史人さんがバイトに来なくなった。
といってもずる休みではなくて、しばらく勉強に集中したくて、という理由だったらしい。
「四宮くん、榊学園だもんねえ。シフト入りすぎとは思ってたんだよね」
相変わらず店長は人がいい。学生さんを雇うってのはそういうこと、と割り切っているのか、慌てる様子もなかった。
ただ、俺はというと、もちろん店長みたいに割り切れはしなかった。
史人さんがバイトを休む理由。それはやっぱり、俺のせいだって思うから。
「千冬、大丈夫?」
あんまりミスをするとまた怒られる。必死に気を張って仕事をしていたせいか、すっかり疲れてしまった。バイト終わり、更衣室に備え付けられた長椅子の上でぐったり寝転がっていると、東に心配された。
「あー、ごめんごめん。ちょっと疲れちゃって」
「千冬もテスト勉強大変なのか? でももう期末終わってるよな」
「そだな、先週終わったから……」
「もしかしてあれ? 来週だろ。接客コンテスト。練習してる? 四宮さんと」
気安い口調で問いかけてくる。その様子にはなんの気負いも緊張もない。
こいつはもう平気なのだろうか。俺に好きと言ったそのことを、自分の中で消化できたのだろうか。俺よりも大人びているから、そうなのかもしれない。俺もそれくらい切り替えるべきなのだろうけど。
「俺、やっぱりガキだああ……」
「え、なに、どした?」
ベストを脱ぎ、学校の制服に着替えながら東が振り返る。ちなみにこいつの学校は黒の詰襟だ。俺のところみたいに紺ブレ、赤と白のチェックネクタイみたいな色の多いタイプではない、モノトーンでまとめられたそれは、東に似合っていて大人っぽい。羨ましい限りだ。。
「いや……大人になりたいって思っただけ。俺、いつも突っ走ってろくなことしないから。もっとこう、寄り添ってうまいこと言えたら、嫌な思いも怖い思いもさせないで済むのにって」
東が着替える音だけが返ってくる。ああ、俺も着替えなきゃ、とのろのろと体を起こしたとき、なんか、とぽつんと東が言った。
「そういうのできるの、千冬じゃない気がする」
「え、どゆこと?」
「だから、裏表なく、思ったまんまに言うのが俺の知ってる千冬だから。気遣いして言いたいこと我慢してるのはらしくない、というか」
「……俺のこと、馬鹿って言ってる?」
「なんでそうなるんだよ」
呆れた顔がこちらに向けられる。襟元のホックを留めながら、ぱたん、とロッカーのドアを閉じ、東が言った。
「前に俺、千冬にクラスの相談したよな。ほら、寿命アプリの」
「学校来なくなっちゃった子がいるって話?」
「そうそれ。あの子さ、学校来るようになったんだよ」
鞄片手に東が近づいてくる。長椅子に座る俺の隣にすとんと腰かける。
「その子に言われた。東くんのおかげで、学校怖くなかったって。俺的には俺とのこと噂されて却って来れなくなるんじゃないかって不安だったから、そのことも訊いてみた。そしたら」
「うん」
「噂は確かに気まずかったけど、それでも心配してくれた東くんの気持ちがうれしかったから平気、って言ってもらえた」
照れ臭そうに東が笑う。陰鬱な気分を忘れ、俺も微笑んでしまった。
「よかったな。気にしてたもんな、東」
「うん。でもこれ、千冬のおかげだから」
「俺?」
首を傾げる俺に東は大きく頷く。
「千冬言ってくれただろ。俺がやっていることは余計なことじゃないって。それがあったから、俺、見舞いも続けられた。あの子にも学校に来てももらえた」
「そんなことはないだろ。東の誠意が伝わったってだけの話だよ」
俺は思ったまま言っただけだ。行動したのは東で俺が感謝されるのはおかしい。その俺に向かって東はゆっくりと首を振った。
