「えー、啓介の弟? めっちゃ可愛い」
初めて会ったときの史人さんの第一声はこれだった。俺が小六のときだから、今から三年以上前の話だ。
ぶっちゃけ、小六の男にとって「可愛い」は誉め言葉じゃない。
というよりむしろ……俺は「可愛い」と言われるのが死ぬほど嫌いだった。
だって、俺は多分本当に、まあまあ可愛いらしいから。
「千冬くんって肌の色、白っ! 睫毛長っ! ゆりりんに似てるよね!」
「あー! わかる! ゆりりんっぽい! いいなあ、肌すべすべで……」
アイドルグループ、フライフラワーズのセンター、誉ゆりこと、ゆりりんは当時、女子のなりたい顔ナンバーワンだった。他のメンバーの名前なんて全然覚えられなかったけど、ドラマにもちょくちょく出ていたゆりりんのことだけは俺も知っていた。
手足が長くて。ふんわり声が高くて。フライフラワーズはメンバーがみんな花の名前らしいが、ゆりって名前に似合いの白が似合う綺麗な人だなあとは思っていた。けど、そのゆりりんと自分が似ていると言われると、俺としてはめちゃくちゃ複雑だった。
確かに俺は色白だと思う。体も細くて背もまだまだ小さくて。声だって声変わり前だったから甲高い。でも俺だって男だし、女の子に似ていると言われるとやっぱりちょっと……嫌だ。
しかもむかつくのはその女子顔のせいなのかなんなのか、やたらめったら男にもてたことだ。
「あのさ、千冬、俺、お前のことずっと可愛いって思ってた。好き、なんだ」
幼馴染にまでそう言われたところで俺はほとほとうんざりしてしまった。
好きってなんだよ。可愛いってなんだよ。
この顔がってこと? それ、ゆりりんに似てるからってことだろ。じゃあ、ゆりりん推してればいいじゃん。俺じゃなくてよくない?
さすがにここまでは言えなかったが、なんだかもろもろショックでそいつとはそれっきり疎遠になってしまった。
以来、俺にとって「可愛い」は禁句だ。なのに、史人さんは言った。可愛い、と。
そんなやつ、好きになれるわけない。
「俺、弟いないから憧れでさあ。なあ、千冬って呼んでいい?」
「え、嫌です」
ずばっと言って背中を向けた。普通はここで終わりのはずだ。ずっと仲良くしていた幼馴染とだってそうだったんだから。にもかかわらず、史人さんはその後も俺に構ってきた。
兄ちゃんの友達だから俺のひとつ上の中学一年生。小六と中一。それほど差はないし、話題も近いといえば近かったけど、中学生ってのになればそれなりに賢くなるものだと俺は思っていた。が、その俺の予想に反して、史人さんはまあまあ、馬鹿だった。
「ねえ、千冬、知ってる?」
「なに」
「ジャイアントパンダのうんこってめっちゃいい香りらしいよ。主食が竹だから清々しい香りがするんだって。ちょっと嗅いでみたい」
……こいつ、俺より子どもじゃん。
あるときにはこんなことも言っていた。
「今、俺、おじさん集めてんの」
「は? おじさん? って、え?」
「お前、知らないの? おじさんといえばこれじゃーん」
ずいっと差し出されたのは、手のひらサイズの魚のフィギュア。色は夕焼けみたいな朱色。
「おじ、さん?」
「オジサンって名前の魚。ガチャポンで集めてんだけどさあ、表情の種類が一〇八あんの! 煩悩と同じ数! これコンプリートするのが今年の俺の目標!」
……中学生って暇なんだな。
顔はかっこいい部類に入るのに、口を開くとこんな調子で、なんか兄ちゃんの友達というよりでっかい弟が増えたような気がしていた。
けど、俺が思いっきり下に見ているにも関わらず、史人さんは俺の頭をぐりぐり撫でるのが大好きで、ことあるごとに「可愛い」と言った。それは俺が小学校を卒業して、史人さんと同じ中学に上がっても変わらなかった。
中二になってもうちに入り浸っている史人さんに俺は呆れていたし、撫で回されてうんざりもしていて、その日も噛みつきまくっていた。
「いい加減にしろってば! 勉強の邪魔!」
「え、そなの? したら俺、教えるし。言っとくけど俺、啓介より成績上よ~」
それは知っている。あいつアホみたいなふりして学年トップなんだよマジありえねえ、と兄ちゃんがぼやいていたから。
「俺、兄ちゃんよりは勉強できるんで別にいい」
「あー、そうだよね。それっぽい。本も難しいの読んでるし。建物見るの、好きなんだよね、千冬は」
言われてちょっと驚いた。確かに俺は建築物を見るのが好きだ。サンタに「世界のアイコニックな建物百選」なんて図鑑を頼むくらいには。でもそれをこの人が知っているとは思わなかった。
この人なんなんだろう、と訝しんだけど、その発言の最中もひっきりなしに頭を撫でてくる。その距離感はさすがにウザかった。
「ってかいっつもいっつも撫ですぎ! なんでそんな触んの!」
「え? 可愛いから?」
「可愛いのが好きならふれあい公園行ってウサギ撫でてろってば!」
「それは嫌」
「なんで! アレルギーかよ!」
だとしたら仕方ない。いや、撫でるのを認めたわけじゃないけど!
ぷんぷんする俺の髪に触れながら、史人さんは笑った。馬鹿みたいなことばっかり言うくせに妙に理知的な目元を細めて。
「触りたいの、千冬だけだから」
この人がどんな意味でそう言ったのか、今もって俺にはわからない。正直、聞いた瞬間は「キモ」と思った。
触りたいってなんだよ、意味がわからない。
けど数日後、家族でドラマを観ていたときだった。
『好きだったら触れたいの、当たり前だろ』
人気沸騰中の俳優、野坂灯夜がめちゃくちゃ苦しそうな顔でそう言ったのを聞いたとたん、俺はジュースを噴きそうになった。
恋愛ドラマなんて全然興味がない上に家族で見るのはまあまあ恥ずかしい。だから普段はあまりドラマ観賞の場にいないようにしている。なのに、その日はうっかり観てしまって、しかもあんな台詞を聞いてしまった。
好きだったら触れたいの当たり前だろ。
ちょい待て。
好きだったら触りたい。触りたいの千冬だけ。
これってイコールだったりするのだろうか。ってことは、史人さんって俺のこと、好き?
「はああああ?!」
「ええい、千冬うるさい! 灯夜さまの声が聞こえない!」
野坂灯夜の信者である母に思いっきり睨まれたけど、俺としてはそれどころじゃなかった。
だって、あの人も可愛いと俺のことを言ってた。それはこの顔のせいなのか? ゆりりんに似てるから? だから好き?
