史人さん、俺達って本当に”友達”ですか?

「芹那くん、遅かったねえ。居残りでもさせられてたの」
 義務感だけで足を動かしたせいか、ずいぶん遅れてしまった。俺を迎えた店長にそう言われ、俺はぎこちなく頭を下げる。
「えと、はい、そうです。赤点をまあまあの数……」
「なんと! バイトも大事だけど、学生さんは学業第一だからね。無理しないで、勉強のほうが大変ならちゃんと言うんだよ。シフトなんとかするから」
 店長は今日もいい人全開だ。大嘘をついて遅刻しているのが猛烈に申し訳なくなる。
「……ごめんなさい」
「大丈夫大丈夫。そんな謝らないで。ちゃんと連絡してくれてるんだから。ね。ほら、着替えてフロア出て」
 深く頭を下げる俺に店長が慌てたように坊主頭をけしけしする。その店長に見送られながら更衣室へと俺は向かう。
 皆フロアに出ているから、無人だ。その無人の更衣室で俺はのろのろと制服を脱ぐ。スローリーに着替えを済ませ、ロッカーのドア裏の鏡を覗く。
 めちゃくちゃげっそりしていて、これから接客するやつの顔じゃなかった。
「うー」
 唸りながらぺしぺしと頬を叩き、フロアへ出ると、真っ先に目が合った人がいた。
 すっと伸びた背筋。さらっと額に落ちる金茶の髪。その前髪の奥から心配そうな目がこちらを見ている。
「千冬」
 深い声が俺の名前を呼ぶ。いつもは「先輩」のくせに、今日に限ってそんなふうに呼ばれたら、どうしていいかわからなくなってしまう。
「顔色悪い。大丈夫?」
「平気、なんでも、ない」
 ぷるっと首を振って顔を背ける。と、ちょうどよく呼び出しボタンが鳴った。ハンディを手に俺は史人さんの脇を離れる。
 ちゃんと話したいと思うのに、どうしても顔が見られない。
 そんな状態だからか、今日の俺はミスをしまくった。オーダーも間違えたし、ドリンクバーの補充も失敗した。
 挙句にパフェをホールへ運ぼうとしてけつまずき、通りかかったスタッフの制服を思いっきりクリーム塗れにしてしまった。
 しかもその相手が……。
「ごめん、あの、取れ、そう?」
 そろーっと更衣室脇のトイレを覗くと、史人さんが制服のベストを脱ぎ、洗面台で洗っているところだった。
「あー、平気平気。大体取れたら、クリーニング回してくれるって店長が」
「ごめん……」
「いいって。制服なんて汚れるから着てるわけだし、予備もあるし。そんな気にすんなよ」
 にこっと史人さんが笑う。いつも通りの笑顔にとくっと心臓が鳴く。
 ヤバい、どうしよう。泣きそうだ。
「千冬?」
 史人さんが覗き込んでくる。俺だけをまっすぐに見てくれる目はいつも通り、深くて温かい色をしていると思う。
 でも、この人はなにも言ってくれない。兄ちゃんにも、実弥さんにもいろいろ話したくせに、俺にはなんにも。
 それが、悔しくて、苦しくて、たまらない。
「俺、幸せってよくわかんない」
「……ん? なに? 宗教的な話?」
 すらっとした首が傾げられ、いつもみたいに軽く返されて苛ついた。
「じゃなくて! そうじゃなくて……」
 ああ、もう。どう言ったらいいかわからない。ただ胸の中にとげとげがいっぱいあって、引っかかって仕方ないんだ。
「キスしたら、幸せになんの? 史人さんは」
「……はっ?」
 ぐちゃぐちゃした気持ちがとんでもない言葉で出てしまった。流し台でベストを洗っていた史人さんの手が、ぎょっとしたように止まる。
「ごめん、千冬、今、なんて?」
 聞こえなかったわけではないと思う。声に戸惑いが混ざっていたから。そうされてこっちが動揺した。
「あ、えと、あの」
 どうしよう。どう言ったらいいだろう。ただ胸に刺さりまくった棘はやっぱり抜けてくれない。
「俺、実弥さんに、会った」
 つっかえつっかえ言ったとたん、史人さんの顔からすうっと表情が消えた。どうどうと蛇口から水が流れ落ちる。その音をバックに見つめ合う。
「なんで」
 口を開いたのは史人さんのほうが先だった。
「なんで、実弥と?」
「理由は……ただ、その、会って、いろいろ聞いて。で……えと……訊きたく、なって」
「……な、にを?」
「うん、えと」
 ああ、だめだ。なにをどう言えばいいのか、まだ全然整理できてない。史人さんの苦しみも、実弥さんの史人さんへの気持ちも、想像できるし、だからこそ寄り添いたいって思うのに、俺はある一点が気になってしまってシンプルに動けないんだ。
「ねえ、史人さん」
