二十八チーム中、俺達菊塚店コンビは三位だった。
まあまあ健闘したほうだと思う。
「……これさ、どうする?」
最寄り駅まで帰ってきたところで店長とは別れた。ふたりで歩きながら俺は店長から受け取った賞品を史人さんに見せる。
三位の賞品は、ハピロンくんのチャームがふたつ。スマホや鞄に着けられそうな、掌より少し小さいくらいのフェルトでできたぬいぐるみだ。ハピロンくんはクジラがモチーフということだが、ぬいぐるみにするとイルカっぽい。尾びれで立ち、胸びれでトレンチを持っている。頭にはコック帽。
「前々から思ってたけど、ハピロンくんって裸族だよね」
ふたつのうちのひとつを手にした史人さんが、ハピロンくんを目の前にぶら下げながら言った。
「しかも帽子は被っているっていう、ちょっと変態チック」
「……クジラなんだからいいじゃん。裸でも」
「じゃあ潔く帽子もなしでよくない?」
「それじゃただのクジラじゃん」
そうだった。この人、頭はいいのにお馬鹿だった。やれやれ、と首を振る俺の前で史人さんはなおもハピロンくんを眺めていたが、ややあってポケットをごそごそし始めた。
「スマホに着けよう。千冬、俺のに着けて」
「俺が着けるの?」
「そう。で、千冬のスマホにも俺が着けたい。だめ?」
「……いい、よ」
この人の、だめ? はやっぱり破壊力がありすぎる。そろそろとスマホを取り出そうとしたところで、あ、と史人さんが顔を強張らせた。
「なに?」
「ごめん。俺、無神経なことしてた」
「なにが?」
「いや」
唇を軽く噛んでから、史人さんは自分のスマホに下がっていた革製のストラップを外す。片手でスマホをいじるとき、手首に通すと落下しないから便利なタイプのやつだ。
「これ、実弥にもらったやつだった。外すの忘れてた」
「……そ、か。あ、いや、まあ、物に罪ないし」
「だめ。そういうのは。ごめん」
低い声で言い、史人さんはそのストラップをポケットにねじ込む。
こんなときどんな顔をしたらいんだろう。やっぱりちゃんと訊いておくべきだろうか。
「実弥さんは、彼女じゃなかった、んだよね?」
「……うん。違う。父親の手前、彼女のふりしてもらってた。でももうやめてもらった」
「そ、か……」
史人さんが唇を噛む。この人のこの顔が俺はつらい。だから急かすことはできない。
黙って言葉を待つと、ややあって史人さんの唇が動いた。
「実弥にはひどいことをした。謝って済むことじゃないけど……もう続けらんないと思ったから、ちゃんと話をしに行ってきた。そしたら、実弥に言われた」
「なんて……?」
「『勝手に幸せにでもなんでもなれば。あたしはもう知らないから』って」
あの人は本当に史人さんが好きだったんだな、と思う。じゃないとその台詞は出てこないと思うから。
いきなりDMを送ってきたり、校門前で待ち伏せされたり、正直、好きとまでは言えないけど、それだけ全力でこの人を好きだったんだってのはすごく、わかる。
「殴られた?」
「いや、殴ってもくれなかった。代わりに実弥の双子の姉の水香にびんたされた」
あの人は水香さんっていうのか。初めて名前を知ったけど、きりっとしたあの人らしい名前だと思った。実弥さんの代わりに史人さんを殴っちゃうとこも、すごく、ぽいなあと思う。
歩きながら物思いにふけっていると、俺ね、と史人さんが不意に声のトーンを上げた。
「兄貴に会いに行ってきたんだ。先週」
「え、お兄さんって、あの、兼人、さん?」
「あー、そっか、実弥から聞いた? それとも啓介……まあどっちでもいいや。うん。ゲイってだけで勘当された人」
軽い口調で言ってから、史人さんは目を細める。
「あの人が今、どんなふうになってるのか、知るの怖くて、俺、連絡ずっと取ってなかったんだ。あの人の今は未来の俺の姿かもなんて思っちゃってたからね。ゲイとして生きるってどういうことか、見せつけられる気がして」
あそこ座ろうか、と史人さんがバス停脇に備えられたベンチを指さす。頷いて腰を下ろすと、ひやっとした冷たさがコート越しに沁みた。ベンチの冷たさにたじろぐように、史人さんが足を組みかえる。