それって、めっちゃ……。
むかつく。
ってか、冗談じゃない。馬鹿にするのもいい加減にしろ。
以来、俺は史人さんを徹底的に無視することにした。
兄ちゃんと仲良しらしいあの人は、自分の家かって言いたくなるくらいうちに来ていたけど、リビングでゲームしているあの人を目にしても、挨拶せずに自分の部屋へ逃げ込んだ。
下校途中でばったり出くわしても、顔を背けて気付かないふりをした。
ガチャポンの機械の前で夢中になってレバーを回しているのを見ても、声をかけずに通り過ぎた。
可愛いなんて言うやつ、大嫌いだから。
「千冬~」
でも、そんな俺の決意なんてまったく無視して、あの人は手を振ってくる。
「芹那、あの人、芹那の兄ちゃんの友達じゃね? 二年のほら、四宮先輩」
「知らね」
中学に入って俺はバスケ部に入った。うちの部はそこそこ強豪なので練習もきつい。朝練も午後練も他の部よりがっつりあるからまあまあ忙しい。ガチャポンばっかりできるどこかの誰かさんとは違うのだ。ぷん、と顔を背け、部活仲間の吉柳健太とともに体育館を出て更衣室へと向かおうとしたとき、あ、と吉柳が隣で呟いた。
「逃げんなって」
背中に足音が迫ったと同時に、くいっと二の腕が引っ掴まれる。ぎょっとして見上げると、俺よりも明るい色の瞳がこちらを見下ろしていた。
「なん、ですか。俺、忙しいんですけど」
「部活終わったとこでしょうが。忙しくないよね」
相変わらずのにこにこ顔で勝手なことを言いやがる。いらいらしながら二の腕を取り返そうと暴れている俺の横で、吉柳がおろおろしている。そんな吉柳に向かって史人さんは片目を瞑ってみせた。
「あー、だいじょぶだいじょぶ。こいつと俺、知り合いなので。先、行っていいよ」
「は? 勝手なこと言うなし!」
「え、え、あの、芹那、大丈夫?」
だいじょばない! 俺は必死に吉柳に助けを求めたが、その俺の肩にやすやすと腕を回した史人さんはひらひらと片手を振った。
アイドル級のきらっきらの笑顔で。
「うん。俺、こいつの兄みたいなもんなので。ってか、いつも千冬と仲良くしてくれてありがとうね」
「え、あ、はい」
この人は俺よりもまあまあ馬鹿だしお茶らけている。でもだからこそと言うべきか、笑顔の純粋度は俺よりも数倍上だ。つまり……たいていの人はこの笑顔に騙される。
「じゃ、じゃあ、芹那、また明日な~」
なんでだかほんのり頬を染めて吉柳が去っていく。こら待て! と言いかけたが、肩に回された史人さんの腕にきゅっと力が込められて、動きが止められてしまった。
「なんで、ずっと無視すんの?」
低い声が俺の頭の斜め上から聞こえてくる。ちょっとだけ拗ねたみたいなそんな響きに戸惑った。
「し、てないです」
「嘘つけ。気付いてるのに気付かないふりしただろ」
「そんなことしてないって」
「した。俺の統計だと五回してた」
「……数えてんの、キモすぎ」
吐き捨てた彼を相変わらず片腕で拘束したまま、史人さんはぼそぼそと言う。
「ねえ、俺、なんかした? 意味わかんなすぎてもやもやするんだけど」
「勝手にしとけば」
「千冬ってば」
回されていた片腕が滑り、くんっと肩を掴まれる。体の向きを変えられて、気が付くと正面に史人さんの顔があった。
「なんか俺言った? 気に障ること言ったなら謝るから。ちゃんと話してって」
「ってかしつこいし。大体、友達の弟にここまでくっついてくるの、変だと思いませんか」
「思いませんかって、すごいな、千冬、ちゃんと敬語使ってて。中学生みたい」
中学生だよ! というかなんであんたはいつまで経っても変わらないノリなんだ。
呆れ果てて目の前のやたらめったら整った顔を眺めていると、ふうっと彼が溜め息をついた。
「俺さ、馬鹿なんだよね。まあまあ」
知ってる。
「……そこは黙ってないで、そんなことないですよ先輩、って言うのが後輩として正しい在り方なんじゃないの?」
「……思ったことをそのまま言うのは小学生で卒業したので」
「なにそれ。千冬、相変わらず面白すぎるだろ」
思いっきり馬鹿にしたのに、なぜか史人さんはうれしそうだ。くつくつと肩を揺らしてから、ひょろ長い腕を伸ばしてくる。思わず飛びすさりそうになったけど、ぎりぎりでこらえたのは……下がろうとした瞬間、めちゃくちゃ悲しそうな顔をされた気がしたから。
すっと切れた目尻がくっと細められ、眉が下がって。唇も、あ、と言いたげに少しだけ開いて……。
いつだって馬鹿みたいなことばっかり言って笑い転げている、能天気な人だと思ってたのに。
そんな顔するなんて、思わなかったから……。
「史人さん、俺のこと、好き、なの?」
しなやかな手が俺の頭にそっと乗せられたと同時に訊いてしまった。が、即座に後悔した。一体俺はなにを訊いているのだろう。
史人さんも虚を突かれたみたいに固まっている。頭の上に置かれた手もするっと引っ込められる。
体育館と校舎の間の渡り廊下。夕方の橙と夜の青が混じる空気の中、黙りこくってふたり向き合って立っていたのはどれほどの時間だっただろう。
「……うん。好き」
史人さんが小さく頷いた。そうされて頭の奥がかっと熱くなった。
「それって、俺が、ゆりりんに似てるから?」
「ゆりりん?」
「フライフラワーズの」
「あー、あのゆりりん」
納得したように頷いた史人さんが、俺をまじまじと見つめてくる。少しだけ腰を屈め、俺と目線を合わせるようにして俺の顔を観察してくる。
距離、近くないか?
なんだかどきどきする。後ずさりそうになる俺の耳に、似てなくない? と言う声が飛び込んできて俺は思わず目を剥いてしまった。
「え、似てるよね?」
「いや~、似てないっしょ。ゆりりんてあの子だよね。ツインテールでちょっと狐顔した」
「狐顔はひどくない? 俺だって目、あの子みたいに吊り上がってるし」
「吊り上がってるかな。千冬のは切れ長って言うんじゃないの?」
切れ長はあんたみたいな感じだと思うけど。
「色、も白いし……」
「あー、白いね。で? 色白い人はみんなゆりりんに似てるの?」
「じゃなくて! 顔のパーツとかも!」
「似てないよ。千冬のほうが可愛いと思うけど」
「かっ……」
だめだ。やっぱりこの人変だ。大体、可愛いって言われて俺がどんな気持ちになるのか、少しは考えてみたらいいのに。
「だから! 顔が可愛いって理由で好きって言われても俺、嫌なんだけど!」
言い放つと、史人さんが唇をふっとまた開けた。今度の開け方は呆気にとられたみたいな、意図せず開いてしまった、みたいな開き方だった。
ようするにこの人もそうなのだ。顔が好きって理由で俺のこと……。
「そういうわけだから。もう話しかけないでください。四宮先輩」
言い捨て、俺は背中を向ける。いや、向けようとした。が。
「やだ」
背後から腕が伸びてきてくいっと再び片腕が首に絡められる。俺よりしっかりした骨格のそれに俺は苛立つ。
「可愛いのならほかにいっぱいいるだろうっての! 俺はそういうの……」
「俺、顔でお前のこと好きって言ったわけじゃないよ」
「は?!」
顔じゃなく?
