――おはよう。千冬、後で会おうね。
――今日食べた明太コロッケ、美味すぎだった。極旨カレー味も気になったから今度半分こして食べよ。
――千冬、おやすみ。
更衣室で学校指定のブレザーから、ハピロンのシックな制服に着替え終わった俺はスマホの画面をさらっと指でなぞる。
そこには史人さんとのやり取りがずらっと並んでいた。
メッセ送ったりしたい、という言葉通り、史人さんは毎日のようにメッセしてくる。ほとんどがどうでもいい話題だ。挨拶と、今日あったことの感想。それと。
――今週、日曜、バイトの後、どっか行こ。
お出かけの誘い。
それに対し、俺はしぶしぶの顔をした文字を送る。
――宿題、いっぱい出てるけど、いいよ。
可愛くないなあと思う。でも自分の中でこうやって防波堤を築いておかないと、決定的なことを言っちゃいそうで怖い。
ほんと、どうかしている。
「あー、四宮くーん、おはよー!」
声にはっとする。フロアに出てシルバーの補充をしていた手が滑りそうになる。危ういところで手に力を込めて顔を上げると、俺より遅れて出勤した史人さんが笑顔でバイトメンバーに挨拶しているのが見えた。
白いダウンライトの下で金茶の髪がきらきらして……綺麗だ。
「あー、ちふ、先輩、おはよ」
俺に気付いた史人さんがぱちっと片目を瞑ってみせる。俺は慌てて顔を背け、おはよう、と口の中で言う。
やりにくい。でも……なんか、胸の奥がくすぐったい。
好きな人がバイト先にいるってこういう感じなんだ。
まあ……向こうは彼女持ちだし、絶対的片想いなんだけど。
「あー、みんな、ちょっとキッチン集合~」
店長の声に俺は慌てて気持ちを切り替える。背筋を伸ばしてキッチンへと向かうと、見慣れない男が店長の隣に立っていた。
背がめちゃくちゃ高い。史人さんも背が高いけど、その史人さんと並ぶかそれより高いかも。ただ史人さんと違って黒髪で、おでこもくっきり出た短髪だ。濃い眉と眼力ある目。きりっとしていてそのつもりがなくてもちょっと怖い印象を見る人に与えちゃいそうな。武道家とか格闘家とか、そんな印象の人。
「新しくバイトに入る東雄一くん。いろいろ教えてあげてね。特にあー、芹那くん」
「は?」
思わず変な声が出てしまった。居並ぶみんなの目がこちらを向く。
「彼、高校一年なんだって。君もそうだよね」
「はあ」
「学年一緒だし、しっかり教えてあげてね」
丸顔でちょっぴり小太り。笑顔しか見たことのない店長。俺達のことをいつも心配してくれる優しい人だけど、さすがに店長をやってるだけあって、時々強引だ。しかも同い年は全員仲良くできると思っている節がある。
こいつと俺だと全然タイプ違う気がするけど。まあ、仕方ない。
はーい、解散~、と店長が手を叩き、ホールスタッフの俺達はキッチンを出る。
「あー、と、よろしく。わかんないことあったらなんでも聞いて」
「はい」
こくんと東くんが頷く。俺よりも高い位置からこちらをじっと見下ろしながら。
ちょっとこっちが委縮するくらい圧のある視線だった。
「えー、と、ごめん。俺の顔、なんか、ついてる?」
「いえ。ただ」
ふるっと頭が振られる。切れがあって、本当に武道家みたいな動きだ。男らしくて、見ていて清々しい。表情は少ないけど、こういうタイプはきびきび働きそうだ。
なんて好印象だったのに、次の瞬間、俺は一気にこいつが嫌いになった。
「芹那さん、男だったんですね」
「……は?」
こいつ、なんだって?
