史人さん、俺達って本当に”友達”ですか?

 家に帰ると兄ちゃんがダイニングでカレーを食べていた。兄ちゃんと俺は全然顔が似ていない。体つきも顔も、兄ちゃんのほうが精悍だ。部活がサッカー部のせいもあってか日にも焼けていて、食も俺より太い。兄ちゃんが食事しているところを見ると、あまりにも豪快で、見慣れてるくせについつい見惚れてしまう。
「めっちゃ食うね……」
「人のこと言えるか? 唇てかってるし、買い食いしたんだろ。母さんにばれたら怒られるぞ」
 囁き声で応酬される。幸い、母さんは今、ドラマ観賞の時間なので、こちらの会話には全然注意を払っていない。
「買い食いじゃない。買ってもらったの食べただけだから」
「買ってもらった? 誰に」
「史人さん」
 制服のネクタイをむしり取りつつ、ダイニングから洗面所へと移動する。鏡を見ると、確かに唇が油でてかっていた。
 史人さんにもこの唇見られてたってことか、とちらっと思ってから、俺は慌ててざばざばと手と口を洗う。鏡はもう見ないままにダイニングに戻ってくると、兄ちゃんは二杯目のカレーを食べ始めていた。
「史人って、あの史人? なに、お前ら、またつるんでるの」
「バイト同じなの。で、一緒に帰るようになったから……」
「え、お前んとこのファミレスでバイトしてんの? あいつ、この間会ったとき、なんも言ってなかったのに」
 やっぱり兄ちゃんとはちょくちょく会っているらしい。俺には再会するまで一切、連絡してこなかったくせに。
……面白くない。
「兄ちゃんって史人さんといつもどんな話すんの」
 ――千冬には関係ない話だよね。
 聞いたことがない重い声。あの声を兄ちゃんも聞いたことがあるんだろうか。あの人はどんなとき、あんな声を出すんだろう。
「どんなって……あいつあんまりしゃべるほうじゃないしなあ、こっちの話聞いてもらうことの方が多いかも」
「嘘、あの人めちゃくちゃしゃべるじゃん。ジャイアントパンダのうんこがいい匂いとか」
「カレー食ってる俺にそれ系の話はNGだろうが、弟よ」
 苦笑いしつつ、兄ちゃんはカレーをかき回す。俺はライスを口に入れてからルーを追加で食べる。兄弟でも食べ方は全然違う。史人さんが俺と兄ちゃんの前で見せる顔が違うのも俺達の違いに史人さんが合わせているからだろうか。だとしたら、どっちに見せる顔が史人さんの素なんだろう。
 ――千冬には関係ない話だよね。
 あんな声を史人さんは兄ちゃんにも出すことがあるのだろうか。
「俺、史人さん怒らせちゃったかも」
「史人が怒る? ないだろ。あいつ、俺が約束完全に忘れて、映画館の前で五時間待たせても『啓介っぽい』って笑うようなやつだぞ?」
 ……それは史人さんがどうこうじゃなくて、兄ちゃんが反省すべき点だと思う。
 この人に訊いてみようと思った俺が馬鹿だった。溜め息をつきつつ、自分の部屋へと戻ろうとする俺の背中で、ただなあ、と兄ちゃんが言う声がして、俺は立ち止まる。
「一回だけ、あいつがガチギレしてたとこ見たことある」
「え」
 階段を上ろうとしていた俺は手すりを掴んでダイニングに顔を突き出す。兄ちゃんはカレースプーンを置き、麦茶の注がれたコップを掴みながらこちらを見た。
 いつも馬鹿みたいに明るい兄ちゃんの顔がわずかに陰っていた。
「親ガチャ成功してていいなってからかわれたことあったんだよ。ほら、あいつの親父さん、会社やってるじゃん。四宮物産。知らね? CMやってんだろ」
「知ってる、けど、え?」
 どこかの会社の社長だというのは聞いたけど、四宮物産?! 超大手じゃないか? 
「全然、知らなかった……」
「あいつはああいうやつだしな。お前が知らなくてもおかしくないけど、俺らの学年だと結構有名でさ、御曹司ってあだ名もつけられてたし。けどあいつ、そういうの言われるのほんと無理っぽくて、親ガチャって言われたとき、ガチギレしちゃって、『代わりたいなら代わってやる。くそが』って言って……まあ、あいつん家、いろいろあったし、仕方ないかもだけど」
「いろいろ?」
「まあ……うん。どこん家でもなんかしらあるからさ」
 大人みたいに言って兄ちゃんはカレーを口に運ぶ。その兄ちゃんを眺めながら、俺はガチギレした史人さんというのを想像する。
 普段の史人さんはふわっと軽い口調で話す。くそが! なんて、間違っても言いはしない。しない、けど。
 ――待てやこら!