「それ、なに?」
首をぐりんと曲げ、史人さんを睨み上げる。その顔を見た史人さんがぷっと吹き出した。
「ってかさ、その顔、全然可愛くないわ~。オジサンみてーだもん」
オジサン。
この人が嬉々として見せてきた魚のフィギュアのぺちゃりと潰れた顔を思い出し、俺はますます顔を歪める。それを見て史人さんはなおも笑って、するりと俺の首から腕を解いた。
「あー、もう、可愛い。なんでそんなおもろ可愛いのかね。お前」
「おもろかわいい?」
「性格が面白くて可愛い。ずっと見てたくなる。だから好きなの。わかる?」
わかるわけがない。というよりわかりたくない。ぷうっと頬を膨らませると、その頬を突かれた。
「で、どうして怒ってたの? 俺、なんか変なこと言った?」
現在進行形で変なことは言われている。大体……好きってことは触りたいってことだと昨日のドラマで野坂灯夜も言っていた。でもこの人は俺の性格がおもろ可愛いから好きと言う。
その場合、触りたいのってなにを? ってか、どこを? 性格は触れないし……。
そこまで考えていたらなんだかどきどきしてしまった。ぽっと頬まで熱を持ってきて、俺はとっさに史人さんの腕を振り払う。
なんだろう。こんなのおかしい。
でっかい弟みたいな人に「性格がおもろ可愛いから好き」と言われただけ。それは多分、昨日のドラマで野坂灯夜が演じていたようないわゆる恋愛的な好きじゃないんだと思う。犬や猫を可愛いとか好きって言うみたいな、そんなノリのものだ。きっと。
それなのになんで俺は今、こんなにおろおろしちゃってるのだろう。
なによりむかつくのは……。
「もう遅くなるな。千冬、早く着替えておいで。続きは帰りながら話そ」
こっちが狼狽えているっていうのに、この人は普段通りの顔をしているところだ。
俺が拒絶したあの一瞬見せた悲しそうな顔はなんだったんだ、と思うくらい、いつも通りの馬鹿顔。
「俺、史人さん嫌い」
「えー、俺は好きなのに? お菓子買ってあげるから機嫌直してって」
しかも、お菓子買ってあげる、とか子ども扱いしてくるところも腹が立つ。無視されて悲しくて追いかけてきたくせに、もう笑ってるし。こっちはあんたのせいで気持ちの整理がつかなくなってしまったというのに。
……ねえ、史人さん、好きって、どういう意味の好きなの?
……犬や猫を撫でたいのとおんなじ意味?
訊いてしまえばいいのかもしれない。でも訊けなかった。訊いてしまったらなんだか戻れない場所まで流されちゃいそうで……怖かった。
俺のその葛藤を知ってか知らずか、史人さんはその日、俺が着替えて出てくるのを本当に待っていた。いつも通りの顔で笑いかけてきて、一緒に帰り路を辿った。しかも道すがら、近所の駄菓子屋で俺の好きなパチパチガムを買ってくれた。
胸の内に生まれたさざ波が、口の中がパチパチする刺激とシンクロして妙にこそばゆかった。
……以来、この人の「好き」がどんな意味の「好き」かもわからないままに、一緒に過ごす日がまた増えていった。
「千冬」
部活終わり、教室移動のとき、職員室で日直日誌を出しに行った帰り道。
俺を見つけた史人さんが、笑顔で手を振ってくる。
不思議なもので、人がいっぱいひしめいているところにいても、史人さんは俺を見つけるし、俺もすぐに史人さんがわかった。
めちゃくちゃイケメンだから後光が差してるとかそういうこと? まさかね、なんてことを考えたりするくらい、史人さんはするっと俺の視界に入ってくる。
学年が違うし、意図しなければしょっちゅう会えるわけもないのに、気が付くと俺は史人さんを学内で探すようになっていた。
……今日は史人さんのクラス、教室移動あるかな。
……部活の後、また待っててくれたりしないかな。
……俺は日直だけど、史人さんはどうかな。
……史人さんのクラス、今日は体育ないかな。あったら俺に気が付いてくれるかな。
なんてことを考えることが増えて、窓際の席の俺は授業中グラウンドを眺めてばかりいて、先生から叱られることもしばしばだった。
「千冬、一緒に帰ろ」
一番テンションが上がるのは、練習で絞られてふらふらしながら着替えて下駄箱に辿り着いたその瞬間にこう声をかけられたときだ。
その史人さんからの言葉に対し、俺はいつでも仏頂面を返した。笑ったら負けだってなんか思ってしまっていたから。
その日もそうだった。下駄箱にもたれて立っていた史人さんが、俺を見つけて手を振ってくれて、駆け寄りたいと思ったのに、俺はわざと嫌な顔をした。
「……なんで待ってんの」
「ん、会いたかったから」
俺の口から出るのは可愛げのかけらもない台詞だというのに、史人さんはにこにこして俺の髪を撫でた。その手から俺は必死に体を遠ざける。
「触んないで」
「なんで? 撫でさせてよ」
「やだ。部活終わりで汗かいてるから」
会えてうれしいけど、臭いだって気になる。史人さんに気付かれないようにそっと自分のシャツの肩口の匂いを確かめていると、その俺の首に腕が絡んだ。
「いいよ。千冬が部活頑張った証明の香りだもん。俺は気にしない」
そう言う史人さんからはワックスかシャンプーかわからない、なにかの花の香りがしていた。色で言ったら白い花みたいな。そんな清い香り。自分の汗の臭いを嗅がれるのが恥ずかしくて嫌なのに、その史人さんの香りには触れたいと思ってしまっている自分に気付いて、俺は激しく狼狽した。
こんなの、変だ。人の匂いをもっと嗅ぎたいって思うなんて変態みたいだ。
でも、もしかしてこれなんじゃないのか?
ドラマで野坂灯夜が言っていた、好きだから触りたくなるというやつは。
だから俺は史人さんの香りをこんなにいい匂いだって思ってしまっているんじゃないだろうか。いや、匂いだけではなくて、多分……。
ぐるぐる考えながら、隣を歩く史人さんを観察していた。
夜風に史人さんのさらさらの髪がなびくのが見えた。前髪の隙間からちらっと覗く綺麗なおでこのラインも。
「史人さん」
「んー?」
隣を歩きながらのんびりと史人さんが返事をする。その史人さんの腕は相変わらず俺の肩にしっかり回されている。可愛い弟を守るみたいに。
それがなんだか……面白くなくて、俺は口を動かしてしまった。
「俺も史人さんの髪、触ってみたい」
ふっと史人さんが立ち止まる。しっかりと絡められていた腕がいきなりするっと解けた。慌てて離れるみたいな解かれ方をして、俺は我に返る。
「あ、あの、えと、なんでも、な……」
言いかけた手がいきなり掴まれ、俺はぎょっとする。掴んだのはすぐ隣に立っていた人だった。
「どうぞ」
低い声で彼が促す。すっと髪に指先が添わされて、俺は息を詰める。
指に触れるのは、俺よりもずっと滑らかで指の間からさらさらと零れてしまいそうな髪の感触。ほのかに温かいそれには、ずっと触っていたいような手触りの良さがあった。
最初はおずおずと、慣れてきたら少し強めに髪を撫でた。その俺の前で史人さんは目を伏せていた。長い睫毛が頬に長く影を落とすのが見えた。
この人、かっこいい、な。
なぜかいきなりそう思った。これまでも何度もこの人の顔は見た。学校ですれ違うとき、手を振ってくるこの人に不承不承手を振り返したとき。からかわれながらしぶしぶ会話したとき。ちゃんと顔だって見ていたはずなのに、これまではそんなふうに思ったことがなかったことに俺は愕然としていた。
こんな距離でまじまじ見たことがなかったから……?
