「コンテストってなに練習すればいいんだろ」
「いつもの接客でいいって言ってたじゃん。気楽に行こうよ」
十一月三週目の土曜日、午前中でバイトが終わったこの日、ぶらぶら歩きながらぼやくと、今日は私服姿の史人さんがのほほんと返してきた。ちなみに今日の史人さんのファッションは、薄手のコートにスリムパンツ。どちらも色は黒で、中のシャツだけ柄物だ。肉まんがあくびしすぎて中身が外に出ちゃうイラストが描いてある。どこでそんなの探してくるんだっていつも思う。
「そうはいっても時給減らされたら嫌だし」
「そんな理由で減らされないって。そもそも、先輩の接客に隙などないですって」
「……史人さんに言われるとむかつく」
「ごめんごめんて。あ、そしたらこの後さ」
自分のほうが完璧な接客できるくせに。
不満を前面に押し出した俺の顔を史人さんは目を細めて眺めている。そうして不意に言った。
「ホテルに行ってみよっか」
「……はっ?」
え? え? なに、今なんて?
ホテルがどうこう言わなかったか?
確かに今日の午後はお互い時間があるから遊ぼうとは言った。でも、え?
「な、な、な、なに、言ってんの……?!」
「え?」
飛びすさる俺を史人さんがきょとんとした顔で見返す。そのあまりにも、なにか変なこと言いました? みたいな顔がめちゃくちゃむかつく。
「そんなとこ行くわけないだろ!」
なんでこんなことをいきなり言い出したんだろう。もしかしてからかわれているのだろうか。
――本気にすんなよ、ガキ。
またあのときみたいに馬鹿にされるのだろうか。そう思ったらすうっと顔から血の気が引いた。いくらなんでもそんなの、ひどい。
きっと目を吊り上げて史人さんを睨む。が、そこで俺は口を開けた。
史人さんが、口元を覆って俯いていた。
「あ、いや、ごめん。そういう意味じゃ……ない」
口の中で呟く。その史人さんの耳がかあっと赤くなっていくのを俺は唖然として見つめる。
この人がこんなに赤くなったとこ、もしかしたら初めて見たかも。
ふたりして困っていると、史人さんが髪をふるっと揺するように首を振り、咳払いした。
「違くて。ただ、ホテルのラウンジでお茶してみないかって言いたかったの。ファミレスとはサーブの仕方も違うから、勉強になるよってそれだけの」
「あ、そ、そか」
……なんだ、びっくりした。
というか、考えてみれば、いくらお茶らけた史人さんだっていきなりそんな誘いを俺にしてくるはずがない。なんつう勘違いしてんだ、俺。
「ごめん、俺が、なんか……」
「あー、いや。俺が悪くて。言葉足らずで。ごめんね」
にこっと笑った史人さんの頬はまだ赤い。さすがにその顔をさらすのが恥ずかしかったのか、前髪をささっと直すふりをしながら、行こか、と背中を向ける。うん、とその後ろについて歩きつつ、俺はそっと胸を撫でさする。
びっくりした。けど一方で、そういうこと……エッチなことをするときの史人さんの顔を想像した自分が確かにいて、そのことに本気で動揺していた。
こんなのおかしいし、だめなのに。なに考えてるんだろう。
「馬鹿、俺」
「え?」
独り言に史人さんが反応する。慌てて首を振って俺は足を早める。
「学生が入っていい場所? ホテルのラウンジなんて」
何気ないふうを必死に装って訊くと、史人さんはほんのりと笑って頷く。
「問題ないよ。学生だけの泊り客だっているだろうし。まあお高めだけど」
もう普段の調子に戻っている。それがほっとするような残念なような。
残念ってなんだ、もう。
思いがけない発言のせいで、気持ちはぐちゃぐちゃだったけど、駅前のシティホテルの一階に店を構えた、ティーラウンジの入り口で俺は目をぱちぱちさせた。
それくらい整然としていて、ファミレスとは全然違っていた。客層もビジネススーツをびしっときた男性や、上品そうな仕立ての服の女性ばかりで俺達みたいな軽装の若造は見当たらない。
「やっば……俺、場違い」
「それ言ったら俺も。こんなん着てるし」
ふふっと笑って史人さんが自分の胸を指し示す。そうしながらも、入ろっか、と物おじしない様子で店の入り口に足を向ける。ファミレスの接客とは違う、落ち着いたいらっしゃいませに出迎えられ、俺達は窓際の席に通された。ふかふかの布張りのソファーにそうっと腰かけ、メニューを見て目玉が飛び出しそうになった。種類があるのもそうだけど、結構高い。コーヒー一杯九五〇円もする!