 俺がひったくりに遭ったとき、あのときだけは別だった。
 あれは本気で怒っていたから? それくらい必死で俺のために頑張ってくれてたってこと……?
 そこで俺は口許を片手で覆う。
 だって俺は言ってしまったから。
 ――大体、史人さんの家、でっかいし、うちより金持ちじゃん。バイトなんてする必要、ないんじゃ……。
「兄ちゃん、ごめん、俺、部屋、戻る……」
「飯は?」
「あとで……」
「こら! 千冬! 片付かないからさっさと食べちゃいなさい!」
 ドラマ観賞が終わったのか、母さんがリビングのソファーの上からぐりん、と首を捻じ曲げ、睨んでくる。あ、えと、うん、でも着替えたいから……とかなんとか言って俺はそそくさと階段を上る。
 申し訳ないが、ごはんなんて食べられる気分じゃなかった。
 どうしよう。どうしよう。俺、なんてこと言ったんだろう。
 ――それって千冬に関係ない話だよね。
 明後日もバイトだけど、顔を合わせたとき、あんな声をまた出されたら……。
「うう……」
 こういうときはどうするんだっけ。やっぱりちゃんと謝るべきだよな。
 ぐるぐるしながら俺はスマホを引っ張り出す。バイトのシフトのこともあるから、バイトメンバー同士、メッセは送り合えるようになっている。ただ、史人さんと個人的にやり取りしたことはない。
 いきなり連絡するのはやっぱり迷惑だろうか。でも……。
「ええい! ウザい、俺!」
 失礼なことを言ったのならきちんと謝る! そうあるべきなのに、なにを俺はぐちゃぐちゃしているんだろう。いつもの俺らしくない。
 というか……史人さんが絡むとなんで俺はこうもいつもの俺らしくなくなっちゃうんだろう。
 肩を落としつつ、史人さんとのトーク画面を開く。なんの言葉も綴られていないそこをしばらく眺めてから、恐る恐る入力画面に言葉を打ち込む。
 ――史人さん、こんばんわ。千冬です。さっきはひどいことを言ってごめんなさい。
 そこまで書いて悩む。ごめんなさい、とこっちは言えばいいけど、史人さん的には嫌な気持ちを思い出すだけじゃないだろうか。とはいえ、謝らないのもなんか違う。
 迷った挙句、もう一文を追加した。
 ――唐揚げ、美味しかった。一緒に食べられてよかったです。
 小学生の作文かよ、と語彙力のない自分にうんざりする。でもこれ以上どう書いていいかもわからない。迷いながらそうっと送信ボタンを押す。たったそれだけだけど、一仕事終えたみたいにどっと疲れた。
 そもそも俺はあまりメッセをしない。いや、しないわけじゃないけど、返事が来ないからってやきもきするってことがあんまりない。喧嘩したときだって、小突き合いして解決が常で、メッセで相手の気持ちを探ったりなんてまずしない。
「千冬って顔のわりに男前なんだよな」
とは、兄ちゃんの言だけど、まあそうだと思う。可愛い顔だから性格も大人しいって思われるのが一番むかつくから、そう見られないように気を付けてきたのもある。
 けど、今回はその男前気質を発揮することができなかった。
 彼女から電話がかかってきても無視する史人さん。どうでもいい話は際限なくするくせに、自分のこととなると口が重くなる史人さん。
 それが俺はなんだか無性に嫌で。その、嫌、を言葉にできなくて、いらいらのまま嫌味ったらしいことばかり言ってしまった。
 あんなの全然、俺らしくない。粘着質で……陰湿で。けど、ああしか言えなかったんだ。今もそう。史人さんからの返事を待つしかできない。他の友達にだったら、「ごめん! 俺が言いすぎた! 許して!」って躊躇なく言えるのに。
 なんであの人にはこんなまだるっこしいことしかできないんだろう。
 わけがわからない。しかもいまだに既読にならないし。
 あまりにも気にしすぎて手とスマホがくっついちゃいそうだ。その俺を咎めるみたいに、「千冬~! ごはん食べちゃいなさいって!」と母さんのどら声が聞こえてくる。はーい……と気だるく返事をしながら着替え、俺はスマホを手にしたまま一階へ向かった。
 カレーを食べている間もスマホを手元に置いていたけど、既読になることはなかった。
「やっぱ、怒ってんのかな……」
 唐揚げ食べなって笑ってはくれたけど、本当は俺となんてもう話したくなくなっちゃったかも……。
 夕飯を食べ終わり、浴槽に身を沈めながらもすん、とした寒さが這い上がってくる。ざわざわしてじっとしていられなくなる。いつもはそこそこ長風呂だけど、ゆっくりなんてしていられなくて、髪も体もいつもの二倍速で洗って出る。
 どうせまだ既読にもなってない……。
「え」
 濡れた髪を押さえながら零れ落ちたのは……我ながら間の抜けた声だった。
 だって。
 ――明日、どっか、行かない?