 息を吸って吐く。言っちゃだめかも、と思ったけど、もう止められなかった。
「なんで、練習でキスなんて、しちゃうの」
 たどたどしく声を発すると、史人さんの表情が止まった。数秒そうしてから、史人さんはそろそろと手を伸ばし、水道のノズルを下げる。水音が止まるとフロアの声が耳についた。ひっきりなしになる呼び出し音。皿が触れ合う音。人々の話し声。それからそれから……。
「それ……」
「おーい、混んできたよ~」
 なにかを言いかけた史人さんの声を、店長の丸い声がかき消す。そうされてここがどこか遅まきながら思い出した。慌てて身を翻す。その俺の背中で、待って、と声がしたけど、足を止めずに、フロアへと走り出た。
「あー、芹那くん、五番さん、オーダーまだなの。お願い~」
 両手にトレンチを持って皿を下げながらバイトリーダーの西田さんが言う。はい、と慌てて駆け出す。
 でもやっぱりオーダーをミスしまくって、その日、バイト終わりに西田さんにめちゃくちゃ怒られた。
 ただ、そんな西田さんより怖い人が今の俺には、いる。
「千冬」
 叱られていたせいでいつもより帰る時間が遅くなってしまった。史人さんの姿はもうフロアになかったし、もしかしたら先に帰っていてくれるかも、と思っていたのに、着替えて通用口を出たところで呼び止められて、俺はびくっとなった。
 ライトグレーのブレザーの上に、黒いロングコートを羽織った史人さんが、通用口脇の壁にもたれて立っていた。
 その姿を見たら、さっき自分が発した言葉が頭の中にぐわっと蘇ってきて、耐え切れなくなってきた。
「千冬!」
 返事もせず、史人さんの脇を走りすぎる。その俺の背中を史人さんの声が追いかけてくる。足音も。でも止まりたくない。ああ、なんで今日はこの人とふたりなんだろう。東がいれば少しはましだったのに。そこまで考えて、俺は自己嫌悪で凹んだ。
 あいつは俺に好きって言った。そんなやつを潤滑油に使おうとするなんて最低だ。というか、それは史人さんが実弥さんにしたことと同じじゃないのか。実弥さんの気持ちを利用してカモフラージュで彼女のふりしてもらって。俺は……実弥さんのこと、やっぱり好きになれないし、はっきり言って嫌いだけど、でも、悪いのはやっぱり史人さんだって思う。
「待てって!」
「卑怯だよ! 史人さんは!」
 ぐいっと肩を掴まれ、体を史人さんのほうに向けられると同時に、ぱんぱんに膨らんだ気持ちが弾けた。叫んだ俺に怯んだのか、史人さんの動きが止まった。
「実弥さんに彼女のふりさせて! あっちは史人さんのこと好きなのに! そんな人に彼女役頼むとか、どんだけくそなんだよ!」
 国道沿い、人通りはなくて、車道を無数のライトが通り過ぎていくその場所で、一気に怒鳴って肩を上下させる。
 エンジン音が響いていたけど、俺の声は史人さんに届いていたと思う。史人さんの顔がはっきりと引きつったから。
 それでも俺は叫ぶのを止めない。
「史人さん、昔からそういうとこあるよな! 思わせぶりなことばっかり言って! そういうとこ、ほんとむかついてた! はっきり言ってくれないくせに、どんどん距離詰めてきて! こっちの感情ぐちゃぐちゃにしてきて! 苛つくし、腹立つし……だけどさあ!」
 悪いのは史人さん。それは間違いない。実弥さんの気持ちも、俺の気持ちもかき回したから。
 ただ、俺は思っている。
 史人さんだけが悪いんじゃないって。
「一番むかつくのは、俺なんだよ! ガキの俺! なんも相談してもらえない俺。友達って言葉に逃げて、ちゃんとしなかった俺が一番……一番、むかつく……!」
 兄ちゃんに話を聞いてから、ずっと思っていた。
 もしも同い年なら、兄ちゃんみたいに史人さんの異変にもすぐ気付けたんじゃないかって。従妹なら、実弥さんみたいに飛んでいけたんじゃないかって。
 でも俺は年下で、友達の弟ってだけだった。その結果、俺はなんにもできずに後から人伝てに史人さんの苦境を聞くだけの存在になってしまった。
 しかもねちっこい俺は、そんな自分の立場に納得ができなくて、史人さんに向かって憤懣をぶつけさえいるのだ。
 笑わせてあげなさいって言われたのに。こんなの絶対史人さんを困らせるのに。
 けど……俺だってこのままじゃ嫌なんだ。
 兄ちゃんみたいに、実弥さんみたいに、ちゃんと全部知りたいんだ。
 ちゃんと知って、苦しいときはそばに走っていって。
 ちゃんと、支えたいんだ。俺が支えたいんだよ、史人さん!