「けど、拍子抜けした。兄貴、めちゃくちゃ幸せそうなんだもん。ってかさ、カフェやってんだよ、あの人。恋人の晴彦さんと。おいって思った。俺が親父に締め付けられてるときにあんたは気楽そうでいいなって。実際、そう言っちゃったけどね、あはは」
「あはは」
笑う史人さんに俺も合わせて笑ってみる。けど史人さんも作り笑いだったみたいで、笑顔はすぐに消えた。
「なんかさあ、ほんとむかついて。兄貴に当たり散らした。そしたら言われちゃった。『人のせいにすんな。お前が意気地なしなだけだろう。相手を背負う覚悟もないなら恋なんてすんな、くずが』って」
「な、なんか、男前だな……」
「うん、男前。千冬みたい。千冬も言うじゃん、そういうこと」
俺、そんな口悪いか? 首を捻っている俺の横で史人さんがくすっと笑う。
「あれで思ったわ。俺ブラコンなのかもなあって。最初に千冬のこと好きだなって思ったの、お前にきっぱりはっきり拒否られたからだし」
「え、そんなことしてないよね?」
「したじゃん。千冬って呼んでいい? って軽く言ったら、嫌です、って即答してきた。あの切れ味がかっこよすぎて惚れたんだよね」
なんだそれ。
「……普通、それで好きにはなんなくない?」
「俺にはああいうのできないから。まあまあ人の顔色見て生きてきたからね。特に親父の」
けど、と史人さんは背もたれに体重を預けて空を仰ぐ。
「もうやめようって思った。人がどうとか、どう見られるとか、先読みして震えたりとか。そんなことしてたら、どっか行っちゃうからね」
「え、なにが?」
「んー」
唸りつつ、史人さんがゆっくりと身を起こす。
なに、と言う間もなく、冷たい指先に頬が包まれ、俺は飛び上がった。
指先が、頬を冷やす。けど、なんだか触れられたとこが熱いような気も、した。
「この人。芹那千冬さんって人が、ね」
整った顔で切なげに言われ、数秒惚けてから、俺は慌てて首を振る。
「え、え、え? 俺、どこも行かないよ?」
「どうかな。東くんみたいに千冬の良さを見つけちゃう人はいっぱいいるから」
「ほいほいついてくわけないじゃん!」
「唐揚げ買ってあげるよって言われたら?」
「いーかーなーい!」
もう! 小学生じゃあるまいし! ぷりぷりしている俺の頬を史人さんの指がそうっと撫でた。頬骨を確かめるようなそんな手つきに俺は膨らんでいた頬をしぼませる。
やっぱり、冷たいのに、熱い指だ。どうしていいかわからず顔を伏せようとした俺の顎が、史人さんによって掬い上げられる。覗き込んできた史人さんの目は、潤んでいた。
「じゃあさ、くれない?」
「なに、を?」
「どこも行かないよって証」
すぐそばで囁かれて、どきっと胸が鳴ると同時に、隣に座っていた史人さんがすっと腰を滑らせ、距離を詰める。
「ぎゅって、して。俺のこと」
肩と肩がくっついている。温もりとともに伝わってきたのは、かすかな震えだった。その震えを感じたら、迷いもなにも全部吹っ飛んでいた。
自分から距離をさらに詰め、両腕を精一杯伸ばす。首を抱え込むみたいに抱きしめると、史人さんは一瞬、身を固くした。やっぱりまだ怖いのかな、と不安になって腕の力を緩めようとした俺の背中に、長い腕が回る。強い力で抱き寄せられ、ひときわ大きく、心臓が鳴いた。
「千冬……」
なにかを求めるんじゃない、思わず零れちゃったみたいに史人さんが俺を呼ぶ。声を返す代わりに俺は体をぎゅうっと史人さんの体に押し付ける。
家族とだってしない近さで体温を分け合って。お互いの呼吸音だけを聞いて。熱だけで返事をして。
そうして、交信するみたいに抱き合って、やがてどちらともなく、顔を上げた。
触れた体で熱を交わしながら、それだけじゃ足りないと言わんばかりに、お互いの瞳を覗きあう。
俺の背中に回っていた史人さんの手によって背中が撫でられ、後ろ頭に指が添えられる。近づいてくる史人さんの顔が綺麗で、恥ずかしくて、俺はそうっと瞼を下ろす。
が、そこであることに気が付いた。
「あ、あの、ちょ、ちょっと、待って」