俺が顔をしかめたのを見ているはずなのに、東の顔は無表情のままだ。
「顔、すごく可愛いから女子かと。でも声聞いたら違ったから。ちょっとびびって」
「……女子がいいなら他の人に教育係頼むけど。どうする」
こういうことを言ってくるやつがたまにいる。けど、肩を怒らせて睨み上げるとたいていは平謝りしてくる。それは言われて嫌なことだとこいつにも教えるつもりだったが、東はやっぱり表情を崩さないまま首を傾げてきた。
「いや、俺、女子苦手なんで男でよかったです。よろしくお願いします」
ごめんとかすまんとか謝る気はないのか、こいつ!
「せーんぱい。どした?」
コーヒーサーバーを持ってフロアをラウンドしていた史人さんが声をかけてくる。テーブル番号をレクチャーし、お冷のお替りを注ぐよう東くんをフロアに送り出した直後だった。
「どうも、しないです」
「顔、怖いけど? 話聞く?」
顔が可愛いからって女と勘違いされてた、なんて言いたくない。
唇を曲げながらカップをドリンクバーコーナーに補充する。さりげなくそれに手を貸してくれながら史人さんが顔を寄せてきた。
「帰り、唐揚げ買ってあげるから。機嫌直しな」
ああもう。怒っていたのに。そんなふうに宥められたらもういいかな、と思ってしまう。
「瀬戸内レモン味がいい」
ぼそっと言うと、オッケー、と史人さんが耳元で囁いた。そのままするっと俺の横を抜けてまたフロアに出ていく。
オッケーと言われたとき、さらっと耳の端をなぞった吐息に顔が赤くなってしまう。熱くなる頬を宥めながら高速で俺はカップを棚に並べる。そうしながら思ってしまった。
早くバイト終わらないかな、なんて。けど。
「なんか一緒に帰るようにって店長に言われたんですけど」
バイトが終わり、さあ帰ろうとロッカーのドアを閉めたところで東くんに言われて、俺は口をぽかんと開けてしまった。
「え、なんで」
「なんかここの国道、治安悪いからとか。そういう通学団みたいなの、ここあるんですか」
「あー、まあ。ひったくりに遭ってさ、俺が」
「マジっすか」
表情がなかった顔に驚きがわずかに走る。
「大丈夫だったんですか。ひったくりなんて」
「あ、うん。ふみ、いや、四宮さんが一緒にいてくれたから」
史人さんはまだフロアから戻ってきていない。そろそろかな、とちらっとフロアを窺うと、四宮、と呟いてから、ああ、と東くんが目を細めた。
「あのイケメンの人ですよね。あの人、そんな強いんですか?」
「あ、えと、うん。すごかった。自転車追いかけてって、鞄、取り返してくれた」
話しているうちにあのとき感じた不安が胸にせりあがってくる。
相手がどんなやつかもわからないのに、無茶して。しかもあの人は言ったのだ。
――やられたのが千冬だったから、なんかこう、かーっとなって。
あの声を俺は多分ずっと忘れられないと思う。
「芹那さん」
物思いにふけっていた俺の前にぬっと顔が突き出され、我に返った。いけない。こいつがいたんだった。
「あー、ごめん、あの、なんの話だっけ。そうだ、一緒に帰るって話だったよな。うん。店長が言うなら……」
本当はちょっと嫌だった。こいつがいたら唐揚げ買ってもらえない。って別に唐揚げが目的ってわけじゃないけど。
「芹那さんってもしかして四宮って人と付き合ってるんですか」
いきなり言われて……完全に意表を突かれた。
「はっ……?! なん、でそうなんの?!」
「いや、顔真っ赤だし。俺が一緒に帰るの嫌そうだったんで。もしそうなら俺、遠慮しようかと」
「いやいやいやいや! そんなわけないじゃん! たまったま方角が一緒で、同中で、兄ちゃんの友達ってだけの人! それ以外なんもないから!」
そうだ。なんにもない。なんにも、ない。
「そうなんですか?」
「当たり前だろ! あんなチャラそうな人! 付き合うとかそんなのあるわけないだろ! 願い下げだってば!」
言いかけたその俺の背後で、ドアがかすかに軋む。振り向いて凍り付いた。
「おつかれ、東くん、と先輩」