「計算とか打算とか世の中にはいっぱいあるし、クラスの中でも思ったことと違うことを口にする空気ってあるだろ。本当はそんなこと思ってないけど、みんなに合わせておかなきゃみたいな。でも千冬にはそれがない。だから信じられるし、俺も前に進もうと思える。迷っている人間にとって、そういうやつって貴重なんだよ。多分、こういうこと思ってるの俺だけじゃないって思う。だから」
ぽん、と東の手が俺の背中を叩く。太い眉の下で、一重の目が柔らかく細められた。
「なに悩んでんだか知らないけど、大人になんてなろうとするなよ。そのまんまでいればいい。俺はそう思うよ」
――史人さん、そのまんまじゃだめなの? わかんないよ、俺、わかんない。
史人さんに投げつけた自分の声が耳の中で木霊する。
ガキの癇癪でしかない。史人さんの心を抉るだけの爆弾みたいな言葉だったと思う。
けど……俺は史人さんをわかりたかった。史人さんのそばにいたかった。それを示すためにあれ以上なにが言えただろう。
そもそも史人さんにそのままでいてほしいと言う俺が……できもしない大人の顔をして言葉を紡いだとして、それは史人さんに届いただろうか。
あの日、キス、しそうになったあの日。
史人さんの中でなにが起こったのか、俺にはわからない。わかるのは……あのとき、史人さんがひどく怯えていたということ。
それはなにに対してだったのだろう。俺に? いや……史人さんは俺とキスしたいって言ってくれた。したいけど、怖いって。それってなんでだろう。
友達の弟と距離がおかしくなったことが怖い? あるいは人にばれるのが嫌?
それとも……男を好きになったそのこと自体がだめなことって史人さん自身が思ってるから?
だとしたら、俺にできることってなんだろう。なにもしないことだろうか。なにもせず距離を置くこと? そのほうが史人さんは楽になれる?
「あー!」
「え、なになに!」
東がびくっとする。ごめん、と頭を下げつつ、俺は長椅子から立ち上がった。ロッカーを開け、制服のポケットを探る。バイト中はスマホをロッカーに。それがこの店のルールなので、画面上には広告やら、普段追いかけている動画の配信情報などが通知として上がっている。が、俺はその通知をすべて閉じた。
そして、あの人とのトーク画面を開いた。
毎日なんてことのない会話を積み重ねたその画面の末尾にあるのは、シンプルだけど愛おしい挨拶の記録。
――千冬、おはよう。
――おはよ、史人さん。
メッセージをやり取りするようになってから、史人さんはいつも自分から挨拶してくれた。朝起きるともう史人さんからの、おはよう、が届いていたし、どうでもいい話をするときだって、話題はいつも史人さんが提供してくれた。
この日もそう。俺より先にあの人がおはようと笑ってくれた。それがうれしくて。
いつしか俺はそれを待つようになっていた。
でも……きっとそれだけじゃいけなかったんだ。だってそうだろう。怖いって思ったとき、一番きついのってその恐怖をたったひとりで抱えなきゃいけないことじゃないのか?
なにも紡がれていない画面を見ていたら目頭が熱くなってきた。
――史人さん、こんばんわ。
その夜、帰宅してから俺は更新されていなかったトーク画面にそっと言葉を打ち込んでみた。そうして数秒待つ。
するとぽっと、既読が点いた。素っ気ないくらい、シンプルな「既読」の文字に励まされ、俺は追加のメッセージを入力する。
――この間はごめんなさい。俺、ガキで。自分の気持ちばっかり押し付けて。困らせた。
また既読。でも返信はない。それでも、俺は指を動かす。
――あれからずっと考えてた。史人さんが怖いって言ってた意味。でもやっぱりよくわかんなかった。そんな俺じゃなんもできないのかなって思ったりもした。けど、けどね。
既読。俺はすうっと息を吸う。
――一個だけ、思いついたんだ。してあげられることじゃなくて、俺がしたいこと。聞いてくれる?