目を開くと、いつの間にか虹彩の模様さえ見えちゃいそうな距離に顔があった。くらくらしながら俺は言う。だって、これを言っておかないと、史人さんをがっかりさせちゃうかもしれない。
「その……俺、初めて、なんです」
「え、あ……はい」
敬語で訴えると、史人さんが神妙に返事をした。めちゃくちゃ近い距離のまま。なんだかおかしな状況になってるけど、仕方ない。
「史人さんみたいに、な、慣れてない、ので、上手にはできないですけど、いい、ですか」
「ええ、と」
史人さんの声に困惑が滲む。しばし思い悩むように黙ってから、史人さんがそろそろと言った。
「すみません、俺も初めてですが……いいでしょうか」
「は?!」
初めて?! 初めてって言ったか?!
いや、でも、だって……。
「実弥さんとキスの練習してたって聞いた!」
史人さんの腕の中にいるのも忘れて叫ぶと、史人さんが苦しげに眉を顰めた。
「それ、実弥が言ったんだよね」
「え、あ、まあ……ゲイ、やめて、女の子に慣れるため、とか」
「そっか」
くっと唇を軽く噛む。この人の癖だけど、俺はこれを目にすると、いつも唇切れちゃうんじゃッて心配になる。
「確かに練習しようって言われた。でも断った。さすがにそこまでできない」
「じゃあなんでもっと早く否定しなかったんだよ!」
あの練習のキス云々のせいで俺がどれだけ胸を痛めたかわかってんのか!
怒り狂う俺から史人さんは気まずげに目を逸らす。
「俺が実弥に最低なこと頼んでたのは本当だし。してないからって罪が軽くなるってもんでもないから。疑われても仕方ないかなって」
「はああああ?!」
仕方ないわけあるか!
やっぱり賢いくせに馬鹿だ。だってキスだぞ! そんなの、してないほうがいいに決まってるだろうが!
ああもう、腹が立つやら安心したやらで、感情がてんやわんやだ。苛立ちをぶつける場所がなくて、ぽすぽすと史人さんの胸を拳で叩くが、後ろ頭に添わされた手によって顔を上げさせられ、俺は手を止めた。
「呆れた?」
「呆れては、ない」
……むしろ、安心、した。
けどそれを言うのもなんか癪に障る。ぷりぷりしている俺を史人さんがそうっと覗き込んでくる。
「ごめん。そういうわけで、実弥とはしてないです」
「はあ……」
「だから……俺も上手にはできないですが、もう我慢できないので、して、いいですか」
……ほんと、なんなんだ、この人。
そんな熱っぽい目で言われて、嫌です、と言えると本気で思っているんだろうか。
大体、我慢できないってなんだ。そんなの……そんなのさあ。
「俺もなので、どうぞ」
「なんだこれ」
くすっと史人さんが笑う。悔しいけど、俺も笑ってしまった。ひとしきり肩を震わせてから、俺達はもう一度見つめ合う。
引きあうようにそうっと顔と顔が近づく。キスするときは目を閉じるもの、なんて、ただの知識で、そんなこと知らなくても、思わず閉じちゃうものなんだってことを、俺は初めて知った。
ただ、ごちゃごちゃ考えていられないくらい、初めてのキスは温かくて、ふわふわした。
柔らかく俺の唇を受け止めてくれて。吐息もめちゃくちゃ近くにあって。
ハグよりも強く、お互いの存在を感じちゃうもので。
史人さんも同じ感覚だったのだろうか。確かめてみたくなったけど、それはもう少し後でいいかもしれない。
今はもうちょっと目を瞑って、感じていたいから。
唇から注がれる大好きな人の熱に、俺が少しは慣れて、まともな思考ができるようになるまで。
まあまあ健闘したほうだと思う。
「……これさ、どうする?」
最寄り駅まで帰ってきたところで店長とは別れた。ふたりで歩きながら俺は店長から受け取った賞品を史人さんに見せる。
三位の賞品は、ハピロンくんのチャームがふたつ。スマホや鞄に着けられそうな、掌より少し小さいくらいのフェルトでできたぬいぐるみだ。ハピロンくんはクジラがモチーフということだが、ぬいぐるみにするとイルカっぽい。尾びれで立ち、胸びれでトレンチを持っている。頭にはコック帽。
「前々から思ってたけど、ハピロンくんって裸族だよね」
ふたつのうちのひとつを手にした史人さんが、ハピロンくんを目の前にぶら下げながら言った。
