「朔夜……」
「……出ていけ」
その拒絶は、あまりに冷たく、一切の感情が削ぎ落とされていた。
本来ならば、彼の言う通り、一人になる時間が必要なのかもしれない。
けれど、明かりもつけない暗闇の中、独りで座っているこの人を。
今だけは、どうしても独りきりにさせたくなかった。
「……出ていきません」
「出て行けと言っている!!!」
「絶対に出て行かないです!!!」
「なぜだ!なぜっ、お前は……これほどまでに俺の思い通りにならない……!」
激昂に近いその叫びに、朔夜へと歩み寄る足が止まる。
掠れたその声は、鋭い拒絶であるはずなのに、どこか縋るような切実な願いのようにも聞こえた。
彼が何に苦しんでいるのか。
何を、そこまで悲しんでいるのか。
私は、それをちゃんと知りたい。
表面上だけではなく、剥き出しの彼に触れたいと思った。
一歩、また一歩。
初めて出会った時のように、慎重に近付いていく。
手が届くほどの距離になると、強引に腕を掴まれ、視界が大きく傾いた。
手首を掴まれながら、背中を支えられ、至近距離で見下ろされる。
「……お前は、俺が恐ろしくはないのか?」
恐ろしい……?
初めて、狂おしいほど美しく、鬼を狩る姿を見た時。
山のように積み上がった鬼の骸の上に立つ彼を見た時。
私を助けるために、鬼化した仲間を迷わず斬り捨てた時。
彼の過去を聞いた時でさえ、私はこの人自身に対して恐怖という感情を抱いたことなど、一度もなかった。
怖いと思うより先に、痛いと思った。
この人が、どれほどのものを抱えてここまで来たのか。
その重さの端に触れた気がして、胸が苦しくなるばかりだった。
「……そんなこと、思いません」
「俺は、鬼だけではない。鬼化を免れない仲間すら、この手で幾人も斬ってきた」
「……はい」
「だが……今日初めて、何の躊躇いもなく、ただの人間を斬り伏せたいと願った」
暗い部屋で、朔夜の瞳だけが妖しく光って見えた。
その鋭い光が、今は脆く、危うく揺れている。
「お前を失う。……そのきっかけを作ったあの女を、八つ裂きにしても足りないほど許せないと思った。その暗い渇望を、俺自身、抑え込むことができなかった」
最強と謳われ、人知を超えた力を振るうはずのその肩が、今はとても小さく、震えているように見える。
「今もそうだ。お前が目の前にいるから、かろうじて正気を繋ぎ止めているに過ぎない」
この人の強さも、弱さも、そして誰にも見せない醜いまでの独占欲も。
すべてが今の私には、愛しくて、堪らなくなる。
人を殺したいほどの怒りを、綺麗なものだとは言えない。
けれど、その怒りの奥にあるものが、私を失いたくないという恐怖なのだと分かってしまうから。
どうしても、彼のそばにいたくて……
「恐らく、お前が止めなかったら、俺は——」
そこから先は、もう言葉にならない。
強く掴まれていた手首が、ふっと解放される。
項垂れる朔夜の顔に、手を伸ばそうとして一瞬躊躇う。
どうしたら、この人を救えるのだろう。
言葉は上手く出てこない。
けれど、どうしても彼を抱きしめたい。
私は伸ばした手で、彼の頭を優しく抱き寄せた。
「……俺は、化物だ……!」
「そんな哀しい言葉で、自分を傷付けないでください……」
一度身体を勢いよく離されると、今度は両肩を強く掴まれた。
指先が食い込むほどの強さだった。
けれど、それさえも私を傷つけるためではなく、自分から私を引き剥がすための力のように感じた。
「あんなことがあった直後でもっ!……俺はお前の血を、吸いたくて、吸いたくて堪らなくなる……っ!!」
言い切る前に、私は自ら襟元を広げるようにして、首筋を晒した。
そして、もう一度彼を強く抱き寄せる。
「朔夜が化物なら、私は……家族を捨てた私は、鬼以下です」
「っ……」
「私は、ずっと朔夜の側にいます。何が起きても、絶対に離れません」
朔夜の熱い吐息が、露出した首筋をかすめる。
私を抱き締める腕が、強くなる。
唇が少しずつ開き、熱い舌が首筋の動脈をなぞる感触に、背筋を甘い戦慄が駆け抜けた。
次に来るのが何か、私はもう、すべてを分かって受け入れている。
「っ……!」
「……っ、ん」
ほんの一瞬だけ、鋭い痛みが首筋を走った。
けれど、それはすぐ後に、全身を痺れさせるような甘美な痛熱へと変わっていく。
己の生命が彼へと流れ込み、すべてを明け渡していく感覚が全身を包み込む。
離れないように、離さないように。
背中に回した手で、彼の隊服を強く掴み、引き寄せた。
「はっ……、ぁ……」
「……あ、っ」
引き抜かれた牙の痕から、一筋の血が流れる。
それを惜しむように、朔夜は優しく、深く、熱を持って舐めとった。
その濃密な感触に、身体が激しく震える。
痛くて、苦しくて、それなのに離れたくない。
彼が私を求めている。
私の血で、私の存在で、かろうじて正気に踏みとどまっている。
そう思うだけで、胸の奥が泣きたくなるほど熱くなった。
ゆっくりと顔を上げると、至近距離で彼と視線が重なった。
今まで見たどの視線よりも、烈火のような熱と、愛執を孕んだその眼差しに息を呑む。
「……ここも、ほしい」
掠れた声で囁かれながら、熱い親指で唇をなぞられる。
「梓」
初めて、契約の対象ではなく、一人の女として名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
ただの番ではなく、役目でもなく、私自身を呼ばれた気がした。
「……構いません。全部、貴方のものです」
「それは……俺が、お前が番だからか?」
番だから?