それとも、こんなふうに触れている、から?
ふっと髪を撫でる手を止めて史人さんの顔を凝視した。その刹那、すうっと瞼が開いた。間近く目と目が合う。二重の切れ長の目がじいっとこちらを見つめてくる。数秒見つめ合ったところで、ゆっくりと史人さんが手を上げた。
その手が髪に触れたままだった俺の手に重ねられる。慌てて髪から手を離そうとするけど、それを止めるように史人さんの手は俺の手をくっと自分の頭に押し付けてきた。
「どうだった?」
「え、あ、なに、が?」
「触ってみて、どう思った?」
この場合、なんて言うのが正解なのだろう?
すごく綺麗な髪だって思った? それとも、いい匂いがした、とか?
いやいや! そんなのおかしい。それじゃあそれじゃあ……。
じわっと髪から沁みてくるのは、俺よりも幾分か高い体温。
「どきどき、した」
ぽろっと出た言葉に狼狽する。けど、それ以上の感想が出てこなかった。反比例するみたいに頬から熱が放射されて、いたたまれなくなる。
目を合わせているのも恥ずかしくなってきた。俯こうとするが、史人さんの手は俺の手の上から外れてくれなくて俺は慌てる。
「あの……」
「千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?」
……え?
一瞬、完全に周囲から音が消えた。
俺は史人さんに掴まれていない方の左手で自分の左耳をそっと抑えてみる。ぼわっと外の音が滲む。ああ、よかった。耳はおかしくなっていないみたいだ。
でもおかしい。どくどくいう音がやけに聞こえる。心臓ってこんな音するんだっけ。普通にしていてこんなに体の中に響いちゃうものだっけ。というか、俺、こんなこと考えている場合だっけ?
だって、この人今、とんでもないこと、訊いてこなかったか?
――千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?
確かにそう言った。どうする? と訊いてくるくらいだから、選択権はこちらにあるということなのだろうけど……正直、俺にはよくわからない。
付き合うって具体的になにをどうすることなのか。いわゆる恋人になるとかそういう話になるんだろうけど、恋人ってなにするもの?
そこまで考えたとたん、史人さんの髪と手に挟まれたままの右手が気になってきた。
掌に触れるさらりとした感触と、甲を包む、俺よりちょっと熱い、手……。
考えてみれば、こんな触れ方も普通はしない気がする。そもそも史人さんにとって俺は友達の弟でしかないはずだ。なのに、なんで髪に触ることを許してくれちゃったんだろう。
というか……付き合うって言葉が出てくるってことは、史人さんも俺のこと……。
・・・も?
過ぎった助詞に俺は飛び上がりそうになる。突然言われて動揺はしていた。全然処理が追いついていなくて完全にバグってもいた。でもそんな無意識で思い巡らせてしまった気持ちだからこそ、すごく真実に近いものがあるような気がした。
史人さんが、じゃなくて、史人さんも、ということは、つまり、俺も……。
好きって、いうこと?
自覚したら胸がわけもなく苦しくなってきた。それになんだかいたたまれなくもなってきた。だって、俺達の周りだけ、完全に時間が止まっているみたいに、俺の手は史人さんの髪に触れたままになっているし、その俺の手を史人さんも押さえたままなんだから。
馴染みのない感覚にどう反応していいのだかもわからなくて、俺は完全にフリーズする。史人さんも黙っている。いつもお茶らけたことばっかり言うくせに、なんで今日は黙ってるんだよ、と八つ当たりをしたくなってしまう。
けど、その俺達の間の空気を破るみたいに、ちりん、と音がした。音に反応して史人さんの手が手から外れ、俺の肩をくいっと押す。
「こっち」
短い声とともに車道側から遠ざけられる。その俺達の横を、ママチャリがぎこぎこと通り過ぎていった。白いライトが一瞬俺達を照らし、すぐに遠ざかっていく。
歩道もない、細い道路だけど、今の時間、それほど人通りもないそこで、俺達は無言で向かいあう。ちょっとだけ夏の匂いがする風がさらさらと吹いていて、史人さんの髪が揺れるのを俺は呆然と見つめる。その俺に史人さんが厳かに言った。
「千冬、さっきの答え、教えて」
――千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?
「えと……」
「好きか嫌いかで言ったら、どっち?」
「え、あ、あの……そんなの、わか、んない」
好きか嫌いかでなんて訊かれるまでもなく、絶対好きのほうが大きいと思う。
思ったけど、それをそのまま伝えるのはやっぱり恥ずかしかった。真っ赤になって顔を逸らす俺を、史人さんはじっと見ている。その俺達の横を、また一台、自転車が行き過ぎて、後部座席のチャイルドシートに乗った子どもの不思議そうな目と目が合った。
いたたまれなさがMAXでもうどうにもならない……と思ったときだった。
「わかった。帰ろっか」
不意に史人さんが言った。え、と顔を上げる俺を見ることなく、歩き出してしまう。
「ほらほら、暗くなってきちゃったし。送るから。おいで、千冬」
背中を向けたまま言葉は発せられ続ける。その後ろ姿からは、先程まであったこちらの胸を苦しくさせるような甘苦しい強引さは完全に消えていて、俺は激しく混乱した。
一体、なんだったんだろう。付き合う云々の話はもう終わりなのか?