「しかも帽子は被っているっていう、ちょっと変態チック」
「……クジラなんだからいいじゃん。裸でも」
「じゃあ潔く帽子もなしでよくない?」
「それじゃただのクジラじゃん」
そうだった。この人、頭はいいのにお馬鹿だった。やれやれ、と首を振る俺の前で史人さんはなおもハピロンくんを眺めていたが、ややあってポケットをごそごそし始めた。
「スマホに着けよう。千冬、俺のに着けて」
「俺が着けるの?」
「そう。で、千冬のスマホにも俺が着けたい。だめ?」
「……いい、よ」
この人の、だめ? はやっぱり破壊力がありすぎる。そろそろとスマホを取り出そうとしたところで、あ、と史人さんが顔を強張らせた。
「なに?」
「ごめん。俺、無神経なことしてた」
「なにが?」
「いや」
唇を軽く噛んでから、史人さんは自分のスマホに下がっていた革製のストラップを外す。片手でスマホをいじるとき、手首に通すと落下しないから便利なタイプのやつだ。
「これ、実弥にもらったやつだった。外すの忘れてた」
「……そ、か。あ、いや、まあ、物に罪ないし」
「だめ。そういうのは。ごめん」
低い声で言い、史人さんはそのストラップをポケットにねじ込む。
こんなときどんな顔をしたらいんだろう。やっぱりちゃんと訊いておくべきだろうか。
「実弥さんは、彼女じゃなかった、んだよね?」
「……うん。違う。父親の手前、彼女のふりしてもらってた。でももうやめてもらった」
「そ、か……」
史人さんが唇を噛む。この人のこの顔が俺はつらい。だから急かすことはできない。
黙って言葉を待つと、ややあって史人さんの唇が動いた。
「実弥にはひどいことをした。謝って済むことじゃないけど……もう続けらんないと思ったから、ちゃんと話をしに行ってきた。そしたら、実弥に言われた」
「なんて……?」
「『勝手に幸せにでもなんでもなれば。あたしはもう知らないから』って」
あの人は本当に史人さんが好きだったんだな、と思う。じゃないとその台詞は出てこないと思うから。
いきなりDMを送ってきたり、校門前で待ち伏せされたり、正直、好きとまでは言えないけど、それだけ全力でこの人を好きだったんだってのはすごく、わかる。
「殴られた?」
「いや、殴ってもくれなかった。代わりに実弥の双子の姉の水香にびんたされた」
あの人は水香さんっていうのか。初めて名前を知ったけど、きりっとしたあの人らしい名前だと思った。実弥さんの代わりに史人さんを殴っちゃうとこも、すごく、ぽいなあと思う。
歩きながら物思いにふけっていると、俺ね、と史人さんが不意に声のトーンを上げた。
「兄貴に会いに行ってきたんだ。先週」
「え、お兄さんって、あの、兼人、さん?」
「あー、そっか、実弥から聞いた? それとも啓介……まあどっちでもいいや。うん。ゲイってだけで勘当された人」
軽い口調で言ってから、史人さんは目を細める。
「あの人が今、どんなふうになってるのか、知るの怖くて、俺、連絡ずっと取ってなかったんだ。あの人の今は未来の俺の姿かもなんて思っちゃってたからね。ゲイとして生きるってどういうことか、見せつけられる気がして」
あそこ座ろうか、と史人さんがバス停脇に備えられたベンチを指さす。頷いて腰を下ろすと、ひやっとした冷たさがコート越しに沁みた。ベンチの冷たさにたじろぐように、史人さんが足を組みかえる。
「けど、拍子抜けした。兄貴、めちゃくちゃ幸せそうなんだもん。ってかさ、カフェやってんだよ、あの人。恋人の晴彦さんと。おいって思った。俺が親父に締め付けられてるときにあんたは気楽そうでいいなって。実際、そう言っちゃったけどね、あはは」
「あはは」
笑う史人さんに俺も合わせて笑ってみる。けど史人さんも作り笑いだったみたいで、笑顔はすぐに消えた。
「なんかさあ、ほんとむかついて。兄貴に当たり散らした。そしたら言われちゃった。『人のせいにすんな。お前が意気地なしなだけだろう。相手を背負う覚悟もないなら恋なんてすんな、くずが』って」
「な、なんか、男前だな……」