「ここは俺持ち。気にせず好きなの頼みな」
俺の躊躇を読み取ったみたいに、テーブルを挟んだ向こうから史人さんが言う。
「え、なんで」
「誘ったの俺だし。年上だし」
「年上たって一個じゃん。いい。自分で出す」
きっぱりと首を振る。史人さんがメニューに落としていた視線をすっと上げてこちらを見る。
別に意地を張りたいとかそういうんじゃない。年下らしく甘えたほうが史人さんは喜ぶ人だというのは知ってる。でも全部甘えちゃうのはなんかだめな気がした。
「勉強に来たんだし。一緒にその、楽しむんだし」
「ん」
史人さんがそっと目を伏せて笑う。首を傾げて、決まった? と俺に問いかけてくる。ざっと目でメニューをなぞり、俺はホットアッサムティーにした。ちなみに史人さんはブレンドコーヒー。
ラウンジスタッフの接客はさすがだった。ファミレスとは全然違って、無駄がなく、それでいて気遣いに溢れている。
「エレガントってああいうの言うんだよね」
紅茶の淹れ方からして違う。高い位置からカップへ紅茶を注がれて仰天した。高注ぎという技法らしくて、ああやって淹れると茶葉に空気が含まれて香りが広がりやすくなるんだよ、と史人さんが教えてくれた。
ワンランク上の接客ってやつに俺は委縮もしてしまったけど、会計を終えて外に出たところで興奮を抑えきれなくなってしまった。
「足音しない気がしたもん。気が付いたらもうすすっと脇に控えてるみたいな。忍者みたい」
ああもう、馬鹿みたいな感想しか出てこない。もう少し賢いことが言いたいのに。
でも史人さんはそんな俺をにこにこしながら見下ろしてくる。
そのすっと背筋が伸びた立ち姿はやっぱり俺とは全然違って大人っぽい。馬鹿みたいな話をしているときはでっかい弟みたいなのに、行った場所が場所だったからなのか、今日の史人さんは完全に俺より年上で、遠く感じて寂しくなる。
「史人さんはやっぱり、ああいうとこよく行くの?」
言ってしまってから、これは地雷になるかも、とひやっとした。やっぱり、なんて言い方しちゃったら含みがあるように聞こえてしまう。
「あ、えと」
「よくは行かない。父親に連れられて行ったことがあるくらい」
一瞬、複雑そうな顔をされたから、俺の予感はまんざら的外れではなかったらしい。けど、表情はすぐに笑顔へと変わり、史人さんは穏やかに答えてくれた。
「一流のサービスを子どものうちから知っておけ、みたいな家だから。まあでも、バイトするようになって、叩き込まれたこともまんざら無駄じゃなかったかもな、とは思えたけど」
この人が家のことを話すなんて初めてだ。隣を歩く史人さんを見上げると、視線に気付いたのかこちらに顔が向けられた。
「ってかさ、再会して驚いただろ。髪色、ずいぶん変えたし。千冬もわかんなかったもんね、俺だって」
「うん」
「これもまあ、反抗の一環。バイトしてんのもそう。うるさいからさ、俺の親。特に父親には他人からどう見られるのか意識しろとか子どものころから言われてて。中学くらいまでは従ってたけど、なんか高校入ってこのままずうっと親の言いなりになんのかと思ったら全部が嫌になって」
「そう、だったんだ」
今日はどうしてこんなに話してくれるんだろう。気になったけど、俺は黙って相槌だけを打った。
今は耳を傾けたかった。
「啓介には笑われたけど。高校デビューにしても派手すぎだろって。千冬もそう思っただろ?」
「ああ、まあ。でも」
確かに最初は二度見しちゃうほどだった。けど……派手な髪色になっても、服装が変わっても、史人さんの表情は変わらなかった。優しくて、楽しそうで、ちょっと軽くて。それでいて、時々寂しそうで。
昔とおんなじ、史人さんだった。
「つい見ちゃう感じは前と変わって、ないよ」
中学時代、校庭をふと見下ろしたとき。ランニングをしていた史人さんの髪色は他の皆と同じ黒髪で、着ている服だって見慣れた体操服だったのに、俺の目は一瞬で史人さんを見つけた。