「なに、これ……」
 おろおろしている間に既読が点いてしまう。けど、書かれている文言の意味がわからなくて返事もできない。
 許してくれたってことだろうか? でもどこか行こうって、なに?
 考えている間に時間だけが過ぎてしまう。どうしようどうしようと画面を凝視している俺の手の中で、いきなりぶるるっとスマホが身震いした。画面を見てぎょっとする。メッセじゃない……音声通話だ。
「なん、で」
 あたふたする俺を急かすみたいに、何度も何度も身震いする。とっとと出ろや、と言いたげなその振動に狼狽する。だってなに話したらいいかわからない。
 わからないけど、このまま出なかったら。
 ――それは千冬には関係ない話だよね。
 あんなふうに背中を向けられるかもしれない。それは……。
『千冬?』
 夢中で押した通話ボタンによって回線が繋がる。スマホの向こうから聞こえてきた声に俺はどきっとした。
 なんだろう、いつもと違って深くてちょっとこう……色っぽく聞こえちゃったような。
『あれ? もしもし? 聞こえてる?』
「はい! 聞こえてます!」
 って、俺はなにを考えてるんだろう。
『なんでそんなかしこまってんの』
 くすっと笑われて、顔が赤くなってしまった。
 ああもう! 俺、なんなんだろう。
「だ、だって……いきなり電話してくるから……」
『ごめんね、俺、せっかちで。でもさ、先にメッセくれたの千冬じゃん。なのに、返事なかなかくれないから』
 笑みを含んだ声がしっとりと耳の中に入り込んでくる。そうされてまたどきっとしてしまったけど、それを必死に押し隠し、俺はいつもの口調を引っ張り出す。
「無神経なこと言ったの俺だから! ちゃんと謝らないとって思っただけ!」
『千冬は真面目だなあ。もういいよ。全然気にしてない』
「史人さんが気にしてなくても、俺は気にする」
 絶対嫌な気持ちにさせた。史人さんにとっての地雷を俺は踏んだんだろうから。
「ちゃんと謝る。ごめんなさい」
 スマホを片手に頭を下げる。史人さんには見えていないだろうけど、そうしたかった。きっちりと頭を下げていた俺の耳元で、ふっと溜め息が漏れる。
『そしたらさ、お詫びってことで明日、遊んで。俺と』
「あそ、ぶ?」
『そ。行きたいとこあんの。付き合って』
「俺、でいいの?」
 そろそろと問うと、スマホの向こうで、ん、と短く頷く気配がした。
『千冬がいーの。朝十時、大時計のとこで待ってるから。来れる?』
「まあ、うん。いい、けど。え、どこ行くの」
『秘密』
 ふふ、と笑う。声だけで吐息なんて漏れてくるわけないのに、耳をさらっと息でなぞられたみたいにこそばゆい。軽く首をすくめたとき、千冬、と呼ばれた。
『ありがとね。連絡くれて』
「いや、俺が悪くて……」
『うん、わかった。いいよ。許す。ってか千冬なら何回でも許す』
「は? なに、俺なら、って」
『言葉通り。じゃ、明日ね』
 軽やかな声を最後に電話が切れる。声の絶えたスマホを見下ろし、俺は今のやり取りを反芻した。
 ――千冬なら何回でも許す。
「どういう意味だよ……」
 やっぱりむかつく人だ。いちいちこっちの気持ちを乱してくる。
 でも、いらっとしているくせに、明日の天気を確認しちゃった自分が、実は一番むかつくかもしれない。