「うん、男前。千冬みたい。千冬も言うじゃん、そういうこと」
俺、そんな口悪いか? 首を捻っている俺の横で史人さんがくすっと笑う。
「あれで思ったわ。俺ブラコンなのかもなあって。最初に千冬のこと好きだなって思ったの、お前にきっぱりはっきり拒否られたからだし」
「え、そんなことしてないよね?」
「したじゃん。千冬って呼んでいい? って軽く言ったら、嫌です、って即答してきた。あの切れ味がかっこよすぎて惚れたんだよね」
なんだそれ。
「……普通、それで好きにはなんなくない?」
「俺にはああいうのできないから。まあまあ人の顔色見て生きてきたからね。特に親父の」
けど、と史人さんは背もたれに体重を預けて空を仰ぐ。
「もうやめようって思った。人がどうとか、どう見られるとか、先読みして震えたりとか。そんなことしてたら、どっか行っちゃうからね」
「え、なにが?」
「んー」
唸りつつ、史人さんがゆっくりと身を起こす。
なに、と言う間もなく、冷たい指先に頬が包まれ、俺は飛び上がった。
指先が、頬を冷やす。けど、なんだか触れられたとこが熱いような気も、した。
「この人。芹那千冬さんって人が、ね」
整った顔で切なげに言われ、数秒惚けてから、俺は慌てて首を振る。
「え、え、え? 俺、どこも行かないよ?」
「どうかな。東くんみたいに千冬の良さを見つけちゃう人はいっぱいいるから」
「ほいほいついてくわけないじゃん!」
「唐揚げ買ってあげるよって言われたら?」
「いーかーなーい!」
もう! 小学生じゃあるまいし! ぷりぷりしている俺の頬を史人さんの指がそうっと撫でた。頬骨を確かめるようなそんな手つきに俺は膨らんでいた頬をしぼませる。
やっぱり、冷たいのに、熱い指だ。どうしていいかわからず顔を伏せようとした俺の顎が、史人さんによって掬い上げられる。覗き込んできた史人さんの目は、潤んでいた。
「じゃあさ、くれない?」
「なに、を?」
「どこも行かないよって証」
すぐそばで囁かれて、どきっと胸が鳴ると同時に、隣に座っていた史人さんがすっと腰を滑らせ、距離を詰める。
「ぎゅって、して。俺のこと」
肩と肩がくっついている。温もりとともに伝わってきたのは、かすかな震えだった。その震えを感じたら、迷いもなにも全部吹っ飛んでいた。
自分から距離をさらに詰め、両腕を精一杯伸ばす。首を抱え込むみたいに抱きしめると、史人さんは一瞬、身を固くした。やっぱりまだ怖いのかな、と不安になって腕の力を緩めようとした俺の背中に、長い腕が回る。強い力で抱き寄せられ、ひときわ大きく、心臓が鳴いた。
「千冬……」
なにかを求めるんじゃない、思わず零れちゃったみたいに史人さんが俺を呼ぶ。声を返す代わりに俺は体をぎゅうっと史人さんの体に押し付ける。
家族とだってしない近さで体温を分け合って。お互いの呼吸音だけを聞いて。熱だけで返事をして。
そうして、交信するみたいに抱き合って、やがてどちらともなく、顔を上げた。
触れた体で熱を交わしながら、それだけじゃ足りないと言わんばかりに、お互いの瞳を覗きあう。
俺の背中に回っていた史人さんの手によって背中が撫でられ、後ろ頭に指が添えられる。近づいてくる史人さんの顔が綺麗で、恥ずかしくて、俺はそうっと瞼を下ろす。
が、そこであることに気が付いた。
「あ、あの、ちょ、ちょっと、待って」
目を開くと、いつの間にか虹彩の模様さえ見えちゃいそうな距離に顔があった。くらくらしながら俺は言う。だって、これを言っておかないと、史人さんをがっかりさせちゃうかもしれない。
「その……俺、初めて、なんです」
「え、あ……はい」
敬語で訴えると、史人さんが神妙に返事をした。めちゃくちゃ近い距離のまま。なんだかおかしな状況になってるけど、仕方ない。
「史人さんみたいに、な、慣れてない、ので、上手にはできないですけど、いい、ですか」
「ええ、と」
史人さんの声に困惑が滲む。しばし思い悩むように黙ってから、史人さんがそろそろと言った。
「すみません、俺も初めてですが……いいでしょうか」
「は?!」
初めて?! 初めてって言ったか?!