 史人さんの顔が靄の中に沈んでいく。あれ、と目元を拭って気付いた。
 涙が、出ていた。放っておくと際限なく出ちゃう涙を、俺は拳を作って必死で抑える。
「ねえ、史人さん。なんで、好きをやめちゃおうとすんの? そのまんまじゃだめなの? お父さんに反対されたって関係ないじゃん。わかんないよ。俺、わかんない。ガキだからわかんない。教えてよ。どう言ったら史人さんは楽になんの? 教えてよ!」
 哀願する声が震える。その俺の目の前で史人さんは黙っている。癇癪を起こした俺は、怒鳴り続ける。
「もう! 教えてってば! 俺、嫌なの! 史人さんがそんな……」
「教えたら、きっと困るよ。千冬は」
 低い声に俺の声が呑まれる。轟音とともにトラックが通り過ぎていく。その風にさらっと史人さんの金茶の髪が頼りなく揺れた。
「俺、お前のこと、困らせたくないんだよ。傷つけたくも、ない」
 くっと唇が噛まれる。くしゃり、と前髪を長い指が掴む。ヘッドライトによって顔の半分が陰に沈むその顔を俺は見上げる。
「ごめん。ほんと、最低でごめん。けど、この距離でいさせて。そうじゃないと、俺……」
 苦しそうなその顔を見ていたら、自分がめちゃくちゃわがままを言っている気になってきた。俺はただ、自分が信頼されなかった、そのことに苛立っているだけなんじゃないかって思えたから。ただ、やっぱり……納得なんてできなかった。だって。
「勝手じゃん、それ」
 今もまだ自分の前髪を鷲掴んでいる史人さんの腕にそろそろと手を伸ばすと、史人さんがはっと顔を上げた。探り当てた史人さんの腕を俺はきゅっと握り締める。
「傷つけたくないとか、困らせるとか! そんなの史人さんの勝手な思い込みじゃん。ってか! ってかね! 俺はとっくに傷ついてるから!」
 掴んだままの腕をぐいぐいと揺さぶり、俺は史人さんに詰め寄る。思わずというように史人さんが俺を凝視する。その目を覗き返して、俺は叫んだ。
「史人さんが実弥さんとキスしたって聞いて! 俺、すごく嫌だったんだから!」
「それ……」
 史人さんの唇が開く。そうされて俺は我に返った。
 頬に滴ってしまった涙を拳で乱暴に拭き、史人さんの腕から手を解こうとする。その手が逆に掴まれ、俺は声を失った。
「ああもう、俺、ほんとだめだ」
 俺の手を掴んだまま、史人さんは俯いていた。しかも……手が震えている。俺に伝わってしまうくらい、はっきりと。
 とっさに俺は掴まれていなかったほうの手も伸ばし、史人さんの手を包む。ゆらりと史人さんが顔を上げた。
「だい、じょうぶ?」
 ああ、もっと気の利いた問い方ができないのか、俺は。こういうところがガキなんだ、と自分で自分が嫌になる。史人さんも呆れたかもしれない、と思ったけど、こちらを見る史人さんの顔には呆れなんてなくて、ただ、淡い笑みだけがふうっと浮かんだ。
「……大丈夫、じゃない。怖い」
 史人さんの口から初めて聞いた、怖い、に俺は慌てる。宥めるように握った手に力を込めるが、史人さんの震えは収まらない。
 この人がこんなに震えているのは、俺のせいなのだろうか。だとしたらどうしよう。なにをしたら……と慌てている俺を史人さんが不意にまっすぐに見た。
「千冬さ、訊いて、いい?」
 掠れた声に俺は動揺しながらこくこくと頷く。その俺に向かってすっと一歩が踏み出された。体と体の距離が近づいてどきっとする。
 すごく近い距離から、すうっと小さく息を吸う音が聞こえた。
「キス、させてって言ったら……千冬は、どうする……?」
