「こら、東~! 三番テーブル、バッシング終わってなーい!」
「バッシング、ってなんだっけ」
「皿下げて、テーブル現状復帰すること! この間教えただろ」
「そうだ。そうだった。ごめん、千冬」
東がバイトに入って二週間経った。空手をやっていた東は礼儀作法についてはきっちりしていたものの、あんまり気が回るほうじゃない。だから教育係として丁寧に教えていたのだけど、「厳しく言ってくれ。俺、そうじゃないと覚えないから」と言われて遠慮を捨てた。
今はぽんぽん言えるこの関係がちょっと楽しくすらなってしまった。
「全中って、空手の全国大会だろ? それ行ったの?」
「まあ。けどベスト16にも入れなかったから」
「いやいやいや! 行けることがすごいじゃん。俺、バスケやってたけど、ほぼ補欠でさあ」
「ポジションどこだった?」
「シューティングガード」
「スリーポイントシュートうまくないとできないとこだよな。千冬、すごいな」
バイトの休憩時間も楽しい。東はぶっきらぼうながら、まっすぐで、裏表がない。信用が服を着て歩いているみたいだ。俺も嘘がつけないタイプだから、うまは合う。だからか、それほど一緒にいないにも関わらず、まあまあ深い話もするようになった。
「寿命診断アプリって知ってる? 名前と生年月日を入れるとあなたの寿命は残り何年ですって出るやつ。今、うちの学校で流行ってて。けど、それが原因で学校来なくなったやついて」
「え、どゆこと?」
「あれって死亡予定日と死因まで出るんだ。でその死亡予定日が偶然、まったく同じで出たやつらがいて。しかも死因が『心中』って出ちゃって。それ見たやつらが面白がってからかうようになったんだ。お前ら、ラブラブじゃーんとか言って」
「うわー……そういうの俺嫌い」
想像して俺は鼻の頭にしわを寄せる。東も同じような顔をしていた。
「俺も。だから学校来なくなった女子の見舞いに行った。一応、俺、クラス委員だし。そしたら今度は俺とその女子のこと、いろいろ噂するやつが出てきて。まあそんなの俺としてはどうでもいいんだけどさ、あっちには嫌な思いさせたかもなあって落ち込んでた」
多分、こいつはクラス委員じゃなかったとしても、学校に来なくなったやつがいたら見舞いに行くと思う。それくらい真面目で、人に対しての視野が広い。
「余計なこと、しないほうがよかったのかもなあ」
「そんなことないだろ」
だから、そんな東がしょんぼりと言うのを聞いて俺は思わず言ってしまった。
「確かに噂されるのは嫌だったかもだけど、気にかけてくれるやつがいるって心強いものじゃないか? 俺だったらうれしいよ」
「そう、か?」
「そうだろ。休んでると、置いて行かれるような気になるじゃん。勉強とかクラスの空気とか。けど自分がいなかったときのことを教えて、並走してくれるやつがいるってありがたいんじゃないかなあ」
「そう、だといいな」
俺は面倒見がいいほうでもないし、相談相手としては不十分だったかもしれないけど、それでも東がほっとした顔をしてくれて、こちらも救われたような気がした。
ただ……俺は気になっていた。俺がそうやって東と仲良くなればなるほど、史人さんとの距離が開いていっていることが。
まず、あれほどあったメッセもほぼ来なくなった。バイトで顔は合わすし、会話もするけど、
「先輩、キャッシャー俺入るんで、いいですよ」「ダスター、新しいの出してきます」「オーダー、俺行きます」……こんなのばっかり。
前みたいに意味なく寄ってもこないし、笑いかけてもくれない。
多分、怒っているんだと思う。ロッカールームで俺が言っちゃったことを。
わかるけど、でも、俺は……。
「千冬、レシート紙切れした。換え方教えて」
もやもやする俺を東が呼ぶ。笑顔を張り付け直して俺は東に向き直る。
いけない。今は仕事に集中しなきゃ。バイトったって、お金もらってるんだし。
気合を入れ直し、俺はキャッシャーへと向かう。レジカウンターの下から巻き尺みたいな感熱紙を取り出し、レジを操作する。
「まずさ、ここ、これ押すと、蓋開くからここから芯取り出して……」
「あの」
メモ帳片手に覗き込んでくる東とともにレジに屈みこんでいると、カウンターの向こうで声がした。お客様が入ってきたのに、気付かず作業してしまっていたらしい。
慌てて顔を上げる。高校生らしい女子がふたり、こちらを見て立っていた。
「も、申し訳ありません! ご案内します」
「あー、いえいえ。っていうかあの」
ふたりのうちのひとりが口を開く。栗色のふわふわロングヘア―。ぷるっとした唇。上を向いた睫毛。華やかな美人って感じの人だ。
その彼女の制服を見てふと気付く。
ライトグレーのブレザーに臙脂色のネクタイ。
史人さんと同じ学校の人だ。と、悟った俺の目の前で、艶めいた唇が動いた。
「四宮史人、今日、います?」
……呼び捨て?