それは今もそう。フロアに立っているとき。髪色のおかげもあるけど、史人さんの姿はほかの誰よりもくっきりと俺の網膜に刻まれる。
それってやっぱり俺がこの人を特別だと思っているからだろうか。
「つい目で追いたくなるとこ、千冬もずっと変わんないよ」
ぽつんと呟かれた声が俺の頭の中に浮かんだ声を遮る。ふっと目を上げると、史人さんもこちらを見た。
「なんか千冬となら、大丈夫って思えてくる」
「大丈夫ってなにが?」
「うん」
うん、と言ったきり史人さんは言葉を発しない。佇む俺達のそばを人が通り過ぎていく。ざわざわと耳をなぞるのは人の声。でもそのざわめきが俺は邪魔で仕方なかった。だってこの人は今、なにかを言おうとしている。
「史人さん」
あっち行こ、と腕を取ろうとしたとき、逆に二の腕を掴まれた。
「千冬、俺」
唇が動く。それを俺は呆然と見上げる。なにかを伝えようとする濃密な気配が漂う。それが決壊して解けてこちらへ流れ込んでくるのを俺は待つ。いつまででも。
でも。
「小腹、空いたし、フードコート行こっか」
ふっと視線が逸れた。ただ手は解けない。腕に絡んだままだ。その状態で史人さんは歩き出す。史人さんの手の中で俺の腕がきゅっと握り締められるのを感じた。
それはすがるみたいな、そんな手つきで、その手の力を感じたら、なんだかもうなにも訊けなかったし、なにも言えなかった。
この人がなにを抱えているのか。なにを不安に思っているのか。悩みの正体なんてまるで見えない。けど、大丈夫って思えるって言ってもらえる自分でいたいと、史人さんの手の熱を感じながらただ、願った。
その後は、いつも通りだった。フードコートでたこ焼きをふたりで食べて、他愛のない話をして、帰り道を辿る。
そうして辿り着いたうちと史人さんの家の中間の交差点。そこで史人さんはいつまでも俺を見送っていて、帰ろうとしなかった。
「もう帰りなよ~」
「うん。もうちょっと」
「もうちょっともうちょっとってずっと見られてると気になってこっちも帰れないんだって」
「じゃあもう少し話す?」
「なにを?」
「うーん、ああ、この間、80年代の曲聴いてたら、女の悲鳴が入ってて、うわ! 心霊現象って思って検索したらただの演出だったって話とか」
「史人さん、オチまで話しちゃってるじゃん」
「じゃあ別の話しよ」
「エンドレスかよ」
なんてことをさんざん繰り返してやっと家に着いたころには、空はすっかり夜の顔をしていて、家の門柱にも灯が点いていた。
話しすぎて喉がちょっと痛い。苦笑しながら玄関のドアを開けたとき、スマホが震えた。
もしかして史人さんかな、とちらっと思った。あの人は俺よりもメッセを送ってくるし、今日はまだ話し足りなそうだったから。
照れ笑いしながらスマホを引っ張り出す。通知が一件あった。普段あんまり使っていないフォトスタにDMが届いている。
「なんだろ」
広告とか、営業とか、そういうのだろうか。最近多いもんな、と何の気なしにクリックする。ちょうど家の玄関に入ったところだったのだが、靴を脱ごうとすると同時に俺はスマホを上がり框に落としてしまった。
画面を上向け、俺を睨む、スマホ。
「おかえりー、すげー音したけど大丈夫か、おい」
それを、トイレから出てきた兄ちゃんが笑いながら拾ってくれる。
「壊れてないよな。もー、気を付けろよ。しょーもないやつ……」
言いかけた兄ちゃんの言葉が止まる。すっと落とされた視線の先にはスマホの画面があった。
「ちょ、返して」
焦って兄ちゃんの手からスマホを奪い返す。けど表情からして画面に浮かんでいたメッセージは読まれていたに違いない。
兄ちゃんが無言で俺の顔を見る。
「千冬、お前さ」
「な、なに」
「史人と付き合ってんの?」
焦って首を振る。嘘はついていない。友達だって言いあって一緒にいる。だから俺達は友達……。
でも否定しながらも思ってしまっていることは、ある。
友達って、あんなに見つめ合っちゃうものなのだろうか。あんなに離れがたいものなんだろうか。何時間も道端で話し込んじゃうくらい?
