死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 ――翌朝の聖堂は、ひどく静かだった。

 建国記念祭の喧騒も一夜を越え、王城にはようやく本来の重たい静けさが戻っている。
 だが、この場所の空気だけは別だった。
 白い石床、折れた封印の痕、祭壇の前に残された冷たい空白。
 そのどれもが、まだ事件の続きを待っているように見えた。
 そしてその中でルカは一人、祭壇の前に立っていた。
 聖女アリアの遺体はすでに仮の安置所へ移されている。
 けれど、死が消えたわけではない。
 むしろ、亡骸がなくなった事で、この場所には死だけが澄んだ形で残っていた。
 ルカは手袋をはめ直し、膝をつく。
 祭壇の前、聖女が倒れていた位置。
 その石床の隙間に、昨夜のうちに見落としていた微細なきらめきがあった。
 朝の光を受けて、ほんの小さく、青白く光っている。

 ――血ではない。
 ――ガラスでもない。

 もっと硬く、もっと深い色をした破片だった。

「……やっぱり、か」

 ルカは囁くように呟いた。
 指先で慎重につまみ上げる。
 欠片は爪の先ほどの大きさしかないが、触れた瞬間、ぴり、とかすかな痺れが走った。冷たいのに、ただの鉱石とは違う。内部にまだ魔力の名残が閉じ込められている。

 魔石――それも、ただの魔石ではない。
 長く術式の中心に使われていた【核】の欠片だ。

 ルカは顔を近づけ、その青白い断面をじっと見た。
 表面には微かな筋のような模様が走っている。
 傷ではなく、もっと目に見えにくい、魔力の流れが残した跡だ。
 人の指紋のように、魔法にも使い手ごとの癖がある。
 同じ呪文を唱えても、同じ陣を描いても、完全には同じにならない。
 魔力の押し方、流し方、止め方。
 その全てに個人の癖が出る。
 熟練の鑑定士なら、それを読むことができる。
 ルカは欠片を光に透かした。
 青白い線の中に、別の色が混じっている。
 薄い金色、そして、わずかに鈍い紫。
 これは遺体を動かしていた術の残り香だ。
 外から誰かが触れた指の跡ではない。
 もっと深く、もっと長く、その核そのモノに染みついていた魔力の波だ。

「指紋ではなく、波長……」

 ルカの声は静かだった。
 けれどその瞳には、はっきりとした愉悦が浮かんでいた。
 これでいい――術者が手袋をしていようと、痕跡を拭い去ろうと関係ない。
 長い間、核を通して術を流し続けたなら、その者だけの魔力の波は消えない。
 使い続けた者ほど、色濃く残る。
 そして今回の事件では、それとは別に、最後に強くぶつかった魔力もあるはずだった。
 ルカは欠片を小さな布袋へ入れ、胸元へしまう。
 盤面は整った。
 後は、駒を同じ場所に集めるだけだ。
 彼は立ち上がり、祭壇の前をゆっくり見渡した。

 封印されていた聖堂――死者を閉じ込め、嘘を飾り、奇跡の舞台に仕立て上げた場所。

 だが同時に、ここは最後の答えを語るにはふさわしい場所でもある。
 嘘が始まった場所で、嘘を終わらせる。
 それは悪くない終わり方だとルカは思った。

   ▽

 昼前、王城の一角にある小さな執務室で、ルカは机に向かっていた。
 机の上には四通の封書が並んでいるおり、上質な羊皮紙に、簡潔な文面がそれぞれ同じ手で書かれていた。
 
 ――聖堂にて、今夜、最終的な説明を行う。
 ――関係者は全員、必ず出席すること。

 それだけだ。
 無駄な飾りはない。
 脅しも、もったいぶった言い回しもない。
 ただ必要な情報だけが、冷たく整って並んでいる。
 ルカは最後の封を閉じ、赤い蝋に印を押した。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。

