鬼狩りの番~置き去りにされた娘は、半人半鬼に血を捧げる~

鬼狩りとなった十五歳から、何度もこの鬼省庁の空間を歩いてきた。

普段は、風景として認識することすらない街並み。
それが、彼女と歩いたあの日だけは、驚くほど鮮やかに、色濃く見えた。
店先に並ぶ小物の色。行き交う者たちの声。遠くで揺れる木々の影。
そのすべてが、彼女の隣にいるというだけで、まるで違うもののように見えた。

だが、今はまた元の白黒にしか見えない。
視界に入るすべてが、苛立ちを加速させる。

番候補が集められる鬼宿校に足を踏み入れる。
ここに通う者は、基本的な護身術や後方支援、そして——基礎的な『結界術』も学ぶ。

屋敷の結界は、中央のしめ縄だけが断ち切られていた。
四方の結界が無事だったのは、不幸中の幸いというべきか。
そのおかげで低級な鬼の侵入こそ防げたが、内部から招き入れれば結界など無意味に等しい。

手順を知る者の仕業。
そして、あの屋敷の内側へ入り込める番候補など、限られている。

「ここか」

目的の教室の扉を、容赦なく蹴り開ける。
中にいた番候補たちの視線が、一斉にこちらへ注がれた。

「あれ……睦月隊長?」
「なぜ、ここに……?」

ざわめきの中、担当の教師が慌てて駆け寄ってくる。

「睦月隊長、いかがされましたか?今は授業の最中でして……」
「構わん。すぐに済む用だ」

短く告げると、教室の中央に座る女の席へ、迷うことなく歩を進めた。

「……睦月さ——」

その震える声が発せられる前に、女の口元を掴み、強引に立ち上がらせた。
周囲の番候補たちが、弾かれたように立ち上がり、俺たちから距離を取る。
ガタガタと机が揺れ、椅子が派手に倒れる音が静かな教室に空虚に響いた。

「お前だな。俺の屋敷の結界を切ったのは」
「……っ!……っ!!」
「……答える必要はない。お前は今、この場で死ぬのだから」

女の足は地面から浮き上がり、見開かれた瞳からは大粒の涙が溢れ出した。
口を塞がれ、声にならない息だけが漏れている。

狼狽した教師が、再度割って入ろうとする。

「睦月隊長!鬼宿校でそのような真似は、どうか穏便に……!」
「黙れ。結界のしめ縄を切るなど、ここでは何を教えている。貴様の教育不足が、何人の犠牲を出したと思っている」
「それは……」
「貴様の責任も、後ほど追及させてもらう。覚悟しておけ」
「っ!」

一睨みすると、教師はそれ以上言葉を紡げず、青ざめて退いた。
どいつもこいつも、覚悟も誇りもない人間ばかりが、鬼狩りの足を引く。
番という立場の重さも知らず、ただ名誉と欲だけを眺めている。
その浅ましさが、何より腹立たしかった。

「よほど番という地位が欲しかったようだが、残念だったな」

このような身勝手な人間のせいで、どれだけの有能な部下たちが命を落としたか。
屋敷を守るために残っていた者たちが、どれほど凄惨な最期を迎えたか。
その光景が、まだ瞼の裏に焼きついて離れない。

「貴様の命をもって、死んでいった者に詫びろ」
「朔夜っ!!!」

刀の柄に手をかけ、一気に引き抜こうとした——。
右腕に圧し掛かる、必死な重みが俺の動きを止め、解放された女が床に崩れ落ちる。

「げほっ、ごほっ……!」

その前に滑り込むように、彼女が俺の腕へ縋りついていた。
俺の腕を掴み、決して刀を抜かせまいと、その細い指を重ねてくる。
震えながら、それでも離そうとはしない。

「刀を抜いてはダメです!お願い、止めて……!」
「離せ。こいつが何をしたか、分かって言っているのか!お前は、殺されかけたんだぞ!!」
「それでも……ダメです!」
「……人として死なせてやれなかった者たちに、俺はどう詫びればいい!!」

屋敷の使用人たちは、ああいった事態も覚悟していただろう。
だが、彼らを人間として死なせてやれなかった。
鬼狩りのこの手で、かつての仲間たちの命を断つしかなかった。

何より、俺の番を、命の危機に晒した。
その罪は、万死に値する。
到底、許せるはずがない。

「私が……!私が一緒に詫びます!!私は、貴方の番なのだから!貴方と一生、背負っていきますから!!」
「っ!」
「だから……どうか、お願いします……っ!」

彼女を、この残酷な世界から守りたい。
そう考える同じ手で、今すぐにでもそこに倒れ込んでいる女を殺してやりたいという破壊衝動が渦巻く。
この腕を抑える小さな手を除けるなど、俺には容易い。
そのまま刀を抜き、女の首を落とすことも、瞬きほどの時間で済む。

しかし、もしそれを実行すれば。

彼女は、二度と俺に笑いかけてはくれなくなるだろう。
どれほど慈しみを持って接しても、どれほど守ろうとしても。
彼女の瞳には一生、殺人者としての俺が映り続けることになる。

その未来を想像すると、喉の奥が焼けつくように痛んだ。

「……ふう……」

肺の底に溜まった熱を吐き出すように、大きく息をついた。
彼女の腕の力が、安堵したように僅かに緩む。

「……一刻だけ与える。すぐに鬼宿校から、いや鬼省庁の敷地内から立ち去れ」
「っ……!……あ……」

女は声を出すこともできず、ただ涙を流しながら激しく頷いた。
その惨めな姿を見ても、腹の底にある嫌悪感は一向に消えはしない。

「次、俺の前に現れたら……今度こそ、許さん」

それでも、添えられた手から伝わる温もりが、沸騰していた俺の頭を少しずつ冷静な場所へと連れ戻す。

「貴様は幾度となく、俺の番のおかげで命拾いした。その重みを、生涯忘れるな」

番装束を故意に汚したにも関わらず、彼女が口を噤んだこと。
屋敷で結毬の内側にいた彼女が生き延びたこと。
そして、今この瞬間、俺の番がこの腕を止めたこと。

そのどれか一つでも欠けていたなら……
添えられた手を強く握りしめ、俺は彼女の手を引きながら、騒然とする教室を後にした。

弱々しく手を握り返す彼女の顔を直視できない。
あの場で刀を抜こうとした俺を、彼女は恐れただろうか。
それとも、失望しただろうか。

問いかけることすらできないまま、ただ繋いだ手の温もりだけを確かめる。
それでも——その手を離すことなど、今の俺には、もう不可能だった。