にこにこしながら史人さんが更衣室に入ってくる。完全に蒼白になっている俺を無視し、ロッカーを開ける。さらっとベストを脱ぎ、カッターシャツを脱ぐ。話しかけてくんな、と言いたげな気迫が背中から漂ってきておろおろしている俺を尻目に、着替えを終えた史人さんは、ぱたん、とドアを閉じるとこちらを振り向いた。
「帰ろうか。ふたりとも」
笑顔が怖すぎる。
俺を挟んで右側に東くん。左側に史人さん。その状態で夜道を歩きながらさっきから俺は左側を盗み見ている。が、左側の彼は俺には一切視線を向けず、俺を飛び越えて東くんにばかり話しかけている。
「そっかあ、東くん、空手やってたんだ。道理で体締まってると思った」
「四宮さんこそ鍛えてますよね。さっき芹那さんに聞きました。ひったくりから鞄取り返したって」
「あー、でも、千冬にも怪我させちゃったから、あんまり誇れる話じゃないよ」
さらさらっと言って、史人さんがこちらをやっと見る。けど目が笑っていない。
まずい、怒ってる。チャラいとかいろいろ言っちゃったもんな。どうしよう、と焦っている俺の右側で東くんが首を傾げる。
「ちふゆ?」
「俺の、名前」
「あ、そうなんですね」
東くんが頷く。相変わらず表情はない。この無表情も今日一日見ていて少しは慣れた気がしたけど、史人さん同様、思いもよらない言葉が飛んできそうでちょっと怖い。
怖いふたりに挟まれての帰路。なんだこれ。びびっている俺の横で東くんがぽつんと言った。
「千冬って名前、芹那さんに似合いますね。すごく可愛くて」
なんだって?
顔が引きつる。と同時に、俺の左側で史人さんが吹き出した。
「ちょ! なんで笑うの! 史人さん!」
「だって」
可愛いと言われたことより、この人に笑われたことのほうが苛つく。しかも全然笑い止む気配がない。一体いつまで笑えば気が済むんだろう。
いらいらする俺を尻目に、ひとしきり笑った史人さんが、はああ、と大きく息をついた。
「千冬の可愛さなんて全然わかってないくせに、東くん、可愛いとか言いやがるから。なんか面白くて」
「……え」
笑顔で言うから、意味が伝わらなかったらしい。東くんはしばらくぽかんとしてから、ええと、と頬を指先で掻いた。
「なんか、すみません」
「あー、いやいや。謝ることじゃ。ってか、俺、こっちだ。じゃあ、またね。東くん――先輩」
ひらっと史人さんが手を振る。いつもだったら俺の家のすぐそばまで来てくれるのに、今日はそれよりずいぶん手前の道だ。
角を曲がり、史人さんの姿が視界から消えたところで東くんが口を開く。
「俺、なんかまずいこと言っちゃったんですかね」
「あー、いや、うーんと」
訊かれても困る。俺にもよくわからない。でも多分、史人さんが怒っているのは東くんにじゃない。
めちゃくちゃ気になって、すぐにも追いかけたかったけど、今は東くんが一緒だ。仕方なくそのまま歩いたものの、そんな状態だから当然会話はまったく盛り上がらなかった。
「あ、俺の家ここです」
重すぎる空気を背負ったまま歩き続けた末に、東くんが指し示したのは、俺の家から見えるような位置にあるマンションだった。史人さんの家よりも近いかもしれない。学区も一緒だったはずなのにこいつがいた記憶がない、と思っていたら、
「引っ越してきたばっかりなんですよ。だからいろいろわかんなくて。よかったらこの辺のこと教えてください。芹那さん」
と、丁寧に言われた。
そうされて反省した。
可愛い云々言われたり、無表情を向けられたりしたせいで、むかついてばかりいたけど、悪いやつじゃないんだ。
仲良くしておかないとバイトもやりにくくなる。ここは俺から歩み寄るべきかもしれない。
「あのさ、タメなんだし、敬語じゃなくていいよ」
「え、いいんですか」
「うん。そのほうが俺もやりやすいし」
「あ、そうなん……そうか。じゃあ、そうする」
ふっと東くんの顔が綻ぶ。こんな顔もするのか、とちょっと驚く。考えてみれば今日はバイト初日だ。崩れなかった無表情も、緊張していたせいだったのかもしれない。
「じゃあ、またな。東」
「うん、また。千冬」
・・・ん?