「四宮さんの知り合いですか」
声を発したのは俺の隣にいた東だった。ちらっとホールに目を向け、躊躇なく声を上げる。
「四宮さん、お客様です!」
水差しを手にした史人さんが怪訝そうにこちらを見る。その目がふわふわロングの彼女を見てふっと見開かれた。長い足を高速で動かしてこちらへと歩み寄ってくる。
「東くんさ、呼ぶときは叫ばないでインカム使って……ってか、なに来てんの」
前半は東くんに、後半はお客様である彼女に言う史人さんの眉間にはしわが寄っていた。
「なにそれ~。いいじゃん。史人が働いてるとこ、見たかったんだもん」
ぷっと頬が膨らむ。メイクや髪型は大人っぽいのに、表情は子どもっぽい。アンバランスだけど目が離せなくなる人だ。
「実弥、お前なあ……」
名前を聞いたと同時にくらっとした。とっさにカウンターの端を掴んで体を支える。その間も彼女は史人さんに話しかけ続けている。
「ってか史人、唇、乾燥してる。待って。リップ塗ってあげるし」
「いいって。そういうの」
「良くない。私の王子様ですから。史人は」
「み~や~。バイトの邪魔しちゃだめだって」
彼女の連れらしい女子が声を上げる。こちらは実弥さんより背が高くて、長い黒髪をきりっと高い位置でポニーテールにしている。メイクもほぼしてなさそうだけど、目鼻立ちがくっきりした美人だ。
「ごめんね。この子、どうしても行くって言うから」
「いいよ」
黒髪のほうにひらひらと手を振り、史人さんは彼らを先導してフロアへと戻っていく。
その間、一度もこちらを見てくれなかった。
当たり前といえば、当たり前なんだし、傷つくのもおかしいのに。
「千冬?」
東の声で我に返る。完全に手が止まってしまっていた。
「あー、ごめん。えっと、これ、紙の端をこの穴に引っ掛けておくのな。こうしないとちゃんと出てきてくれないから」
「うん」
神妙に頷かれる。そうされて無性に情けなくなった。
バイト中だっていうのに、全然集中できてなくて、なにが教育係だって話だ。
「ごめん、俺、ちょっとぼーっとしてて。説明上手くできてなかったと思うから、わかんなかったらまた訊いて」
極力明るく言うが、東は黙っている。この二週間、仕事ぶりを見ていて思ったけど、ひとつずつ考えて自分の中で咀嚼してから動くタイプのようだから、今は教えられたことを整理している段階なのかもしれない……などと思っていた俺の腕が、不意に東に掴まれた。
「ちょっと、来て」
「え、なに?」
声を上げるが、その俺を無視した手がずんずんと俺を引っ張る。そのまま通用口を出て、ファミレスの外に引き出された。
「まずいって。まだバイト中……」
「そんな顔でフロアに立つ方がまずい」
「そんな顔って……」
ずばっと言われ、俺はとっさに自分の頬を確かめる。別にいつもと変わった様子もない。もちろん、泣いても、いない。
「え、あの、俺、変な顔、してる?」
「してる」
「ど、ど、どんな……」
「しいていうなら……空手もうできないって言われた日の俺の顔に近い」
なんだって?