既読。聞いてくれるともくれないとも言われない。反応のなさに、指が震える。でも俺はそっと指先から言葉を放つ。
――俺、史人さんのこと、ぎゅってしたい。史人さんが怖いって思わないでいられるくらい。大好きな史人さんが笑えるくらいに。そんで……ずっと一緒にいたい。
……既読。
やっぱり返信はなかった。けど、なぜか「既読」というその文字が震えているような気がした。
史人さんが俺のメッセージをどう受け取ったのか、考えたら怖かった。これくらいの距離でいたいって史人さんに線を引かれたのに、その線を踏み越えるようなことを言ってしまったのだ。嫌われても仕方ない。
でも……後悔はなかった。史人さんの「怖い」に触れずに、なにもなかったみたいな顔はやっぱりできなかったから。なにより、あの日から更新されていなかった真っ白ばトーク画面を見たら、このままにしたくないって思っちゃったから。
おはよう。
おやすみ。
今日は何があった?
大丈夫? 唐揚げ一緒に食べよう。
シンプルな言葉。でも温かくて優しい、文字。それはただの言葉じゃなくて、これまでのふたりの時間そのもので。送られるメッセージの中にはいつも史人さんがいて。
ううん、文字だけじゃない。
フロアでお互い仕事をしながらすれ違うとき。
休憩が一緒になって事務所で顔を合わせた瞬間。
こちらを見るや否や、柔らかくなる史人さんの眼差しに俺はいつだって夢中だった。
そしてそれは多分、中学のときからそうだったと今ならはっきりとわかる。
部活終わりの俺を校門のところで待っていた史人さん。
一緒に帰ろうと肩を抱いてくる、史人さん。
啓介に本、返しに来たんだ、と言いながら俺の髪を撫でてくれた史人さん。
あの全部の瞬間が大事で。失いたくなくて。
思い出になんて、できなかった。
「史人さん」
史人さんはどうですか?
教えてよ。
夜の底に声を落としながら目を閉じ、朝を迎えて俺は気が付いた。
スマホに通知が一件あった。
送信者は、史人さんで、そこには、
――少し、待って。ごめん。
その一文だけが刻まれていた。
といってもずる休みではなくて、しばらく勉強に集中したくて、という理由だったらしい。
「四宮くん、榊学園だもんねえ。シフト入りすぎとは思ってたんだよね」
相変わらず店長は人がいい。学生さんを雇うってのはそういうこと、と割り切っているのか、慌てる様子もなかった。
ただ、俺はというと、もちろん店長みたいに割り切れはしなかった。
史人さんがバイトを休む理由。それはやっぱり、俺のせいだって思うから。
「千冬、大丈夫?」
あんまりミスをするとまた怒られる。必死に気を張って仕事をしていたせいか、すっかり疲れてしまった。バイト終わり、更衣室に備え付けられた長椅子の上でぐったり寝転がっていると、東に心配された。
「あー、ごめんごめん。ちょっと疲れちゃって」
「千冬もテスト勉強大変なのか? でももう期末終わってるよな」
「そだな、先週終わったから……」
「もしかしてあれ? 来週だろ。接客コンテスト。練習してる? 四宮さんと」
気安い口調で問いかけてくる。その様子にはなんの気負いも緊張もない。
こいつはもう平気なのだろうか。俺に好きと言ったそのことを、自分の中で消化できたのだろうか。俺よりも大人びているから、そうなのかもしれない。俺もそれくらい切り替えるべきなのだろうけど。
「俺、やっぱりガキだああ……」
「え、なに、どした?」
ベストを脱ぎ、学校の制服に着替えながら東が振り返る。ちなみにこいつの学校は黒の詰襟だ。俺のところみたいに紺ブレ、赤と白のチェックネクタイみたいな色の多いタイプではない、モノトーンでまとめられたそれは、東に似合っていて大人っぽい。羨ましい限りだ。。