首を傾げてしまう俺に東くんはなんの含みもない顔で会釈をすると、そのままマンションの中に消えた。
……まあ、敬語は使わなくてもいいとは言った。フレンドリーに接してくれていいよの意味で言ったんだから、別にいいといえばいい。いいけど。
「距離感バグりすぎ……」
正直、東くんの言動には乱された。けど、今は史人さんだ。スマホを引っ張り出して史人さんとのトーク画面を立ち上げる。ごめん、と入力して送信ボタンを押そうとする。
でもそこで躊躇した。
確かに言いすぎたとは思う。願い下げだまで言うことはなかった。実際、俺達は付き合っているわけじゃないし、付き合う予定もないんだから。
「彼女、いるもんな……」
にもかかわらず、史人さんは俺に触れてくる。東くん以上におかしな距離感で近づいてくる。
あの人にとってはちょうどいい距離感なのかもしれないけど、俺にしてみたら……。
考えていたらいらいらしてしまった。
結局、俺はなにも入力しないまま、スマホをポケットに戻した。
その夜、史人さんからも、おやすみ、は来なかった。日曜会う約束もうやむやになってしまった。
――今日食べた明太コロッケ、美味すぎだった。極旨カレー味も気になったから今度半分こして食べよ。
――千冬、おやすみ。
更衣室で学校指定のブレザーから、ハピロンのシックな制服に着替え終わった俺はスマホの画面をさらっと指でなぞる。
そこには史人さんとのやり取りがずらっと並んでいた。
メッセ送ったりしたい、という言葉通り、史人さんは毎日のようにメッセしてくる。ほとんどがどうでもいい話題だ。挨拶と、今日あったことの感想。それと。
――今週、日曜、バイトの後、どっか行こ。
お出かけの誘い。
それに対し、俺はしぶしぶの顔をした文字を送る。
――宿題、いっぱい出てるけど、いいよ。
可愛くないなあと思う。でも自分の中でこうやって防波堤を築いておかないと、決定的なことを言っちゃいそうで怖い。
ほんと、どうかしている。
「あー、四宮くーん、おはよー!」
声にはっとする。フロアに出てシルバーの補充をしていた手が滑りそうになる。危ういところで手に力を込めて顔を上げると、俺より遅れて出勤した史人さんが笑顔でバイトメンバーに挨拶しているのが見えた。
白いダウンライトの下で金茶の髪がきらきらして……綺麗だ。
「あー、ちふ、先輩、おはよ」
俺に気付いた史人さんがぱちっと片目を瞑ってみせる。俺は慌てて顔を背け、おはよう、と口の中で言う。
やりにくい。でも……なんか、胸の奥がくすぐったい。
好きな人がバイト先にいるってこういう感じなんだ。
まあ……向こうは彼女持ちだし、絶対的片想いなんだけど。
「あー、みんな、ちょっとキッチン集合~」
店長の声に俺は慌てて気持ちを切り替える。背筋を伸ばしてキッチンへと向かうと、見慣れない男が店長の隣に立っていた。
背がめちゃくちゃ高い。史人さんも背が高いけど、その史人さんと並ぶかそれより高いかも。ただ史人さんと違って黒髪で、おでこもくっきり出た短髪だ。濃い眉と眼力ある目。きりっとしていてそのつもりがなくてもちょっと怖い印象を見る人に与えちゃいそうな。武道家とか格闘家とか、そんな印象の人。
「新しくバイトに入る東雄一くん。いろいろ教えてあげてね。特にあー、芹那くん」
「は?」
思わず変な声が出てしまった。居並ぶみんなの目がこちらを向く。