ぽかんとする俺を見下ろし、東は険しい顔で言う。
「中学のとき、俺、空手本気でやってた。勉強よりも空手が楽しくて。けど、靭帯、やっちゃって。で……空手辞めたんだ。部活も帰宅部になって。その日の俺と同じ顔、千冬、してるから」
「それ……」
こいつにとって傷になっている話じゃないのか? そんな話をなんで今する?
というか……そんな大変なときと今の俺の顔が同じなんてこと、あるわけないじゃないか。
「俺、そこまでつらい顔、して、ないよ?」
「してるから連れ出してる」
短く言い、東はふうっと息を吐いた。
「やるせないっていうか……納得いかないっていうか……そんな顔、してる」
低い声。その声と共に指が伸びてくる。さらっと頬をなぞられて俺は仰天した。あたふたと東の手を払おうとしたが、その俺の手を東の声が止めた。
「千冬、やっぱり四宮さんと付き合ってる?」
「は……」
史人さんの名前が出てますます動揺した。大きく肩で息をして、やっとのことで声を絞り出す。
「付き合うとかあるわけないだろ。あの人彼女いるし!」
「それ、さっきのあの人? リップがどうこう言ってた」
ああもう。なんだろうこいつ。仕事の勘はあんま良くないくせに、こういうところの勘はいいのかよ。
いらいらしながら俺は軽く壁を蹴る。
「そーだよ! 彼女! 美人で巨乳の! 俺の胸見てみろ! 胸なんて全然ないだろうが! だから俺と付き合うわけねえっての! わかったら仕事戻……」
くるっと体の向きを変え、通用口に向かおうとする。その俺の顔の前を腕が横切った。とん、と壁に手が突かれ、それ以上進めないようにブロックされる。
「……なに、これ」
ふざけている場合か。いらっとして後ろに下がろうとしたら、そちらも腕で塞がれた。両腕で囲い込まれるようにされてはて、と首を捻る。
これ、壁ドンじゃね?
「ちょ、なにやってんの! 戻んないと……」
「千冬さ、もしかして四宮さんに二股かけられてたりすんの」
低い声で言われ、俺は口を開ける。
あの人と俺は付き合ってなんていない。メッセは送り合っているけど、特別なことなんてなにもない。おはよう、おやすみ、ゴリラの雄はまあまあシャイ、そんなガキみたいな内容だ。
一緒に出掛けたのだって数えるほどしかない。そんなうっすい関係しかないのだ。ああ、どれだけ望んでも。
「かけられてるわけねえだろって! ゲスい言い方すんな! 馬鹿!」
どんっ、と腕を振り回し、体を押しのける。俺とこいつじゃ体の大きさが違いすぎるから、もしかしたら動かないかも、なんて思ったけど、めいいっぱいの力だったからか、あっさりと包囲網を突破できた。
「フロア、戻るから! お、お前もさっさと戻れよ! いいな!」
言い捨てて通用口のドアを開ける。あまりに息せききって飛び込んだので、ゴミ袋をまとめていた店長にぎょっとされてしまった。
「どうしたの、大丈夫? ってかさぼってた? だめだよ~。まあ、今、混んでないからいいけども」
「あ、いや! すみません! そ、その」
「それ、俺捨ててきます」
しどろもどろの俺の脇から声がする。見れば、通用口から入ってきた東が店長の手からゴミ袋を取り上げるところだった。
「あ、悪いね、よろしく」
にこにこと店長が去っていく。その後ろ姿にいつも通り、東はきっちりと頭を下げる。
オーダーを間違えたり、皿を割ったり、こいつはいろいろやらかしてはいるけど、それでも大目玉を食らわずにいられるのは、こういう礼儀正しさがあるからかもしれない。紳士で、誠意が滲んでいて。
だから多分、こいつはこいつなりに俺のことを心配してくれたってことなんだと思う。大体、不登校になったクラスメイトを心配して見舞いに行くくらい、親切なやつだし。そんなやつに「馬鹿」は言いすぎだった。
とはいえ、なんて言えばいいんだろう。
もやもやしながら俺は東に背を向けて仕事に戻る。東はゴミ袋を提げて再び外へ。フロアでは相変わらずの涼しい笑顔で史人さんが接客をしていた。
「バッシング、ってなんだっけ」
「皿下げて、テーブル現状復帰すること! この間教えただろ」
「そうだ。そうだった。ごめん、千冬」
東がバイトに入って二週間経った。空手をやっていた東は礼儀作法についてはきっちりしていたものの、あんまり気が回るほうじゃない。だから教育係として丁寧に教えていたのだけど、「厳しく言ってくれ。俺、そうじゃないと覚えないから」と言われて遠慮を捨てた。