始まりは、確かにそうだったのかもしれない。
命を救われ、命を繋ぐために血を差し出した。
何も知らないまま、番になった。
けれど、私にとって、もうそんな契約という形だけで、彼との関係を片付けることはできなくなっている。
朔夜の痛みと孤独を知った。
不器用な優しさも、息が苦しくなるほどの執着も知ってしまった。
それでも私は、離れたいとは思わなかった。
「違います。誰に決められたことでもない。……私の心は、私自身が決めました」
「梓っ……!」
「!……っ、んん」
荒々しく、貪るように唇を奪われる。
けれど、触れる先は驚くほど優しく、そして切ないほどに熱い。
逃げ場を塞ぐような腕の強さとは裏腹に、唇は何度も確かめるように触れてくる。
本当に拒まないのか。
本当に、ここにいてくれるのか。
そう尋ねられているようで、私は必死に彼の背へ腕を回した。
「梓っ、好きだっ……!」
「……はい……っ」
「好きだ。ずっと、ずっと……俺の、俺だけの……!」
何度も、何度も。
朔夜の紡ぐ熱い言葉に、溺れるようにして応える。
好きだと、まだ上手く声にはできなかった。
けれど、抱きしめ返す腕に、唇を重ねる呼吸に、彼を受け止めるすべてに、その答えを込める。
永い絶望と孤独の果てに。
この夜、私はようやく、本当の意味でこの人の番になれたのだと、確かに実感していた。
「……出ていけ」
その拒絶は、あまりに冷たく、一切の感情が削ぎ落とされていた。
本来ならば、彼の言う通り、一人になる時間が必要なのかもしれない。
けれど、明かりもつけない暗闇の中、独りで座っているこの人を。
今だけは、どうしても独りきりにさせたくなかった。
「……出ていきません」
「出て行けと言っている!!!」
「絶対に出て行かないです!!!」
「なぜだ!なぜっ、お前は……これほどまでに俺の思い通りにならない……!」
激昂に近いその叫びに、朔夜へと歩み寄る足が止まる。
掠れたその声は、鋭い拒絶であるはずなのに、どこか縋るような切実な願いのようにも聞こえた。
彼が何に苦しんでいるのか。
何を、そこまで悲しんでいるのか。
私は、それをちゃんと知りたい。
表面上だけではなく、剥き出しの彼に触れたいと思った。
一歩、また一歩。
初めて出会った時のように、慎重に近付いていく。
手が届くほどの距離になると、強引に腕を掴まれ、視界が大きく傾いた。
手首を掴まれながら、背中を支えられ、至近距離で見下ろされる。
「……お前は、俺が恐ろしくはないのか?」
恐ろしい……?