そんな簡単に終わりにしちゃえるものだったのか? 俺はすごく……悩んだのに。
めちゃくちゃもやもやする。だからわざと足音を立てて後を追うと、数メートル先の横断歩道の前で、史人さんがこちらを振り返った。
その彼に向かって俺はとっさに不満顔を作る。その俺の顔をしばらく見つめてから、史人さんがすうっと目を細めた。
「本気にすんなよ、ガキ」
嘲るような、そんな声だった。瞬間……かっとなった。
薄く笑ってこちらを見る、その取り澄ました表情を見続けるのも嫌で、俺は走り出した。信号が青になったのをいいことに、むかつくやつの隣をすり抜けるようにして横断歩道を渡り切る。
「おーい、怒っちゃった? 千冬~」
能天気な声が背中を追いかけてきたけど、振り返ってやるつもりなんてなかった。
部活帰りでへろへろなのに、こんなに走らされて、本当にむかつく。
しかも、なんか泣けてくる。
「大っ嫌いだ。史人さんなんて」
わけもわからぬまま浮かんでしまう涙を拳で押さえ、俺は猛ダッシュで帰宅した。
この一件があってから、史人さんは俺に声をかけてこなくなった。家に遊びに来ることもなくなった。
それどころか、彼女までできたようだ。
「巨乳でフライフラワーズのすももちゃんに似てる子だった」という情報を、史人さんのことをかっこいいときゃあきゃあ言っていた、女子達から聞いた。
「俺、全然巨乳じゃないじゃん」
本当に腹が立つ。
あんな人のことを目で追っていた自分が一番。
以来、俺は史人さんとは一度も会っていなかったし、会うつもりもなかった。
……なかったのに。
初めて会ったときの史人さんの第一声はこれだった。俺が小六のときだから、今から三年以上前の話だ。
ぶっちゃけ、小六の男にとって「可愛い」は誉め言葉じゃない。
というよりむしろ……俺は「可愛い」と言われるのが死ぬほど嫌いだった。
だって、俺は多分本当に、まあまあ可愛いらしいから。
「千冬くんって肌の色、白っ! 睫毛長っ! ゆりりんに似てるよね!」
「あー! わかる! ゆりりんっぽい! いいなあ、肌すべすべで……」
アイドルグループ、フライフラワーズのセンター、誉ゆりこと、ゆりりんは当時、女子のなりたい顔ナンバーワンだった。他のメンバーの名前なんて全然覚えられなかったけど、ドラマにもちょくちょく出ていたゆりりんのことだけは俺も知っていた。
手足が長くて。ふんわり声が高くて。フライフラワーズはメンバーがみんな花の名前らしいが、ゆりって名前に似合いの白が似合う綺麗な人だなあとは思っていた。けど、そのゆりりんと自分が似ていると言われると、俺としてはめちゃくちゃ複雑だった。
確かに俺は色白だと思う。体も細くて背もまだまだ小さくて。声だって声変わり前だったから甲高い。でも俺だって男だし、女の子に似ていると言われるとやっぱりちょっと……嫌だ。
しかもむかつくのはその女子顔のせいなのかなんなのか、やたらめったら男にもてたことだ。
「あのさ、千冬、俺、お前のことずっと可愛いって思ってた。好き、なんだ」
幼馴染にまでそう言われたところで俺はほとほとうんざりしてしまった。
好きってなんだよ。可愛いってなんだよ。
この顔がってこと? それ、ゆりりんに似てるからってことだろ。じゃあ、ゆりりん推してればいいじゃん。俺じゃなくてよくない?
さすがにここまでは言えなかったが、なんだかもろもろショックでそいつとはそれっきり疎遠になってしまった。
以来、俺にとって「可愛い」は禁句だ。なのに、史人さんは言った。可愛い、と。
そんなやつ、好きになれるわけない。
「俺、弟いないから憧れでさあ。なあ、千冬って呼んでいい?」
「え、嫌です」
ずばっと言って背中を向けた。普通はここで終わりのはずだ。ずっと仲良くしていた幼馴染とだってそうだったんだから。にもかかわらず、史人さんはその後も俺に構ってきた。
兄ちゃんの友達だから俺のひとつ上の中学一年生。小六と中一。それほど差はないし、話題も近いといえば近かったけど、中学生ってのになればそれなりに賢くなるものだと俺は思っていた。が、その俺の予想に反して、史人さんはまあまあ、馬鹿だった。
「ねえ、千冬、知ってる?」
「なに」
「ジャイアントパンダのうんこってめっちゃいい香りらしいよ。主食が竹だから清々しい香りがするんだって。ちょっと嗅いでみたい」
……こいつ、俺より子どもじゃん。
あるときにはこんなことも言っていた。
「今、俺、おじさん集めてんの」
「は? おじさん? って、え?」
「お前、知らないの? おじさんといえばこれじゃーん」
ずいっと差し出されたのは、手のひらサイズの魚のフィギュア。色は夕焼けみたいな朱色。
「おじ、さん?」
「オジサンって名前の魚。ガチャポンで集めてんだけどさあ、表情の種類が一〇八あんの! 煩悩と同じ数! これコンプリートするのが今年の俺の目標!」
……中学生って暇なんだな。
顔はかっこいい部類に入るのに、口を開くとこんな調子で、なんか兄ちゃんの友達というよりでっかい弟が増えたような気がしていた。
けど、俺が思いっきり下に見ているにも関わらず、史人さんは俺の頭をぐりぐり撫でるのが大好きで、ことあるごとに「可愛い」と言った。それは俺が小学校を卒業して、史人さんと同じ中学に上がっても変わらなかった。
中二になってもうちに入り浸っている史人さんに俺は呆れていたし、撫で回されてうんざりもしていて、その日も噛みつきまくっていた。
「いい加減にしろってば! 勉強の邪魔!」
「え、そなの? したら俺、教えるし。言っとくけど俺、啓介より成績上よ~」
それは知っている。あいつアホみたいなふりして学年トップなんだよマジありえねえ、と兄ちゃんがぼやいていたから。
「俺、兄ちゃんよりは勉強できるんで別にいい」
「あー、そうだよね。それっぽい。本も難しいの読んでるし。建物見るの、好きなんだよね、千冬は」
言われてちょっと驚いた。確かに俺は建築物を見るのが好きだ。サンタに「世界のアイコニックな建物百選」なんて図鑑を頼むくらいには。でもそれをこの人が知っているとは思わなかった。
この人なんなんだろう、と訝しんだけど、その発言の最中もひっきりなしに頭を撫でてくる。その距離感はさすがにウザかった。
「ってかいっつもいっつも撫ですぎ! なんでそんな触んの!」
「え? 可愛いから?」
「可愛いのが好きならふれあい公園行ってウサギ撫でてろってば!」
「それは嫌」
「なんで! アレルギーかよ!」
だとしたら仕方ない。いや、撫でるのを認めたわけじゃないけど!
ぷんぷんする俺の髪に触れながら、史人さんは笑った。馬鹿みたいなことばっかり言うくせに妙に理知的な目元を細めて。
「触りたいの、千冬だけだから」
この人がどんな意味でそう言ったのか、今もって俺にはわからない。正直、聞いた瞬間は「キモ」と思った。
触りたいってなんだよ、意味がわからない。
けど数日後、家族でドラマを観ていたときだった。
『好きだったら触れたいの、当たり前だろ』
人気沸騰中の俳優、野坂灯夜がめちゃくちゃ苦しそうな顔でそう言ったのを聞いたとたん、俺はジュースを噴きそうになった。
恋愛ドラマなんて全然興味がない上に家族で見るのはまあまあ恥ずかしい。だから普段はあまりドラマ観賞の場にいないようにしている。なのに、その日はうっかり観てしまって、しかもあんな台詞を聞いてしまった。
好きだったら触れたいの当たり前だろ。
ちょい待て。
好きだったら触りたい。触りたいの千冬だけ。
これってイコールだったりするのだろうか。ってことは、史人さんって俺のこと、好き?
「はああああ?!」
「ええい、千冬うるさい! 灯夜さまの声が聞こえない!」
野坂灯夜の信者である母に思いっきり睨まれたけど、俺としてはそれどころじゃなかった。
だって、あの人も可愛いと俺のことを言ってた。それはこの顔のせいなのか? ゆりりんに似てるから? だから好き?