今はぽんぽん言えるこの関係がちょっと楽しくすらなってしまった。
「全中って、空手の全国大会だろ? それ行ったの?」
「まあ。けどベスト16にも入れなかったから」
「いやいやいや! 行けることがすごいじゃん。俺、バスケやってたけど、ほぼ補欠でさあ」
「ポジションどこだった?」
「シューティングガード」
「スリーポイントシュートうまくないとできないとこだよな。千冬、すごいな」
バイトの休憩時間も楽しい。東はぶっきらぼうながら、まっすぐで、裏表がない。信用が服を着て歩いているみたいだ。俺も嘘がつけないタイプだから、うまは合う。だからか、それほど一緒にいないにも関わらず、まあまあ深い話もするようになった。
「寿命診断アプリって知ってる? 名前と生年月日を入れるとあなたの寿命は残り何年ですって出るやつ。今、うちの学校で流行ってて。けど、それが原因で学校来なくなったやついて」
「え、どゆこと?」
「あれって死亡予定日と死因まで出るんだ。でその死亡予定日が偶然、まったく同じで出たやつらがいて。しかも死因が『心中』って出ちゃって。それ見たやつらが面白がってからかうようになったんだ。お前ら、ラブラブじゃーんとか言って」
「うわー……そういうの俺嫌い」
想像して俺は鼻の頭にしわを寄せる。東も同じような顔をしていた。
「俺も。だから学校来なくなった女子の見舞いに行った。一応、俺、クラス委員だし。そしたら今度は俺とその女子のこと、いろいろ噂するやつが出てきて。まあそんなの俺としてはどうでもいいんだけどさ、あっちには嫌な思いさせたかもなあって落ち込んでた」
多分、こいつはクラス委員じゃなかったとしても、学校に来なくなったやつがいたら見舞いに行くと思う。それくらい真面目で、人に対しての視野が広い。
「余計なこと、しないほうがよかったのかもなあ」
「そんなことないだろ」
だから、そんな東がしょんぼりと言うのを聞いて俺は思わず言ってしまった。
「確かに噂されるのは嫌だったかもだけど、気にかけてくれるやつがいるって心強いものじゃないか? 俺だったらうれしいよ」
「そう、か?」
「そうだろ。休んでると、置いて行かれるような気になるじゃん。勉強とかクラスの空気とか。けど自分がいなかったときのことを教えて、並走してくれるやつがいるってありがたいんじゃないかなあ」
「そう、だといいな」
俺は面倒見がいいほうでもないし、相談相手としては不十分だったかもしれないけど、それでも東がほっとした顔をしてくれて、こちらも救われたような気がした。
ただ……俺は気になっていた。俺がそうやって東と仲良くなればなるほど、史人さんとの距離が開いていっていることが。
まず、あれほどあったメッセもほぼ来なくなった。バイトで顔は合わすし、会話もするけど、
「先輩、キャッシャー俺入るんで、いいですよ」「ダスター、新しいの出してきます」「オーダー、俺行きます」……こんなのばっかり。
前みたいに意味なく寄ってもこないし、笑いかけてもくれない。
多分、怒っているんだと思う。ロッカールームで俺が言っちゃったことを。
わかるけど、でも、俺は……。
「千冬、レシート紙切れした。換え方教えて」
もやもやする俺を東が呼ぶ。笑顔を張り付け直して俺は東に向き直る。
いけない。今は仕事に集中しなきゃ。バイトったって、お金もらってるんだし。
気合を入れ直し、俺はキャッシャーへと向かう。レジカウンターの下から巻き尺みたいな感熱紙を取り出し、レジを操作する。
「まずさ、ここ、これ押すと、蓋開くからここから芯取り出して……」
「あの」
メモ帳片手に覗き込んでくる東とともにレジに屈みこんでいると、カウンターの向こうで声がした。お客様が入ってきたのに、気付かず作業してしまっていたらしい。
慌てて顔を上げる。高校生らしい女子がふたり、こちらを見て立っていた。
「も、申し訳ありません! ご案内します」
「あー、いえいえ。っていうかあの」
ふたりのうちのひとりが口を開く。栗色のふわふわロングヘア―。ぷるっとした唇。上を向いた睫毛。華やかな美人って感じの人だ。
その彼女の制服を見てふと気付く。
ライトグレーのブレザーに臙脂色のネクタイ。
史人さんと同じ学校の人だ。と、悟った俺の目の前で、艶めいた唇が動いた。
「四宮史人、今日、います?」
……呼び捨て?
