしかにそこは少し不自然だった。
他の棚よりも埃が少なく、床との境にごくわずかな擦れ跡がある。
普段なら見落とす程度の違いだ。
だが、意識して見ればそこだけ妙に浮いて見えた。
「……隠し場所か」
レオンが低く言う。
ルカは笑顔で頷いた。
「おそらく」
サリエルはもう何も言わなかった。
いや、言えなかったのだろう。
喉が引きつったように上下するだけで、視線は棚から逸らそうとしているのに完全には逸れない。
まるで自分で自分の秘密の場所を指し示しているようだった。
ルカはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「――書庫ではない、と言ったでしょう?」
その声には、答え合わせをするような静かな確信があった。
「あなたは見られたくない【場所】を、本棚の向こうにある所を何度も見ていたから」
「やめろ……」
掠れた声で、サリエルが言った。
「やめてくれ……」
その拒絶には怒りよりも懇願が強く滲んでいた。
レオンがゆっくりと一歩前へ出る。
「……サリエル、まだ隠すのか?」
サリエルは答えない。
額には汗がにじみ、顔色は青を通り越して灰色に近い。
ここまで来ると、もう否定そのものが答えになっていた。
ルカは静かに本棚へ近づく。
並んだ本の背表紙を目で追い、床の擦れ跡、棚の側面の金具、壁とのわずかな隙間を見る。
古い作りに見せかけてはいるが、そこだけ微妙に新しい木材が使われている。
隠すために後から手を入れたのだろう。
「よくできていますね。ですが、よくできた隠し場所ほど、守る側の意識が出るものです」
レオンは隣に立ち、低い声で問う。
「開けられるのか」
「仕組みが単純なら」
鼻歌を歌いながら、ルカは棚の縁に触れる。
表から見える装飾の一部が、他よりわずかに擦れており、何度も触れられてきたのだろう。
ルカはそこへ指をかけ、ためらいなく押し込んだ。
かちり、と小さな音がした。
本棚の奥で何かが外れる気配がある。
空気がわずかに動き、壁に見えていた部分に細い隙間が生まれた。
レオンの表情が変わる。
「……本当に」
「言ったはずです」
ルカは静かに返した。
「――人は隠したい場所を、見ないようでいて見てしまうんです」
その時、背後でサリエルが力を失ったように椅子へ崩れ落ちた。
法衣が床を擦る音が、妙に大きく響く。
ルカは振り返らない。振り返る事すらしない。
目の前の隙間へ指をかけ、ゆっくりと開く。
壁と本棚の向こうに、黒く細い通路が口を開けていた。
冷たい空気が、その奥から静かに流れてくる。
そこは普通の書庫ではなく、もっと乾いていて、もっと冷たくて、どこか薬品に似た匂いが混じっていた。
ルカの目がわずかに細くなる。
(……やはり、ここだ)
ルカの視線が先に答えを出していた。
そしてその答えは、おそらくこれまでの嘘の中で最も深い場所へつながっている。
「行きますよ、勇者殿?」
ルカがそう言うと、レオンは短く頷いた。
「……ああ」
二人は並んで、その暗い隙間の前に立つ。
背後では、サリエルの荒い呼吸だけが聞こえていた。
もう後戻りはできない。
この先にあるのは、大神官が最後まで隠したかったもの。
つまり、聖女アリアを聖女のまま動かし続けるための、もっとも醜く、もっとも大事な中心だ。
ルカは冷たい空気を吸い込み、静かに目を細めたのだった。
夕方の光はもう薄く、細長い窓から差し込む色も青みを帯びている。
部屋の中には古い紙と香の匂いが混ざり合い、どこか息の詰まるような静けさが漂っていた。
壁際には帳簿や祈祷書が積まれ、机の上には使いかけの蝋燭と、まだ乾ききっていないインク壺が置かれている。
サリエルはその机の前に立ち、入ってきたルカとレオンを見て、わずかに肩を揺らした。
「……また来たんですか?」
声を聞くと、疲れているのが分かった。
ただ、それ以上に強かったのは、追い詰められた者の張りつめた気配だった。
いくつも隠し事を見抜かれ、それでもなお、最後の何かだけは守ろうとしている――そんな顔をしているように見える。
ルカは部屋の中央まで進むと、それ以上は近づかずに立ち止まった。
レオンは半歩うしろ、少し斜めの位置に立つ。
その並びはまだぎこちなかったが、もう単なる関係者同士の距離ではなかった。
まるで、問いを投げる者と、それを見届ける者。
そんな形が少しずつでき始めている。
「えっとですね、いくつか確認したいことがあります」
ルカはいつもの平らな声で言った。
それに対し、サリエルは答えない。
ただ机の端に指を置き、その先で法衣の裾をかすかにつまんでいた。
「あなたは三年前の夏、聖女アリアが毒殺されたことを認めました」
「……ええ」
「その後、あなたは死体を聖女として使い続けた」
「……そう、です」
「そして、そのための薬品や術式の維持にも関わっていた」
サリエルはゆっくり頷く。
そこまでは、もう否定しないつもりなのだろう。
認めざるを得ない事と、まだ隠せると思っている事とを、自分の中で分けている顔だった。
ルカはその様子を静かに見つめた。
「……ですが、まだ話していないことがありますね、サリエル様」
その一言で、サリエルの目がわずかに動いた。
ほんの一瞬だった。だが、ルカは見逃さない。
「もう十分でしょう……私が隠していたことは話した。聖女様の死を隠し、教会のために使い続けたことも認めた。これ以上、何を――」
「では、【核】はどこにありますか」
微かに鋭い視線で、ルカの言葉は短かった。
ぴたり、と空気が止まる。
サリエルの唇が動く。だが声は出ない。