その俺の迷いが口を重くする。きゅっと握り締めたスマホに表示された言葉は一言。
――史人はゲイやめたの。だからもう近づかないで。
差出人は、「M」。
多分絶対、あの人だ。史人さんの彼女の……。
「あいつらまだやってんのか」
きゅっと閉じた瞼の向こうで不意に苦い声が吐かれる。え、と目を開けた俺を、兄ちゃんは見てはいなかった。 ただ忌々しそうに壁を睨んでいる。
「なに……?」
そろそろと問うと、兄ちゃんが普段まずしないような怖い目でこちらを見た。とっさに身をすくめる俺をしばらく眺めてから、ふうっと息を吐いて兄ちゃんが言った。
「とりあえず飯。その後、話そっか。そのメッセージ、そのまんまにしとくわけいかないから」
「あの、兄ちゃん、これって」
すたすたとダイニングへと向かう背中に追いすがる。ドアの向こうから、おかえり~、と母親の声がする。それを慮ってか、すっと兄ちゃんが唇の前に人差し指を立てた。
「後で部屋来い」
「いつもの接客でいいって言ってたじゃん。気楽に行こうよ」
十一月三週目の土曜日、午前中でバイトが終わったこの日、ぶらぶら歩きながらぼやくと、今日は私服姿の史人さんがのほほんと返してきた。ちなみに今日の史人さんのファッションは、薄手のコートにスリムパンツ。どちらも色は黒で、中のシャツだけ柄物だ。肉まんがあくびしすぎて中身が外に出ちゃうイラストが描いてある。どこでそんなの探してくるんだっていつも思う。
「そうはいっても時給減らされたら嫌だし」
「そんな理由で減らされないって。そもそも、先輩の接客に隙などないですって」
「……史人さんに言われるとむかつく」
「ごめんごめんて。あ、そしたらこの後さ」
自分のほうが完璧な接客できるくせに。
不満を前面に押し出した俺の顔を史人さんは目を細めて眺めている。そうして不意に言った。
「ホテルに行ってみよっか」
「……はっ?」
え? え? なに、今なんて?
ホテルがどうこう言わなかったか?
確かに今日の午後はお互い時間があるから遊ぼうとは言った。でも、え?
「な、な、な、なに、言ってんの……?!」
「え?」
飛びすさる俺を史人さんがきょとんとした顔で見返す。そのあまりにも、なにか変なこと言いました? みたいな顔がめちゃくちゃむかつく。
「そんなとこ行くわけないだろ!」
なんでこんなことをいきなり言い出したんだろう。もしかしてからかわれているのだろうか。
――本気にすんなよ、ガキ。
またあのときみたいに馬鹿にされるのだろうか。そう思ったらすうっと顔から血の気が引いた。いくらなんでもそんなの、ひどい。
きっと目を吊り上げて史人さんを睨む。が、そこで俺は口を開けた。
史人さんが、口元を覆って俯いていた。
「あ、いや、ごめん。そういう意味じゃ……ない」
口の中で呟く。その史人さんの耳がかあっと赤くなっていくのを俺は唖然として見つめる。
この人がこんなに赤くなったとこ、もしかしたら初めて見たかも。
ふたりして困っていると、史人さんが髪をふるっと揺するように首を振り、咳払いした。
「違くて。ただ、ホテルのラウンジでお茶してみないかって言いたかったの。ファミレスとはサーブの仕方も違うから、勉強になるよってそれだけの」
「あ、そ、そか」
……なんだ、びっくりした。
というか、考えてみれば、いくらお茶らけた史人さんだっていきなりそんな誘いを俺にしてくるはずがない。なんつう勘違いしてんだ、俺。
「ごめん、俺が、なんか……」
「あー、いや。俺が悪くて。言葉足らずで。ごめんね」
にこっと笑った史人さんの頬はまだ赤い。さすがにその顔をさらすのが恥ずかしかったのか、前髪をささっと直すふりをしながら、行こか、と背中を向ける。うん、とその後ろについて歩きつつ、俺はそっと胸を撫でさする。
びっくりした。けど一方で、そういうこと……エッチなことをするときの史人さんの顔を想像した自分が確かにいて、そのことに本気で動揺していた。
こんなのおかしいし、だめなのに。なに考えてるんだろう。
「馬鹿、俺」
「え?」