「四宮さんの知り合いですか」
声を発したのは俺の隣にいた東だった。ちらっとホールに目を向け、躊躇なく声を上げる。
「四宮さん、お客様です!」
水差しを手にした史人さんが怪訝そうにこちらを見る。その目がふわふわロングの彼女を見てふっと見開かれた。長い足を高速で動かしてこちらへと歩み寄ってくる。
「東くんさ、呼ぶときは叫ばないでインカム使って……ってか、なに来てんの」
前半は東くんに、後半はお客様である彼女に言う史人さんの眉間にはしわが寄っていた。
「なにそれ~。いいじゃん。史人が働いてるとこ、見たかったんだもん」
ぷっと頬が膨らむ。メイクや髪型は大人っぽいのに、表情は子どもっぽい。アンバランスだけど目が離せなくなる人だ。
「実弥、お前なあ……」
名前を聞いたと同時にくらっとした。とっさにカウンターの端を掴んで体を支える。その間も彼女は史人さんに話しかけ続けている。
「ってか史人、唇、乾燥してる。待って。リップ塗ってあげるし」
「いいって。そういうの」
「良くない。私の王子様ですから。史人は」
「み~や~。バイトの邪魔しちゃだめだって」
彼女の連れらしい女子が声を上げる。こちらは実弥さんより背が高くて、長い黒髪をきりっと高い位置でポニーテールにしている。メイクもほぼしてなさそうだけど、目鼻立ちがくっきりした美人だ。
「ごめんね。この子、どうしても行くって言うから」
「いいよ」
黒髪のほうにひらひらと手を振り、史人さんは彼らを先導してフロアへと戻っていく。
その間、一度もこちらを見てくれなかった。
当たり前といえば、当たり前なんだし、傷つくのもおかしいのに。
「千冬?」
東の声で我に返る。完全に手が止まってしまっていた。
「あー、ごめん。えっと、これ、紙の端をこの穴に引っ掛けておくのな。こうしないとちゃんと出てきてくれないから」
「うん」
神妙に頷かれる。そうされて無性に情けなくなった。
バイト中だっていうのに、全然集中できてなくて、なにが教育係だって話だ。
「ごめん、俺、ちょっとぼーっとしてて。説明上手くできてなかったと思うから、わかんなかったらまた訊いて」
極力明るく言うが、東は黙っている。この二週間、仕事ぶりを見ていて思ったけど、ひとつずつ考えて自分の中で咀嚼してから動くタイプのようだから、今は教えられたことを整理している段階なのかもしれない……などと思っていた俺の腕が、不意に東に掴まれた。
「ちょっと、来て」
「え、なに?」
声を上げるが、その俺を無視した手がずんずんと俺を引っ張る。そのまま通用口を出て、ファミレスの外に引き出された。
「まずいって。まだバイト中……」
「そんな顔でフロアに立つ方がまずい」
「そんな顔って……」
ずばっと言われ、俺はとっさに自分の頬を確かめる。別にいつもと変わった様子もない。もちろん、泣いても、いない。
「え、あの、俺、変な顔、してる?」
「してる」
「ど、ど、どんな……」
「しいていうなら……空手もうできないって言われた日の俺の顔に近い」
なんだって?