レオンが眉をひそめた。
「――【核】?」
「死体を動かしていた中心ですよ」
ルカはサリエルから目を離さないまま答えた。
「遺体に直接術を流していただけでは、三年も維持できないはずです……どこかに核になるものがある。術をつなぎ止めるためのもっと濃い中心が」
レオンは黙り込む。
その意味を考えるように、わずかに視線を落とした。
サリエルは机を掴む指に力を込める。
「そんなものは、ありません」
「あります……でなければ、今回の密室で術式があそこまで乱れた説明がつきません。死体そのものだけでは、あれほどはっきりした暴走は起きない」
「ないと言っている!」
サリエルの鋭い声が響く。
だがその強さは、真実を押し返すためというより、崩れかけたものを無理やり支えているような響きに見えた。
ルカは表情を変えない。
ただ、サリエルの目だけを見ていた。
「……お前、何を見てるんだ」
横から、レオンが低く訊いた。
ルカはようやく一度だけそちらに視線を流す。
「言葉ではなく、視線です」
「視線?」
「ええ……人は隠したい場所を見ないようでいて、逆に気にしてしまうものです」
その説明は静かだったが、妙にはっきりしていた。
「見てはいけない。考えてはいけない。そう思うほど、意識はそちらへ向きます。真正面から見なくても、呼吸が止まる瞬間や、焦点がぶれる方向に出る」
レオンは小さく息を呑む。
サリエルの顔色はさらに悪くなった。
ルカは一歩だけ踏み込んだ。
「――先ほどから、あなたは何度も右後ろを気にしているようですね」
サリエルが肩を震わせる。
その方向には壁しかない。
正確には、本棚が並んでいるだけだ。
古い聖典や記録書が隙間なく詰め込まれていて、ぱっと見にはただの壁と変わらない。
レオンがそちらを見た。
「書庫、か?」
「違います」
ルカは首を横に振る。
「書庫そのものではない……もっと別です」
サリエルが何か言おうとした瞬間、ルカはその言葉を遮るように続けた。
「あなたは帳簿を隠した時とは目の動きが違う。あの時は紙の束を守ろうとしていた。でも今は、もっと狭い場所を気にしています。視線が一点に吸い寄せられて、すぐ逸れる――」
レオンは壁際の棚を見つめる。
たしかにそこは少し不自然だった。
他の棚よりも埃が少なく、床との境にごくわずかな擦れ跡がある。
普段なら見落とす程度の違いだ。
だが、意識して見ればそこだけ妙に浮いて見えた。
「……隠し場所か」
レオンが低く言う。
ルカは笑顔で頷いた。
「おそらく」
サリエルはもう何も言わなかった。
いや、言えなかったのだろう。
喉が引きつったように上下するだけで、視線は棚から逸らそうとしているのに完全には逸れない。
まるで自分で自分の秘密の場所を指し示しているようだった。
ルカはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「――書庫ではない、と言ったでしょう?」
その声には、答え合わせをするような静かな確信があった。
「あなたは見られたくない【場所】を、本棚の向こうにある所を何度も見ていたから」
「やめろ……」
掠れた声で、サリエルが言った。
「やめてくれ……」
その拒絶には怒りよりも懇願が強く滲んでいた。
レオンがゆっくりと一歩前へ出る。
「……サリエル、まだ隠すのか?」
サリエルは答えない。
額には汗がにじみ、顔色は青を通り越して灰色に近い。
ここまで来ると、もう否定そのものが答えになっていた。
ルカは静かに本棚へ近づく。
並んだ本の背表紙を目で追い、床の擦れ跡、棚の側面の金具、壁とのわずかな隙間を見る。
古い作りに見せかけてはいるが、そこだけ微妙に新しい木材が使われている。
隠すために後から手を入れたのだろう。
「よくできていますね。ですが、よくできた隠し場所ほど、守る側の意識が出るものです」
レオンは隣に立ち、低い声で問う。
「開けられるのか」
「仕組みが単純なら」
鼻歌を歌いながら、ルカは棚の縁に触れる。
表から見える装飾の一部が、他よりわずかに擦れており、何度も触れられてきたのだろう。
ルカはそこへ指をかけ、ためらいなく押し込んだ。
かちり、と小さな音がした。
本棚の奥で何かが外れる気配がある。
空気がわずかに動き、壁に見えていた部分に細い隙間が生まれた。
レオンの表情が変わる。
「……本当に」
「言ったはずです」
ルカは静かに返した。
「――人は隠したい場所を、見ないようでいて見てしまうんです」
その時、背後でサリエルが力を失ったように椅子へ崩れ落ちた。
法衣が床を擦る音が、妙に大きく響く。
ルカは振り返らない。振り返る事すらしない。
目の前の隙間へ指をかけ、ゆっくりと開く。
壁と本棚の向こうに、黒く細い通路が口を開けていた。
冷たい空気が、その奥から静かに流れてくる。
そこは普通の書庫ではなく、もっと乾いていて、もっと冷たくて、どこか薬品に似た匂いが混じっていた。
ルカの目がわずかに細くなる。
(……やはり、ここだ)
ルカの視線が先に答えを出していた。
そしてその答えは、おそらくこれまでの嘘の中で最も深い場所へつながっている。
「行きますよ、勇者殿?」
ルカがそう言うと、レオンは短く頷いた。
「……ああ」
二人は並んで、その暗い隙間の前に立つ。
背後では、サリエルの荒い呼吸だけが聞こえていた。
もう後戻りはできない。
この先にあるのは、大神官が最後まで隠したかったもの。
つまり、聖女アリアを聖女のまま動かし続けるための、もっとも醜く、もっとも大事な中心だ。
ルカは冷たい空気を吸い込み、静かに目を細めたのだった。