初めて、狂おしいほど美しく、鬼を狩る姿を見た時。
山のように積み上がった鬼の骸の上に立つ彼を見た時。
私を助けるために、鬼化した仲間を迷わず斬り捨てた時。
彼の過去を聞いた時でさえ、私はこの人自身に対して恐怖という感情を抱いたことなど、一度もなかった。
怖いと思うより先に、痛いと思った。
この人が、どれほどのものを抱えてここまで来たのか。
その重さの端に触れた気がして、胸が苦しくなるばかりだった。
「……そんなこと、思いません」
「俺は、鬼だけではない。鬼化を免れない仲間すら、この手で幾人も斬ってきた」
「……はい」
「だが……今日初めて、何の躊躇いもなく、ただの人間を斬り伏せたいと願った」
暗い部屋で、朔夜の瞳だけが妖しく光って見えた。
その鋭い光が、今は脆く、危うく揺れている。
「お前を失う。……そのきっかけを作ったあの女を、八つ裂きにしても足りないほど許せないと思った。その暗い渇望を、俺自身、抑え込むことができなかった」
最強と謳われ、人知を超えた力を振るうはずのその肩が、今はとても小さく、震えているように見える。
「今もそうだ。お前が目の前にいるから、かろうじて正気を繋ぎ止めているに過ぎない」
この人の強さも、弱さも、そして誰にも見せない醜いまでの独占欲も。
すべてが今の私には、愛しくて、堪らなくなる。
人を殺したいほどの怒りを、綺麗なものだとは言えない。
けれど、その怒りの奥にあるものが、私を失いたくないという恐怖なのだと分かってしまうから。
どうしても、彼のそばにいたくて……
「恐らく、お前が止めなかったら、俺は——」
そこから先は、もう言葉にならない。
強く掴まれていた手首が、ふっと解放される。
項垂れる朔夜の顔に、手を伸ばそうとして一瞬躊躇う。
どうしたら、この人を救えるのだろう。
言葉は上手く出てこない。
けれど、どうしても彼を抱きしめたい。
私は伸ばした手で、彼の頭を優しく抱き寄せた。
「……俺は、化物だ……!」
「そんな哀しい言葉で、自分を傷付けないでください……」
一度身体を勢いよく離されると、今度は両肩を強く掴まれた。
指先が食い込むほどの強さだった。
けれど、それさえも私を傷つけるためではなく、自分から私を引き剥がすための力のように感じた。
「あんなことがあった直後でもっ!……俺はお前の血を、吸いたくて、吸いたくて堪らなくなる……っ!!」
言い切る前に、私は自ら襟元を広げるようにして、首筋を晒した。
そして、もう一度彼を強く抱き寄せる。
「朔夜が化物なら、私は……家族を捨てた私は、鬼以下です」
「っ……」
「私は、ずっと朔夜の側にいます。何が起きても、絶対に離れません」
朔夜の熱い吐息が、露出した首筋をかすめる。
私を抱き締める腕が、強くなる。
唇が少しずつ開き、熱い舌が首筋の動脈をなぞる感触に、背筋を甘い戦慄が駆け抜けた。
次に来るのが何か、私はもう、すべてを分かって受け入れている。
「っ……!」
「……っ、ん」
ほんの一瞬だけ、鋭い痛みが首筋を走った。
けれど、それはすぐ後に、全身を痺れさせるような甘美な痛熱へと変わっていく。
己の生命が彼へと流れ込み、すべてを明け渡していく感覚が全身を包み込む。
離れないように、離さないように。
背中に回した手で、彼の隊服を強く掴み、引き寄せた。
「はっ……、ぁ……」
「……あ、っ」
引き抜かれた牙の痕から、一筋の血が流れる。
それを惜しむように、朔夜は優しく、深く、熱を持って舐めとった。
その濃密な感触に、身体が激しく震える。
痛くて、苦しくて、それなのに離れたくない。
彼が私を求めている。
私の血で、私の存在で、かろうじて正気に踏みとどまっている。
そう思うだけで、胸の奥が泣きたくなるほど熱くなった。
ゆっくりと顔を上げると、至近距離で彼と視線が重なった。
今まで見たどの視線よりも、烈火のような熱と、愛執を孕んだその眼差しに息を呑む。
「……ここも、ほしい」
掠れた声で囁かれながら、熱い親指で唇をなぞられる。
「梓」
初めて、契約の対象ではなく、一人の女として名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
ただの番ではなく、役目でもなく、私自身を呼ばれた気がした。
「……構いません。全部、貴方のものです」
「それは……俺が、お前が番だからか?」
番だから?
始まりは、確かにそうだったのかもしれない。
命を救われ、命を繋ぐために血を差し出した。
何も知らないまま、番になった。
けれど、私にとって、もうそんな契約という形だけで、彼との関係を片付けることはできなくなっている。
朔夜の痛みと孤独を知った。
不器用な優しさも、息が苦しくなるほどの執着も知ってしまった。
それでも私は、離れたいとは思わなかった。
「違います。誰に決められたことでもない。……私の心は、私自身が決めました」
「梓っ……!」
「!……っ、んん」
荒々しく、貪るように唇を奪われる。
けれど、触れる先は驚くほど優しく、そして切ないほどに熱い。
逃げ場を塞ぐような腕の強さとは裏腹に、唇は何度も確かめるように触れてくる。
本当に拒まないのか。
本当に、ここにいてくれるのか。
そう尋ねられているようで、私は必死に彼の背へ腕を回した。
「梓っ、好きだっ……!」
「……はい……っ」
「好きだ。ずっと、ずっと……俺の、俺だけの……!」
何度も、何度も。
朔夜の紡ぐ熱い言葉に、溺れるようにして応える。
好きだと、まだ上手く声にはできなかった。
けれど、抱きしめ返す腕に、唇を重ねる呼吸に、彼を受け止めるすべてに、その答えを込める。
永い絶望と孤独の果てに。
この夜、私はようやく、本当の意味でこの人の番になれたのだと、確かに実感していた。