「彼、高校一年なんだって。君もそうだよね」
「はあ」
「学年一緒だし、しっかり教えてあげてね」
丸顔でちょっぴり小太り。笑顔しか見たことのない店長。俺達のことをいつも心配してくれる優しい人だけど、さすがに店長をやってるだけあって、時々強引だ。しかも同い年は全員仲良くできると思っている節がある。
こいつと俺だと全然タイプ違う気がするけど。まあ、仕方ない。
はーい、解散~、と店長が手を叩き、ホールスタッフの俺達はキッチンを出る。
「あー、と、よろしく。わかんないことあったらなんでも聞いて」
「はい」
こくんと東くんが頷く。俺よりも高い位置からこちらをじっと見下ろしながら。
ちょっとこっちが委縮するくらい圧のある視線だった。
「えー、と、ごめん。俺の顔、なんか、ついてる?」
「いえ。ただ」
ふるっと頭が振られる。切れがあって、本当に武道家みたいな動きだ。男らしくて、見ていて清々しい。表情は少ないけど、こういうタイプはきびきび働きそうだ。
なんて好印象だったのに、次の瞬間、俺は一気にこいつが嫌いになった。
「芹那さん、男だったんですね」
「……は?」
こいつ、なんだって?
俺が顔をしかめたのを見ているはずなのに、東の顔は無表情のままだ。
「顔、すごく可愛いから女子かと。でも声聞いたら違ったから。ちょっとびびって」
「……女子がいいなら他の人に教育係頼むけど。どうする」
こういうことを言ってくるやつがたまにいる。けど、肩を怒らせて睨み上げるとたいていは平謝りしてくる。それは言われて嫌なことだとこいつにも教えるつもりだったが、東はやっぱり表情を崩さないまま首を傾げてきた。
「いや、俺、女子苦手なんで男でよかったです。よろしくお願いします」
ごめんとかすまんとか謝る気はないのか、こいつ!
「せーんぱい。どした?」
コーヒーサーバーを持ってフロアをラウンドしていた史人さんが声をかけてくる。テーブル番号をレクチャーし、お冷のお替りを注ぐよう東くんをフロアに送り出した直後だった。
「どうも、しないです」
「顔、怖いけど? 話聞く?」
顔が可愛いからって女と勘違いされてた、なんて言いたくない。
唇を曲げながらカップをドリンクバーコーナーに補充する。さりげなくそれに手を貸してくれながら史人さんが顔を寄せてきた。
「帰り、唐揚げ買ってあげるから。機嫌直しな」
ああもう。怒っていたのに。そんなふうに宥められたらもういいかな、と思ってしまう。
「瀬戸内レモン味がいい」
ぼそっと言うと、オッケー、と史人さんが耳元で囁いた。そのままするっと俺の横を抜けてまたフロアに出ていく。
オッケーと言われたとき、さらっと耳の端をなぞった吐息に顔が赤くなってしまう。熱くなる頬を宥めながら高速で俺はカップを棚に並べる。そうしながら思ってしまった。
早くバイト終わらないかな、なんて。けど。
「なんか一緒に帰るようにって店長に言われたんですけど」
バイトが終わり、さあ帰ろうとロッカーのドアを閉めたところで東くんに言われて、俺は口をぽかんと開けてしまった。
「え、なんで」
「なんかここの国道、治安悪いからとか。そういう通学団みたいなの、ここあるんですか」
「あー、まあ。ひったくりに遭ってさ、俺が」
「マジっすか」
表情がなかった顔に驚きがわずかに走る。
「大丈夫だったんですか。ひったくりなんて」