それって、めっちゃ……。
むかつく。
ってか、冗談じゃない。馬鹿にするのもいい加減にしろ。
以来、俺は史人さんを徹底的に無視することにした。
兄ちゃんと仲良しらしいあの人は、自分の家かって言いたくなるくらいうちに来ていたけど、リビングでゲームしているあの人を目にしても、挨拶せずに自分の部屋へ逃げ込んだ。
下校途中でばったり出くわしても、顔を背けて気付かないふりをした。
ガチャポンの機械の前で夢中になってレバーを回しているのを見ても、声をかけずに通り過ぎた。
可愛いなんて言うやつ、大嫌いだから。
「千冬~」
でも、そんな俺の決意なんてまったく無視して、あの人は手を振ってくる。
「芹那、あの人、芹那の兄ちゃんの友達じゃね? 二年のほら、四宮先輩」
「知らね」
中学に入って俺はバスケ部に入った。うちの部はそこそこ強豪なので練習もきつい。朝練も午後練も他の部よりがっつりあるからまあまあ忙しい。ガチャポンばっかりできるどこかの誰かさんとは違うのだ。ぷん、と顔を背け、部活仲間の吉柳健太とともに体育館を出て更衣室へと向かおうとしたとき、あ、と吉柳が隣で呟いた。
「逃げんなって」
背中に足音が迫ったと同時に、くいっと二の腕が引っ掴まれる。ぎょっとして見上げると、俺よりも明るい色の瞳がこちらを見下ろしていた。
「なん、ですか。俺、忙しいんですけど」
「部活終わったとこでしょうが。忙しくないよね」
相変わらずのにこにこ顔で勝手なことを言いやがる。いらいらしながら二の腕を取り返そうと暴れている俺の横で、吉柳がおろおろしている。そんな吉柳に向かって史人さんは片目を瞑ってみせた。
「あー、だいじょぶだいじょぶ。こいつと俺、知り合いなので。先、行っていいよ」
「は? 勝手なこと言うなし!」
「え、え、あの、芹那、大丈夫?」
だいじょばない! 俺は必死に吉柳に助けを求めたが、その俺の肩にやすやすと腕を回した史人さんはひらひらと片手を振った。
アイドル級のきらっきらの笑顔で。
「うん。俺、こいつの兄みたいなもんなので。ってか、いつも千冬と仲良くしてくれてありがとうね」
「え、あ、はい」
この人は俺よりもまあまあ馬鹿だしお茶らけている。でもだからこそと言うべきか、笑顔の純粋度は俺よりも数倍上だ。つまり……たいていの人はこの笑顔に騙される。
「じゃ、じゃあ、芹那、また明日な~」
なんでだかほんのり頬を染めて吉柳が去っていく。こら待て! と言いかけたが、肩に回された史人さんの腕にきゅっと力が込められて、動きが止められてしまった。
「なんで、ずっと無視すんの?」
低い声が俺の頭の斜め上から聞こえてくる。ちょっとだけ拗ねたみたいなそんな響きに戸惑った。
「し、てないです」
「嘘つけ。気付いてるのに気付かないふりしただろ」
「そんなことしてないって」
「した。俺の統計だと五回してた」
「……数えてんの、キモすぎ」
吐き捨てた彼を相変わらず片腕で拘束したまま、史人さんはぼそぼそと言う。
「ねえ、俺、なんかした? 意味わかんなすぎてもやもやするんだけど」
「勝手にしとけば」
「千冬ってば」
回されていた片腕が滑り、くんっと肩を掴まれる。体の向きを変えられて、気が付くと正面に史人さんの顔があった。
「なんか俺言った? 気に障ること言ったなら謝るから。ちゃんと話してって」
「ってかしつこいし。大体、友達の弟にここまでくっついてくるの、変だと思いませんか」
「思いませんかって、すごいな、千冬、ちゃんと敬語使ってて。中学生みたい」
中学生だよ! というかなんであんたはいつまで経っても変わらないノリなんだ。
呆れ果てて目の前のやたらめったら整った顔を眺めていると、ふうっと彼が溜め息をついた。
「俺さ、馬鹿なんだよね。まあまあ」
知ってる。
「……そこは黙ってないで、そんなことないですよ先輩、って言うのが後輩として正しい在り方なんじゃないの?」
「……思ったことをそのまま言うのは小学生で卒業したので」
「なにそれ。千冬、相変わらず面白すぎるだろ」
思いっきり馬鹿にしたのに、なぜか史人さんはうれしそうだ。くつくつと肩を揺らしてから、ひょろ長い腕を伸ばしてくる。思わず飛びすさりそうになったけど、ぎりぎりでこらえたのは……下がろうとした瞬間、めちゃくちゃ悲しそうな顔をされた気がしたから。
すっと切れた目尻がくっと細められ、眉が下がって。唇も、あ、と言いたげに少しだけ開いて……。
いつだって馬鹿みたいなことばっかり言って笑い転げている、能天気な人だと思ってたのに。
そんな顔するなんて、思わなかったから……。
「史人さん、俺のこと、好き、なの?」
しなやかな手が俺の頭にそっと乗せられたと同時に訊いてしまった。が、即座に後悔した。一体俺はなにを訊いているのだろう。
史人さんも虚を突かれたみたいに固まっている。頭の上に置かれた手もするっと引っ込められる。
体育館と校舎の間の渡り廊下。夕方の橙と夜の青が混じる空気の中、黙りこくってふたり向き合って立っていたのはどれほどの時間だっただろう。
「……うん。好き」
史人さんが小さく頷いた。そうされて頭の奥がかっと熱くなった。
「それって、俺が、ゆりりんに似てるから?」
「ゆりりん?」
「フライフラワーズの」
「あー、あのゆりりん」
納得したように頷いた史人さんが、俺をまじまじと見つめてくる。少しだけ腰を屈め、俺と目線を合わせるようにして俺の顔を観察してくる。
距離、近くないか?
なんだかどきどきする。後ずさりそうになる俺の耳に、似てなくない? と言う声が飛び込んできて俺は思わず目を剥いてしまった。
「え、似てるよね?」
「いや~、似てないっしょ。ゆりりんてあの子だよね。ツインテールでちょっと狐顔した」
「狐顔はひどくない? 俺だって目、あの子みたいに吊り上がってるし」
「吊り上がってるかな。千冬のは切れ長って言うんじゃないの?」
切れ長はあんたみたいな感じだと思うけど。
「色、も白いし……」
「あー、白いね。で? 色白い人はみんなゆりりんに似てるの?」
「じゃなくて! 顔のパーツとかも!」
「似てないよ。千冬のほうが可愛いと思うけど」
「かっ……」
だめだ。やっぱりこの人変だ。大体、可愛いって言われて俺がどんな気持ちになるのか、少しは考えてみたらいいのに。
「だから! 顔が可愛いって理由で好きって言われても俺、嫌なんだけど!」
言い放つと、史人さんが唇をふっとまた開けた。今度の開け方は呆気にとられたみたいな、意図せず開いてしまった、みたいな開き方だった。
ようするにこの人もそうなのだ。顔が好きって理由で俺のこと……。
「そういうわけだから。もう話しかけないでください。四宮先輩」
言い捨て、俺は背中を向ける。いや、向けようとした。が。
「やだ」
背後から腕が伸びてきてくいっと再び片腕が首に絡められる。俺よりしっかりした骨格のそれに俺は苛立つ。
「可愛いのならほかにいっぱいいるだろうっての! 俺はそういうの……」
「俺、顔でお前のこと好きって言ったわけじゃないよ」
「は?!」
顔じゃなく?