ぽかんとする俺を見下ろし、東は険しい顔で言う。
「中学のとき、俺、空手本気でやってた。勉強よりも空手が楽しくて。けど、靭帯、やっちゃって。で……空手辞めたんだ。部活も帰宅部になって。その日の俺と同じ顔、千冬、してるから」
「それ……」
こいつにとって傷になっている話じゃないのか? そんな話をなんで今する?
というか……そんな大変なときと今の俺の顔が同じなんてこと、あるわけないじゃないか。
「俺、そこまでつらい顔、して、ないよ?」
「してるから連れ出してる」
短く言い、東はふうっと息を吐いた。
「やるせないっていうか……納得いかないっていうか……そんな顔、してる」
低い声。その声と共に指が伸びてくる。さらっと頬をなぞられて俺は仰天した。あたふたと東の手を払おうとしたが、その俺の手を東の声が止めた。
「千冬、やっぱり四宮さんと付き合ってる?」
「は……」
史人さんの名前が出てますます動揺した。大きく肩で息をして、やっとのことで声を絞り出す。
「付き合うとかあるわけないだろ。あの人彼女いるし!」
「それ、さっきのあの人? リップがどうこう言ってた」
ああもう。なんだろうこいつ。仕事の勘はあんま良くないくせに、こういうところの勘はいいのかよ。
いらいらしながら俺は軽く壁を蹴る。
「そーだよ! 彼女! 美人で巨乳の! 俺の胸見てみろ! 胸なんて全然ないだろうが! だから俺と付き合うわけねえっての! わかったら仕事戻……」
くるっと体の向きを変え、通用口に向かおうとする。その俺の顔の前を腕が横切った。とん、と壁に手が突かれ、それ以上進めないようにブロックされる。
「……なに、これ」
ふざけている場合か。いらっとして後ろに下がろうとしたら、そちらも腕で塞がれた。両腕で囲い込まれるようにされてはて、と首を捻る。
これ、壁ドンじゃね?
「ちょ、なにやってんの! 戻んないと……」
「千冬さ、もしかして四宮さんに二股かけられてたりすんの」
低い声で言われ、俺は口を開ける。
あの人と俺は付き合ってなんていない。メッセは送り合っているけど、特別なことなんてなにもない。おはよう、おやすみ、ゴリラの雄はまあまあシャイ、そんなガキみたいな内容だ。
一緒に出掛けたのだって数えるほどしかない。そんなうっすい関係しかないのだ。ああ、どれだけ望んでも。
「かけられてるわけねえだろって! ゲスい言い方すんな! 馬鹿!」
どんっ、と腕を振り回し、体を押しのける。俺とこいつじゃ体の大きさが違いすぎるから、もしかしたら動かないかも、なんて思ったけど、めいいっぱいの力だったからか、あっさりと包囲網を突破できた。
「フロア、戻るから! お、お前もさっさと戻れよ! いいな!」
言い捨てて通用口のドアを開ける。あまりに息せききって飛び込んだので、ゴミ袋をまとめていた店長にぎょっとされてしまった。
「どうしたの、大丈夫? ってかさぼってた? だめだよ~。まあ、今、混んでないからいいけども」
「あ、いや! すみません! そ、その」
「それ、俺捨ててきます」
しどろもどろの俺の脇から声がする。見れば、通用口から入ってきた東が店長の手からゴミ袋を取り上げるところだった。
「あ、悪いね、よろしく」
にこにこと店長が去っていく。その後ろ姿にいつも通り、東はきっちりと頭を下げる。
オーダーを間違えたり、皿を割ったり、こいつはいろいろやらかしてはいるけど、それでも大目玉を食らわずにいられるのは、こういう礼儀正しさがあるからかもしれない。紳士で、誠意が滲んでいて。
だから多分、こいつはこいつなりに俺のことを心配してくれたってことなんだと思う。大体、不登校になったクラスメイトを心配して見舞いに行くくらい、親切なやつだし。そんなやつに「馬鹿」は言いすぎだった。
とはいえ、なんて言えばいいんだろう。
もやもやしながら俺は東に背を向けて仕事に戻る。東はゴミ袋を提げて再び外へ。フロアでは相変わらずの涼しい笑顔で史人さんが接客をしていた。