独り言に史人さんが反応する。慌てて首を振って俺は足を早める。
「学生が入っていい場所? ホテルのラウンジなんて」
何気ないふうを必死に装って訊くと、史人さんはほんのりと笑って頷く。
「問題ないよ。学生だけの泊り客だっているだろうし。まあお高めだけど」
もう普段の調子に戻っている。それがほっとするような残念なような。
残念ってなんだ、もう。
思いがけない発言のせいで、気持ちはぐちゃぐちゃだったけど、駅前のシティホテルの一階に店を構えた、ティーラウンジの入り口で俺は目をぱちぱちさせた。
それくらい整然としていて、ファミレスとは全然違っていた。客層もビジネススーツをびしっときた男性や、上品そうな仕立ての服の女性ばかりで俺達みたいな軽装の若造は見当たらない。
「やっば……俺、場違い」
「それ言ったら俺も。こんなん着てるし」
ふふっと笑って史人さんが自分の胸を指し示す。そうしながらも、入ろっか、と物おじしない様子で店の入り口に足を向ける。ファミレスの接客とは違う、落ち着いたいらっしゃいませに出迎えられ、俺達は窓際の席に通された。ふかふかの布張りのソファーにそうっと腰かけ、メニューを見て目玉が飛び出しそうになった。種類があるのもそうだけど、結構高い。コーヒー一杯九五〇円もする!
「ここは俺持ち。気にせず好きなの頼みな」
俺の躊躇を読み取ったみたいに、テーブルを挟んだ向こうから史人さんが言う。
「え、なんで」
「誘ったの俺だし。年上だし」
「年上たって一個じゃん。いい。自分で出す」
きっぱりと首を振る。史人さんがメニューに落としていた視線をすっと上げてこちらを見る。
別に意地を張りたいとかそういうんじゃない。年下らしく甘えたほうが史人さんは喜ぶ人だというのは知ってる。でも全部甘えちゃうのはなんかだめな気がした。
「勉強に来たんだし。一緒にその、楽しむんだし」
「ん」
史人さんがそっと目を伏せて笑う。首を傾げて、決まった? と俺に問いかけてくる。ざっと目でメニューをなぞり、俺はホットアッサムティーにした。ちなみに史人さんはブレンドコーヒー。
ラウンジスタッフの接客はさすがだった。ファミレスとは全然違って、無駄がなく、それでいて気遣いに溢れている。
「エレガントってああいうの言うんだよね」
紅茶の淹れ方からして違う。高い位置からカップへ紅茶を注がれて仰天した。高注ぎという技法らしくて、ああやって淹れると茶葉に空気が含まれて香りが広がりやすくなるんだよ、と史人さんが教えてくれた。
ワンランク上の接客ってやつに俺は委縮もしてしまったけど、会計を終えて外に出たところで興奮を抑えきれなくなってしまった。
「足音しない気がしたもん。気が付いたらもうすすっと脇に控えてるみたいな。忍者みたい」
ああもう、馬鹿みたいな感想しか出てこない。もう少し賢いことが言いたいのに。
でも史人さんはそんな俺をにこにこしながら見下ろしてくる。
そのすっと背筋が伸びた立ち姿はやっぱり俺とは全然違って大人っぽい。馬鹿みたいな話をしているときはでっかい弟みたいなのに、行った場所が場所だったからなのか、今日の史人さんは完全に俺より年上で、遠く感じて寂しくなる。
「史人さんはやっぱり、ああいうとこよく行くの?」
言ってしまってから、これは地雷になるかも、とひやっとした。やっぱり、なんて言い方しちゃったら含みがあるように聞こえてしまう。
「あ、えと」
「よくは行かない。父親に連れられて行ったことがあるくらい」
一瞬、複雑そうな顔をされたから、俺の予感はまんざら的外れではなかったらしい。けど、表情はすぐに笑顔へと変わり、史人さんは穏やかに答えてくれた。
「一流のサービスを子どものうちから知っておけ、みたいな家だから。まあでも、バイトするようになって、叩き込まれたこともまんざら無駄じゃなかったかもな、とは思えたけど」
この人が家のことを話すなんて初めてだ。隣を歩く史人さんを見上げると、視線に気付いたのかこちらに顔が向けられた。
「ってかさ、再会して驚いただろ。髪色、ずいぶん変えたし。千冬もわかんなかったもんね、俺だって」