 勇者レオンへ。
 大神官サリエルへ。
 王女エリザベートへ。
 騎士団長バルガスへ。

 全員を同じ場所へ呼び戻す。
 言い逃れを許さず、表情の揺れひとつすら見落とさないために。

「――こちらを」

 ルカが声をかけると、控えていた若い従者が緊張した面持ちで進み出た。

「はい、ルカ様」
「四人に届けてください。できるだけ早く。返事はいりません。受け取らせるだけでいい」

 従者は封書を両手で受け取ったが、その視線はつい机の上の残りの紙や蝋印に吸い寄せられていた。
 何が起きようとしているのか、薄々わかっているのだろう。

「……今夜、ですか」

 思わず漏れた声に、ルカは顔を上げる。

「何か問題でも?」
「い、いえ。ただ……皆さま、お揃いになると」
「ええ」

 ルカはあっさりと頷く。

「フフ、その方が都合がいいので」

 従者はそれ以上何も言えず、一礼して部屋を出ていった。
 扉が閉まる音がして、執務室はまた静かになる。
 そのまま、ルカは椅子の背にもたれ、疲れたように深いため息を吐いた。
 四人とも来るだろう。来ないという選択肢はない。
 来なければ、それだけで何かを認めることになる。
 来ても追い詰められるが、来なくても追い詰められる。
 そういう形で招待状は作ってある。
 彼は机の上の紙片をひとつ取り上げ、そこに走らせた自分の文字を眺めた。

 最終回答――講釈。

 芝居じみた言い方だと、普通なら思うかもしれない。
 けれど、この王国が三年ものあいだ続けてきたことこそ、長くて醜い芝居だったのだ。ならば幕引きにも、それなりの舞台が必要だった。

「……ようやく終わる」

 ルカは静かに、そのように呟いた。

    ▽

 夕方――陽が落ちきる前の薄い光が、宿舎の部屋に静かに差し込んでいた。
 ルカは鏡の前に立っていた。
 黒い上着の襟を整え、白いシャツの皺を指先で伸ばす。
 喪服のように見えるほどきっちりとした装いは、彼の細い体つきをかえって鋭く見せていた。
 鏡の中の少年は十三歳にしか見えない。
 けれど、その目だけは年相応ではなかった。
 冷たく澄んでいて、何かを暴くことにためらいがない。
 子どもの無邪気さはない。
 ルカはネクタイの結び目に指をかけ、わずかに角度を直した。
 その動作も無駄がない。
 整っていなければ気持ちが悪い、というより、整っていないものを見過ごせないという感覚に近かった。
 鏡の中の自分と、数秒だけ視線が合う。
 その顔を見て、ルカはほんの少しだけ口元を上げた。

「――さあ」

 静かな声だった。
 けれど、その一言には夜の開演を告げる響きがあった。

「数式を完成させましょう!」

 部屋には誰もいない。
 だからその言葉は、誰かに聞かせるためではなく、ただ自分の中の線を確かめるためだけに落とされた。
 聖女は三年前に死んだ。
 誰かが毒で殺した。
 大神官はそれを隠し、死体を聖女として使い続けた。
 勇者はその恩恵にすがった。
 王女は恐怖しながら黙った。
 騎士団長は終わりを望んだ。
 そして今、誰かがその術式を壊し、二度目の死をこの世に見せた。

 全ての線は、もう一本の答えへ向かって集まりつつある。

 ルカは鏡の前で手袋をはめた。
 白い手袋が、指先まできちんと収まる。
 最後に袖口を軽く払って、彼は再び自分の顔を見た。

「ゴミはゴミ箱へ、死者は墓場へ」

 その言葉には感情がない。
 怒りも、悲しみも、憐れみもない。
 ただ、決められた場所へ物を戻す時のような当然さだけがある。

「それが世界の正しい秩序ですから」

 秩序。
 美しさ。
 正しい配置。

 ルカにとって、それは道徳よりも先にあるものだった。
 机の上にあるべきものが床に落ちていれば拾うように、墓にあるべきものが玉座の横に立っていれば、そこへ戻すだけだ。
 死者が生者のふりをするから、世界が濁る。
 嘘が真実の顔をするから、計算が狂う。
 ならば、正さなければならない。
 彼は鏡から目を離し、窓の外を見た。
 王城の屋根の向こう、空は群青へ変わり始めている。
 今夜の聖堂は、また冷えるだろう。
 白い石床の上に、大人たちの嘘と沈黙が並ぶだろう。
 そして、その中心で最後の答えが語られる。
 ルカは薄く笑った。
 その笑みは不敵で、けれどどこかひどく澄んでいた。
 もう迷いはない。
 あとは舞台に上がり、駒を並べ、最後の一手を告げるだけだ。
 少年は扉へ向かって歩き出す。
 その足取りは軽くも重くもなく、ただ正確だった。

 夜が来る――そして死者は沈黙するかのように。静かに。