 問われて、どくん、と大きく体が震えた。
 かっと頬が熱くなる。逃げ出したくなる。だってキスなんて、したこと、ない。
 それこそ……怖い。でも同時に思ってしまってもいる。
 この人が他の人とキスする。ううん、キス以上のこともするかもしれない。そのことのほうがよっぽど嫌で、痛いって。
 もっといろんな気にすべきことを聞いたのに、一番引っかかってしまったところがそこだなんて、我ながらどうかとは思うけど、でもやっぱりごまかせなかった。
 俺は、嫌だった。史人さんが他の人とキスしたことが、どうしても。
 だったら……それをちゃんと伝えるべきだ。俺は史人さんをたくさん詰ってしまったけど、俺だって卑怯だった。友達だなんて言葉に逃げて。決定的なことをなにも訊かず言わず、そのくせ、史人さんの特別になれてないって駄々をこねて。
 自分から踏み出してないくせに、そんなの虫が良すぎるし、そんな自分、俺は嫌だ。
「する」
 だからきっぱりと言った。目を見てまっすぐに。
「ってか、したい。史人さんは、どう?」
 ふっと史人さんの瞳が揺れる。俺の手を握る手にきゅうっと力が込められるのを感じながら、俺は史人さんの言葉をひたすらに待つ。
「俺は……」
 エンジン音の狭間で史人さんが囁く。すがるみたいに史人さんの手が俺の手を包み込んだ。
「俺も、したい」
 滲んだ声で言われてくらくらした。足元が揺れてふらつく。その俺の体を、史人さんの手が引っ張り起こすように支えた。
 見上げると、史人さんもこっちを見た。俺よりも明るい色の目が通り過ぎていく車のライトに照らされてきらきらしている。その目をもっと見たくて俺は少し背伸びした。
 透明な水の膜の上、ゆらめく光。まるで天の川みたいで綺麗だけど、すごく痛ましくも思えるそれを、俺は必死で瞳に映す。その俺の手を史人さんの手がきゅっと握りこむ。
 衣擦れの音を立てて、コートとコートが触れ合い、顔が近づく……。
「ごめん」
 けど、唇が触れそうで触れない、吐息が混ざりそうなそんな場所に投げ込まれたのは、ひび割れた声だった。
 するっと史人さんの手が俺の手から解ける。逃げるみたいに史人さんの足が一歩、後ずさった。
「ごめん、千冬」
「史人、さん?」
「ごめん」
 くっと史人さんの目が閉じられる。史人さんの羽織ったコートの裾がぱさり、と風に翻った。そのまま俺の脇を史人さんが通り過ぎていく。冷えた冬の風に頬をなぞられ、俺は慌てて振り向く。
「史人さん! 待って!」
 叫んだけど、史人さんは振り返らなかった。そのまま駆け去る背中を、俺は呆然と見送る。
「もしか、して、俺……失敗、した?」
 わからない。こんな経験、ないのだから。
 でも正面からぶつかるべきって思ったんだ。ちゃんとぶつかって話して。それで解決できるって思っていたんだ。これまで、どんなときだってそうしてきたから。
 ただ……俺は間違えたのかもしれない。史人さんは、怖い、と言っていたのに。
 それを無視して詰め寄って。
 けど、他にどうしたらよかった? なにも言わず友達でいればよかった? 笑って、ただ、どうでもいい話して。それだけで。
 ――千冬。
 名前を呼んでくれる声。頭を撫でてくれる手。くすっと耳元で笑った、そのとき耳たぶにそっと触れた吐息。
 あれを全部、なかったことになんてできない。
「できるわけ、ないよ」
 俺はずるずると路上に蹲る。その俺の頬を風がなぞる。冷たすぎるそれに押されるようにして俺は泣いた。冬の始まりの冷気に冷やされた国道の片隅で。