「いや……大人になりたいって思っただけ。俺、いつも突っ走ってろくなことしないから。もっとこう、寄り添ってうまいこと言えたら、嫌な思いも怖い思いもさせないで済むのにって」
東が着替える音だけが返ってくる。ああ、俺も着替えなきゃ、とのろのろと体を起こしたとき、なんか、とぽつんと東が言った。
「そういうのできるの、千冬じゃない気がする」
「え、どゆこと?」
「だから、裏表なく、思ったまんまに言うのが俺の知ってる千冬だから。気遣いして言いたいこと我慢してるのはらしくない、というか」
「……俺のこと、馬鹿って言ってる?」
「なんでそうなるんだよ」
呆れた顔がこちらに向けられる。襟元のホックを留めながら、ぱたん、とロッカーのドアを閉じ、東が言った。
「前に俺、千冬にクラスの相談したよな。ほら、寿命アプリの」
「学校来なくなっちゃった子がいるって話?」
「そうそれ。あの子さ、学校来るようになったんだよ」
鞄片手に東が近づいてくる。長椅子に座る俺の隣にすとんと腰かける。
「その子に言われた。東くんのおかげで、学校怖くなかったって。俺的には俺とのこと噂されて却って来れなくなるんじゃないかって不安だったから、そのことも訊いてみた。そしたら」
「うん」
「噂は確かに気まずかったけど、それでも心配してくれた東くんの気持ちがうれしかったから平気、って言ってもらえた」
照れ臭そうに東が笑う。陰鬱な気分を忘れ、俺も微笑んでしまった。
「よかったな。気にしてたもんな、東」
「うん。でもこれ、千冬のおかげだから」
「俺?」
首を傾げる俺に東は大きく頷く。
「千冬言ってくれただろ。俺がやっていることは余計なことじゃないって。それがあったから、俺、見舞いも続けられた。あの子にも学校に来てももらえた」
「そんなことはないだろ。東の誠意が伝わったってだけの話だよ」
俺は思ったまま言っただけだ。行動したのは東で俺が感謝されるのはおかしい。その俺に向かって東はゆっくりと首を振った。
「計算とか打算とか世の中にはいっぱいあるし、クラスの中でも思ったことと違うことを口にする空気ってあるだろ。本当はそんなこと思ってないけど、みんなに合わせておかなきゃみたいな。でも千冬にはそれがない。だから信じられるし、俺も前に進もうと思える。迷っている人間にとって、そういうやつって貴重なんだよ。多分、こういうこと思ってるの俺だけじゃないって思う。だから」
ぽん、と東の手が俺の背中を叩く。太い眉の下で、一重の目が柔らかく細められた。
「なに悩んでんだか知らないけど、大人になんてなろうとするなよ。そのまんまでいればいい。俺はそう思うよ」
――史人さん、そのまんまじゃだめなの? わかんないよ、俺、わかんない。
史人さんに投げつけた自分の声が耳の中で木霊する。
ガキの癇癪でしかない。史人さんの心を抉るだけの爆弾みたいな言葉だったと思う。
けど……俺は史人さんをわかりたかった。史人さんのそばにいたかった。それを示すためにあれ以上なにが言えただろう。
そもそも史人さんにそのままでいてほしいと言う俺が……できもしない大人の顔をして言葉を紡いだとして、それは史人さんに届いただろうか。
あの日、キス、しそうになったあの日。
史人さんの中でなにが起こったのか、俺にはわからない。わかるのは……あのとき、史人さんがひどく怯えていたということ。
それはなにに対してだったのだろう。俺に? いや……史人さんは俺とキスしたいって言ってくれた。したいけど、怖いって。それってなんでだろう。
友達の弟と距離がおかしくなったことが怖い? あるいは人にばれるのが嫌?
それとも……男を好きになったそのこと自体がだめなことって史人さん自身が思ってるから?
だとしたら、俺にできることってなんだろう。なにもしないことだろうか。なにもせず距離を置くこと? そのほうが史人さんは楽になれる?