「それ、なに?」
首をぐりんと曲げ、史人さんを睨み上げる。その顔を見た史人さんがぷっと吹き出した。
「ってかさ、その顔、全然可愛くないわ~。オジサンみてーだもん」
オジサン。
この人が嬉々として見せてきた魚のフィギュアのぺちゃりと潰れた顔を思い出し、俺はますます顔を歪める。それを見て史人さんはなおも笑って、するりと俺の首から腕を解いた。
「あー、もう、可愛い。なんでそんなおもろ可愛いのかね。お前」
「おもろかわいい?」
「性格が面白くて可愛い。ずっと見てたくなる。だから好きなの。わかる?」
わかるわけがない。というよりわかりたくない。ぷうっと頬を膨らませると、その頬を突かれた。
「で、どうして怒ってたの? 俺、なんか変なこと言った?」
現在進行形で変なことは言われている。大体……好きってことは触りたいってことだと昨日のドラマで野坂灯夜も言っていた。でもこの人は俺の性格がおもろ可愛いから好きと言う。
その場合、触りたいのってなにを? ってか、どこを? 性格は触れないし……。
そこまで考えていたらなんだかどきどきしてしまった。ぽっと頬まで熱を持ってきて、俺はとっさに史人さんの腕を振り払う。
なんだろう。こんなのおかしい。
でっかい弟みたいな人に「性格がおもろ可愛いから好き」と言われただけ。それは多分、昨日のドラマで野坂灯夜が演じていたようないわゆる恋愛的な好きじゃないんだと思う。犬や猫を可愛いとか好きって言うみたいな、そんなノリのものだ。きっと。
それなのになんで俺は今、こんなにおろおろしちゃってるのだろう。
なによりむかつくのは……。
「もう遅くなるな。千冬、早く着替えておいで。続きは帰りながら話そ」
こっちが狼狽えているっていうのに、この人は普段通りの顔をしているところだ。
俺が拒絶したあの一瞬見せた悲しそうな顔はなんだったんだ、と思うくらい、いつも通りの馬鹿顔。
「俺、史人さん嫌い」
「えー、俺は好きなのに? お菓子買ってあげるから機嫌直してって」
しかも、お菓子買ってあげる、とか子ども扱いしてくるところも腹が立つ。無視されて悲しくて追いかけてきたくせに、もう笑ってるし。こっちはあんたのせいで気持ちの整理がつかなくなってしまったというのに。
……ねえ、史人さん、好きって、どういう意味の好きなの?
……犬や猫を撫でたいのとおんなじ意味?
訊いてしまえばいいのかもしれない。でも訊けなかった。訊いてしまったらなんだか戻れない場所まで流されちゃいそうで……怖かった。
俺のその葛藤を知ってか知らずか、史人さんはその日、俺が着替えて出てくるのを本当に待っていた。いつも通りの顔で笑いかけてきて、一緒に帰り路を辿った。しかも道すがら、近所の駄菓子屋で俺の好きなパチパチガムを買ってくれた。
胸の内に生まれたさざ波が、口の中がパチパチする刺激とシンクロして妙にこそばゆかった。
……以来、この人の「好き」がどんな意味の「好き」かもわからないままに、一緒に過ごす日がまた増えていった。
「千冬」
部活終わり、教室移動のとき、職員室で日直日誌を出しに行った帰り道。
俺を見つけた史人さんが、笑顔で手を振ってくる。
不思議なもので、人がいっぱいひしめいているところにいても、史人さんは俺を見つけるし、俺もすぐに史人さんがわかった。
めちゃくちゃイケメンだから後光が差してるとかそういうこと? まさかね、なんてことを考えたりするくらい、史人さんはするっと俺の視界に入ってくる。
学年が違うし、意図しなければしょっちゅう会えるわけもないのに、気が付くと俺は史人さんを学内で探すようになっていた。
……今日は史人さんのクラス、教室移動あるかな。
……部活の後、また待っててくれたりしないかな。
……俺は日直だけど、史人さんはどうかな。
……史人さんのクラス、今日は体育ないかな。あったら俺に気が付いてくれるかな。
なんてことを考えることが増えて、窓際の席の俺は授業中グラウンドを眺めてばかりいて、先生から叱られることもしばしばだった。
「千冬、一緒に帰ろ」
一番テンションが上がるのは、練習で絞られてふらふらしながら着替えて下駄箱に辿り着いたその瞬間にこう声をかけられたときだ。
その史人さんからの言葉に対し、俺はいつでも仏頂面を返した。笑ったら負けだってなんか思ってしまっていたから。
その日もそうだった。下駄箱にもたれて立っていた史人さんが、俺を見つけて手を振ってくれて、駆け寄りたいと思ったのに、俺はわざと嫌な顔をした。
「……なんで待ってんの」
「ん、会いたかったから」
俺の口から出るのは可愛げのかけらもない台詞だというのに、史人さんはにこにこして俺の髪を撫でた。その手から俺は必死に体を遠ざける。
「触んないで」
「なんで? 撫でさせてよ」
「やだ。部活終わりで汗かいてるから」
会えてうれしいけど、臭いだって気になる。史人さんに気付かれないようにそっと自分のシャツの肩口の匂いを確かめていると、その俺の首に腕が絡んだ。
「いいよ。千冬が部活頑張った証明の香りだもん。俺は気にしない」
そう言う史人さんからはワックスかシャンプーかわからない、なにかの花の香りがしていた。色で言ったら白い花みたいな。そんな清い香り。自分の汗の臭いを嗅がれるのが恥ずかしくて嫌なのに、その史人さんの香りには触れたいと思ってしまっている自分に気付いて、俺は激しく狼狽した。
こんなの、変だ。人の匂いをもっと嗅ぎたいって思うなんて変態みたいだ。
でも、もしかしてこれなんじゃないのか?
ドラマで野坂灯夜が言っていた、好きだから触りたくなるというやつは。
だから俺は史人さんの香りをこんなにいい匂いだって思ってしまっているんじゃないだろうか。いや、匂いだけではなくて、多分……。
ぐるぐる考えながら、隣を歩く史人さんを観察していた。
夜風に史人さんのさらさらの髪がなびくのが見えた。前髪の隙間からちらっと覗く綺麗なおでこのラインも。
「史人さん」
「んー?」
隣を歩きながらのんびりと史人さんが返事をする。その史人さんの腕は相変わらず俺の肩にしっかり回されている。可愛い弟を守るみたいに。
それがなんだか……面白くなくて、俺は口を動かしてしまった。
「俺も史人さんの髪、触ってみたい」
ふっと史人さんが立ち止まる。しっかりと絡められていた腕がいきなりするっと解けた。慌てて離れるみたいな解かれ方をして、俺は我に返る。
「あ、あの、えと、なんでも、な……」
言いかけた手がいきなり掴まれ、俺はぎょっとする。掴んだのはすぐ隣に立っていた人だった。
「どうぞ」
低い声で彼が促す。すっと髪に指先が添わされて、俺は息を詰める。
指に触れるのは、俺よりもずっと滑らかで指の間からさらさらと零れてしまいそうな髪の感触。ほのかに温かいそれには、ずっと触っていたいような手触りの良さがあった。
最初はおずおずと、慣れてきたら少し強めに髪を撫でた。その俺の前で史人さんは目を伏せていた。長い睫毛が頬に長く影を落とすのが見えた。
この人、かっこいい、な。
なぜかいきなりそう思った。これまでも何度もこの人の顔は見た。学校ですれ違うとき、手を振ってくるこの人に不承不承手を振り返したとき。からかわれながらしぶしぶ会話したとき。ちゃんと顔だって見ていたはずなのに、これまではそんなふうに思ったことがなかったことに俺は愕然としていた。
こんな距離でまじまじ見たことがなかったから……?