いや、でも、だって……。
「実弥さんとキスの練習してたって聞いた!」
史人さんの腕の中にいるのも忘れて叫ぶと、史人さんが苦しげに眉を顰めた。
「それ、実弥が言ったんだよね」
「え、あ、まあ……ゲイ、やめて、女の子に慣れるため、とか」
「そっか」
くっと唇を軽く噛む。この人の癖だけど、俺はこれを目にすると、いつも唇切れちゃうんじゃッて心配になる。
「確かに練習しようって言われた。でも断った。さすがにそこまでできない」
「じゃあなんでもっと早く否定しなかったんだよ!」
あの練習のキス云々のせいで俺がどれだけ胸を痛めたかわかってんのか!
怒り狂う俺から史人さんは気まずげに目を逸らす。
「俺が実弥に最低なこと頼んでたのは本当だし。してないからって罪が軽くなるってもんでもないから。疑われても仕方ないかなって」
「はああああ?!」
仕方ないわけあるか!
やっぱり賢いくせに馬鹿だ。だってキスだぞ! そんなの、してないほうがいいに決まってるだろうが!
ああもう、腹が立つやら安心したやらで、感情がてんやわんやだ。苛立ちをぶつける場所がなくて、ぽすぽすと史人さんの胸を拳で叩くが、後ろ頭に添わされた手によって顔を上げさせられ、俺は手を止めた。
「呆れた?」
「呆れては、ない」
……むしろ、安心、した。
けどそれを言うのもなんか癪に障る。ぷりぷりしている俺を史人さんがそうっと覗き込んでくる。
「ごめん。そういうわけで、実弥とはしてないです」
「はあ……」
「だから……俺も上手にはできないですが、もう我慢できないので、して、いいですか」
……ほんと、なんなんだ、この人。
そんな熱っぽい目で言われて、嫌です、と言えると本気で思っているんだろうか。
大体、我慢できないってなんだ。そんなの……そんなのさあ。
「俺もなので、どうぞ」
「なんだこれ」
くすっと史人さんが笑う。悔しいけど、俺も笑ってしまった。ひとしきり肩を震わせてから、俺達はもう一度見つめ合う。
引きあうようにそうっと顔と顔が近づく。キスするときは目を閉じるもの、なんて、ただの知識で、そんなこと知らなくても、思わず閉じちゃうものなんだってことを、俺は初めて知った。
ただ、ごちゃごちゃ考えていられないくらい、初めてのキスは温かくて、ふわふわした。
柔らかく俺の唇を受け止めてくれて。吐息もめちゃくちゃ近くにあって。
ハグよりも強く、お互いの存在を感じちゃうもので。
史人さんも同じ感覚だったのだろうか。確かめてみたくなったけど、それはもう少し後でいいかもしれない。
今はもうちょっと目を瞑って、感じていたいから。
唇から注がれる大好きな人の熱に、俺が少しは慣れて、まともな思考ができるようになるまで。