「あー!」
「え、なになに!」
東がびくっとする。ごめん、と頭を下げつつ、俺は長椅子から立ち上がった。ロッカーを開け、制服のポケットを探る。バイト中はスマホをロッカーに。それがこの店のルールなので、画面上には広告やら、普段追いかけている動画の配信情報などが通知として上がっている。が、俺はその通知をすべて閉じた。
そして、あの人とのトーク画面を開いた。
毎日なんてことのない会話を積み重ねたその画面の末尾にあるのは、シンプルだけど愛おしい挨拶の記録。
――千冬、おはよう。
――おはよ、史人さん。
メッセージをやり取りするようになってから、史人さんはいつも自分から挨拶してくれた。朝起きるともう史人さんからの、おはよう、が届いていたし、どうでもいい話をするときだって、話題はいつも史人さんが提供してくれた。
この日もそう。俺より先にあの人がおはようと笑ってくれた。それがうれしくて。
いつしか俺はそれを待つようになっていた。
でも……きっとそれだけじゃいけなかったんだ。だってそうだろう。怖いって思ったとき、一番きついのってその恐怖をたったひとりで抱えなきゃいけないことじゃないのか?
なにも紡がれていない画面を見ていたら目頭が熱くなってきた。
――史人さん、こんばんわ。
その夜、帰宅してから俺は更新されていなかったトーク画面にそっと言葉を打ち込んでみた。そうして数秒待つ。
するとぽっと、既読が点いた。素っ気ないくらい、シンプルな「既読」の文字に励まされ、俺は追加のメッセージを入力する。
――この間はごめんなさい。俺、ガキで。自分の気持ちばっかり押し付けて。困らせた。
また既読。でも返信はない。それでも、俺は指を動かす。
――あれからずっと考えてた。史人さんが怖いって言ってた意味。でもやっぱりよくわかんなかった。そんな俺じゃなんもできないのかなって思ったりもした。けど、けどね。
既読。俺はすうっと息を吸う。
――一個だけ、思いついたんだ。してあげられることじゃなくて、俺がしたいこと。聞いてくれる?
既読。聞いてくれるともくれないとも言われない。反応のなさに、指が震える。でも俺はそっと指先から言葉を放つ。
――俺、史人さんのこと、ぎゅってしたい。史人さんが怖いって思わないでいられるくらい。大好きな史人さんが笑えるくらいに。そんで……ずっと一緒にいたい。
……既読。
やっぱり返信はなかった。けど、なぜか「既読」というその文字が震えているような気がした。
史人さんが俺のメッセージをどう受け取ったのか、考えたら怖かった。これくらいの距離でいたいって史人さんに線を引かれたのに、その線を踏み越えるようなことを言ってしまったのだ。嫌われても仕方ない。
でも……後悔はなかった。史人さんの「怖い」に触れずに、なにもなかったみたいな顔はやっぱりできなかったから。なにより、あの日から更新されていなかった真っ白ばトーク画面を見たら、このままにしたくないって思っちゃったから。
おはよう。
おやすみ。
今日は何があった?
大丈夫? 唐揚げ一緒に食べよう。
シンプルな言葉。でも温かくて優しい、文字。それはただの言葉じゃなくて、これまでのふたりの時間そのもので。送られるメッセージの中にはいつも史人さんがいて。
ううん、文字だけじゃない。
フロアでお互い仕事をしながらすれ違うとき。
休憩が一緒になって事務所で顔を合わせた瞬間。
こちらを見るや否や、柔らかくなる史人さんの眼差しに俺はいつだって夢中だった。
そしてそれは多分、中学のときからそうだったと今ならはっきりとわかる。
部活終わりの俺を校門のところで待っていた史人さん。
一緒に帰ろうと肩を抱いてくる、史人さん。
啓介に本、返しに来たんだ、と言いながら俺の髪を撫でてくれた史人さん。
あの全部の瞬間が大事で。失いたくなくて。
思い出になんて、できなかった。
「史人さん」
史人さんはどうですか?
教えてよ。
夜の底に声を落としながら目を閉じ、朝を迎えて俺は気が付いた。
スマホに通知が一件あった。
送信者は、史人さんで、そこには、
――少し、待って。ごめん。
その一文だけが刻まれていた。