それとも、こんなふうに触れている、から?
ふっと髪を撫でる手を止めて史人さんの顔を凝視した。その刹那、すうっと瞼が開いた。間近く目と目が合う。二重の切れ長の目がじいっとこちらを見つめてくる。数秒見つめ合ったところで、ゆっくりと史人さんが手を上げた。
その手が髪に触れたままだった俺の手に重ねられる。慌てて髪から手を離そうとするけど、それを止めるように史人さんの手は俺の手をくっと自分の頭に押し付けてきた。
「どうだった?」
「え、あ、なに、が?」
「触ってみて、どう思った?」
この場合、なんて言うのが正解なのだろう?
すごく綺麗な髪だって思った? それとも、いい匂いがした、とか?
いやいや! そんなのおかしい。それじゃあそれじゃあ……。
じわっと髪から沁みてくるのは、俺よりも幾分か高い体温。
「どきどき、した」
ぽろっと出た言葉に狼狽する。けど、それ以上の感想が出てこなかった。反比例するみたいに頬から熱が放射されて、いたたまれなくなる。
目を合わせているのも恥ずかしくなってきた。俯こうとするが、史人さんの手は俺の手の上から外れてくれなくて俺は慌てる。
「あの……」
「千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?」
……え?
一瞬、完全に周囲から音が消えた。
俺は史人さんに掴まれていない方の左手で自分の左耳をそっと抑えてみる。ぼわっと外の音が滲む。ああ、よかった。耳はおかしくなっていないみたいだ。
でもおかしい。どくどくいう音がやけに聞こえる。心臓ってこんな音するんだっけ。普通にしていてこんなに体の中に響いちゃうものだっけ。というか、俺、こんなこと考えている場合だっけ?
だって、この人今、とんでもないこと、訊いてこなかったか?
――千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?
確かにそう言った。どうする? と訊いてくるくらいだから、選択権はこちらにあるということなのだろうけど……正直、俺にはよくわからない。
付き合うって具体的になにをどうすることなのか。いわゆる恋人になるとかそういう話になるんだろうけど、恋人ってなにするもの?
そこまで考えたとたん、史人さんの髪と手に挟まれたままの右手が気になってきた。
掌に触れるさらりとした感触と、甲を包む、俺よりちょっと熱い、手……。
考えてみれば、こんな触れ方も普通はしない気がする。そもそも史人さんにとって俺は友達の弟でしかないはずだ。なのに、なんで髪に触ることを許してくれちゃったんだろう。
というか……付き合うって言葉が出てくるってことは、史人さんも俺のこと……。
・・・も?
過ぎった助詞に俺は飛び上がりそうになる。突然言われて動揺はしていた。全然処理が追いついていなくて完全にバグってもいた。でもそんな無意識で思い巡らせてしまった気持ちだからこそ、すごく真実に近いものがあるような気がした。
史人さんが、じゃなくて、史人さんも、ということは、つまり、俺も……。
好きって、いうこと?
自覚したら胸がわけもなく苦しくなってきた。それになんだかいたたまれなくもなってきた。だって、俺達の周りだけ、完全に時間が止まっているみたいに、俺の手は史人さんの髪に触れたままになっているし、その俺の手を史人さんも押さえたままなんだから。
馴染みのない感覚にどう反応していいのだかもわからなくて、俺は完全にフリーズする。史人さんも黙っている。いつもお茶らけたことばっかり言うくせに、なんで今日は黙ってるんだよ、と八つ当たりをしたくなってしまう。
けど、その俺達の間の空気を破るみたいに、ちりん、と音がした。音に反応して史人さんの手が手から外れ、俺の肩をくいっと押す。
「こっち」
短い声とともに車道側から遠ざけられる。その俺達の横を、ママチャリがぎこぎこと通り過ぎていった。白いライトが一瞬俺達を照らし、すぐに遠ざかっていく。
歩道もない、細い道路だけど、今の時間、それほど人通りもないそこで、俺達は無言で向かいあう。ちょっとだけ夏の匂いがする風がさらさらと吹いていて、史人さんの髪が揺れるのを俺は呆然と見つめる。その俺に史人さんが厳かに言った。
「千冬、さっきの答え、教えて」
――千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?
「えと……」
「好きか嫌いかで言ったら、どっち?」
「え、あ、あの……そんなの、わか、んない」
好きか嫌いかでなんて訊かれるまでもなく、絶対好きのほうが大きいと思う。
思ったけど、それをそのまま伝えるのはやっぱり恥ずかしかった。真っ赤になって顔を逸らす俺を、史人さんはじっと見ている。その俺達の横を、また一台、自転車が行き過ぎて、後部座席のチャイルドシートに乗った子どもの不思議そうな目と目が合った。
いたたまれなさがMAXでもうどうにもならない……と思ったときだった。
「わかった。帰ろっか」
不意に史人さんが言った。え、と顔を上げる俺を見ることなく、歩き出してしまう。
「ほらほら、暗くなってきちゃったし。送るから。おいで、千冬」
背中を向けたまま言葉は発せられ続ける。その後ろ姿からは、先程まであったこちらの胸を苦しくさせるような甘苦しい強引さは完全に消えていて、俺は激しく混乱した。
一体、なんだったんだろう。付き合う云々の話はもう終わりなのか?
そんな簡単に終わりにしちゃえるものだったのか? 俺はすごく……悩んだのに。
めちゃくちゃもやもやする。だからわざと足音を立てて後を追うと、数メートル先の横断歩道の前で、史人さんがこちらを振り返った。
その彼に向かって俺はとっさに不満顔を作る。その俺の顔をしばらく見つめてから、史人さんがすうっと目を細めた。
「本気にすんなよ、ガキ」
嘲るような、そんな声だった。瞬間……かっとなった。
薄く笑ってこちらを見る、その取り澄ました表情を見続けるのも嫌で、俺は走り出した。信号が青になったのをいいことに、むかつくやつの隣をすり抜けるようにして横断歩道を渡り切る。
「おーい、怒っちゃった? 千冬~」
能天気な声が背中を追いかけてきたけど、振り返ってやるつもりなんてなかった。
部活帰りでへろへろなのに、こんなに走らされて、本当にむかつく。
しかも、なんか泣けてくる。
「大っ嫌いだ。史人さんなんて」
わけもわからぬまま浮かんでしまう涙を拳で押さえ、俺は猛ダッシュで帰宅した。
この一件があってから、史人さんは俺に声をかけてこなくなった。家に遊びに来ることもなくなった。
それどころか、彼女までできたようだ。
「巨乳でフライフラワーズのすももちゃんに似てる子だった」という情報を、史人さんのことをかっこいいときゃあきゃあ言っていた、女子達から聞いた。
「俺、全然巨乳じゃないじゃん」
本当に腹が立つ。
あんな人のことを目で追っていた自分が一番。
以来、俺は史人さんとは一度も会っていなかったし、会うつもりもなかった。
……なかったのに。