「あ、うん。ふみ、いや、四宮さんが一緒にいてくれたから」
史人さんはまだフロアから戻ってきていない。そろそろかな、とちらっとフロアを窺うと、四宮、と呟いてから、ああ、と東くんが目を細めた。
「あのイケメンの人ですよね。あの人、そんな強いんですか?」
「あ、えと、うん。すごかった。自転車追いかけてって、鞄、取り返してくれた」
話しているうちにあのとき感じた不安が胸にせりあがってくる。
相手がどんなやつかもわからないのに、無茶して。しかもあの人は言ったのだ。
――やられたのが千冬だったから、なんかこう、かーっとなって。
あの声を俺は多分ずっと忘れられないと思う。
「芹那さん」
物思いにふけっていた俺の前にぬっと顔が突き出され、我に返った。いけない。こいつがいたんだった。
「あー、ごめん、あの、なんの話だっけ。そうだ、一緒に帰るって話だったよな。うん。店長が言うなら……」
本当はちょっと嫌だった。こいつがいたら唐揚げ買ってもらえない。って別に唐揚げが目的ってわけじゃないけど。
「芹那さんってもしかして四宮って人と付き合ってるんですか」
いきなり言われて……完全に意表を突かれた。
「はっ……?! なん、でそうなんの?!」
「いや、顔真っ赤だし。俺が一緒に帰るの嫌そうだったんで。もしそうなら俺、遠慮しようかと」
「いやいやいやいや! そんなわけないじゃん! たまったま方角が一緒で、同中で、兄ちゃんの友達ってだけの人! それ以外なんもないから!」
そうだ。なんにもない。なんにも、ない。
「そうなんですか?」
「当たり前だろ! あんなチャラそうな人! 付き合うとかそんなのあるわけないだろ! 願い下げだってば!」
言いかけたその俺の背後で、ドアがかすかに軋む。振り向いて凍り付いた。
「おつかれ、東くん、と先輩」
にこにこしながら史人さんが更衣室に入ってくる。完全に蒼白になっている俺を無視し、ロッカーを開ける。さらっとベストを脱ぎ、カッターシャツを脱ぐ。話しかけてくんな、と言いたげな気迫が背中から漂ってきておろおろしている俺を尻目に、着替えを終えた史人さんは、ぱたん、とドアを閉じるとこちらを振り向いた。
「帰ろうか。ふたりとも」
笑顔が怖すぎる。
俺を挟んで右側に東くん。左側に史人さん。その状態で夜道を歩きながらさっきから俺は左側を盗み見ている。が、左側の彼は俺には一切視線を向けず、俺を飛び越えて東くんにばかり話しかけている。
「そっかあ、東くん、空手やってたんだ。道理で体締まってると思った」
「四宮さんこそ鍛えてますよね。さっき芹那さんに聞きました。ひったくりから鞄取り返したって」
「あー、でも、千冬にも怪我させちゃったから、あんまり誇れる話じゃないよ」
さらさらっと言って、史人さんがこちらをやっと見る。けど目が笑っていない。
まずい、怒ってる。チャラいとかいろいろ言っちゃったもんな。どうしよう、と焦っている俺の右側で東くんが首を傾げる。
「ちふゆ?」
「俺の、名前」
「あ、そうなんですね」
東くんが頷く。相変わらず表情はない。この無表情も今日一日見ていて少しは慣れた気がしたけど、史人さん同様、思いもよらない言葉が飛んできそうでちょっと怖い。
怖いふたりに挟まれての帰路。なんだこれ。びびっている俺の横で東くんがぽつんと言った。
「千冬って名前、芹那さんに似合いますね。すごく可愛くて」
なんだって?
顔が引きつる。と同時に、俺の左側で史人さんが吹き出した。
「ちょ! なんで笑うの! 史人さん!」
「だって」
可愛いと言われたことより、この人に笑われたことのほうが苛つく。しかも全然笑い止む気配がない。一体いつまで笑えば気が済むんだろう。
いらいらする俺を尻目に、ひとしきり笑った史人さんが、はああ、と大きく息をついた。
「千冬の可愛さなんて全然わかってないくせに、東くん、可愛いとか言いやがるから。なんか面白くて」
「……え」
笑顔で言うから、意味が伝わらなかったらしい。東くんはしばらくぽかんとしてから、ええと、と頬を指先で掻いた。
「なんか、すみません」
「あー、いやいや。謝ることじゃ。ってか、俺、こっちだ。じゃあ、またね。東くん――先輩」
ひらっと史人さんが手を振る。いつもだったら俺の家のすぐそばまで来てくれるのに、今日はそれよりずいぶん手前の道だ。
角を曲がり、史人さんの姿が視界から消えたところで東くんが口を開く。
「俺、なんかまずいこと言っちゃったんですかね」
「あー、いや、うーんと」
訊かれても困る。俺にもよくわからない。でも多分、史人さんが怒っているのは東くんにじゃない。
めちゃくちゃ気になって、すぐにも追いかけたかったけど、今は東くんが一緒だ。仕方なくそのまま歩いたものの、そんな状態だから当然会話はまったく盛り上がらなかった。
「あ、俺の家ここです」
重すぎる空気を背負ったまま歩き続けた末に、東くんが指し示したのは、俺の家から見えるような位置にあるマンションだった。史人さんの家よりも近いかもしれない。学区も一緒だったはずなのにこいつがいた記憶がない、と思っていたら、
「引っ越してきたばっかりなんですよ。だからいろいろわかんなくて。よかったらこの辺のこと教えてください。芹那さん」
と、丁寧に言われた。
そうされて反省した。
可愛い云々言われたり、無表情を向けられたりしたせいで、むかついてばかりいたけど、悪いやつじゃないんだ。
仲良くしておかないとバイトもやりにくくなる。ここは俺から歩み寄るべきかもしれない。
「あのさ、タメなんだし、敬語じゃなくていいよ」
「え、いいんですか」
「うん。そのほうが俺もやりやすいし」
「あ、そうなん……そうか。じゃあ、そうする」
ふっと東くんの顔が綻ぶ。こんな顔もするのか、とちょっと驚く。考えてみれば今日はバイト初日だ。崩れなかった無表情も、緊張していたせいだったのかもしれない。
「じゃあ、またな。東」
「うん、また。千冬」
・・・ん?
首を傾げてしまう俺に東くんはなんの含みもない顔で会釈をすると、そのままマンションの中に消えた。
……まあ、敬語は使わなくてもいいとは言った。フレンドリーに接してくれていいよの意味で言ったんだから、別にいいといえばいい。いいけど。
「距離感バグりすぎ……」
正直、東くんの言動には乱された。けど、今は史人さんだ。スマホを引っ張り出して史人さんとのトーク画面を立ち上げる。ごめん、と入力して送信ボタンを押そうとする。
でもそこで躊躇した。
確かに言いすぎたとは思う。願い下げだまで言うことはなかった。実際、俺達は付き合っているわけじゃないし、付き合う予定もないんだから。
「彼女、いるもんな……」
にもかかわらず、史人さんは俺に触れてくる。東くん以上におかしな距離感で近づいてくる。
あの人にとってはちょうどいい距離感なのかもしれないけど、俺にしてみたら……。
考えていたらいらいらしてしまった。
結局、俺はなにも入力しないまま、スマホをポケットに戻した。
その夜、史人さんからも、おやすみ、は来なかった。日曜会う約束もうやむやになってしまった。