「うん」
「これもまあ、反抗の一環。バイトしてんのもそう。うるさいからさ、俺の親。特に父親には他人からどう見られるのか意識しろとか子どものころから言われてて。中学くらいまでは従ってたけど、なんか高校入ってこのままずうっと親の言いなりになんのかと思ったら全部が嫌になって」
「そう、だったんだ」
今日はどうしてこんなに話してくれるんだろう。気になったけど、俺は黙って相槌だけを打った。
今は耳を傾けたかった。
「啓介には笑われたけど。高校デビューにしても派手すぎだろって。千冬もそう思っただろ?」
「ああ、まあ。でも」
確かに最初は二度見しちゃうほどだった。けど……派手な髪色になっても、服装が変わっても、史人さんの表情は変わらなかった。優しくて、楽しそうで、ちょっと軽くて。それでいて、時々寂しそうで。
昔とおんなじ、史人さんだった。
「つい見ちゃう感じは前と変わって、ないよ」
中学時代、校庭をふと見下ろしたとき。ランニングをしていた史人さんの髪色は他の皆と同じ黒髪で、着ている服だって見慣れた体操服だったのに、俺の目は一瞬で史人さんを見つけた。
それは今もそう。フロアに立っているとき。髪色のおかげもあるけど、史人さんの姿はほかの誰よりもくっきりと俺の網膜に刻まれる。
それってやっぱり俺がこの人を特別だと思っているからだろうか。
「つい目で追いたくなるとこ、千冬もずっと変わんないよ」
ぽつんと呟かれた声が俺の頭の中に浮かんだ声を遮る。ふっと目を上げると、史人さんもこちらを見た。
「なんか千冬となら、大丈夫って思えてくる」
「大丈夫ってなにが?」
「うん」
うん、と言ったきり史人さんは言葉を発しない。佇む俺達のそばを人が通り過ぎていく。ざわざわと耳をなぞるのは人の声。でもそのざわめきが俺は邪魔で仕方なかった。だってこの人は今、なにかを言おうとしている。
「史人さん」
あっち行こ、と腕を取ろうとしたとき、逆に二の腕を掴まれた。
「千冬、俺」
唇が動く。それを俺は呆然と見上げる。なにかを伝えようとする濃密な気配が漂う。それが決壊して解けてこちらへ流れ込んでくるのを俺は待つ。いつまででも。
でも。
「小腹、空いたし、フードコート行こっか」
ふっと視線が逸れた。ただ手は解けない。腕に絡んだままだ。その状態で史人さんは歩き出す。史人さんの手の中で俺の腕がきゅっと握り締められるのを感じた。
それはすがるみたいな、そんな手つきで、その手の力を感じたら、なんだかもうなにも訊けなかったし、なにも言えなかった。
この人がなにを抱えているのか。なにを不安に思っているのか。悩みの正体なんてまるで見えない。けど、大丈夫って思えるって言ってもらえる自分でいたいと、史人さんの手の熱を感じながらただ、願った。
その後は、いつも通りだった。フードコートでたこ焼きをふたりで食べて、他愛のない話をして、帰り道を辿る。
そうして辿り着いたうちと史人さんの家の中間の交差点。そこで史人さんはいつまでも俺を見送っていて、帰ろうとしなかった。
「もう帰りなよ~」
「うん。もうちょっと」
「もうちょっともうちょっとってずっと見られてると気になってこっちも帰れないんだって」
「じゃあもう少し話す?」
「なにを?」
「うーん、ああ、この間、80年代の曲聴いてたら、女の悲鳴が入ってて、うわ! 心霊現象って思って検索したらただの演出だったって話とか」
「史人さん、オチまで話しちゃってるじゃん」
「じゃあ別の話しよ」
「エンドレスかよ」
なんてことをさんざん繰り返してやっと家に着いたころには、空はすっかり夜の顔をしていて、家の門柱にも灯が点いていた。
話しすぎて喉がちょっと痛い。苦笑しながら玄関のドアを開けたとき、スマホが震えた。
もしかして史人さんかな、とちらっと思った。あの人は俺よりもメッセを送ってくるし、今日はまだ話し足りなそうだったから。
照れ笑いしながらスマホを引っ張り出す。通知が一件あった。普段あんまり使っていないフォトスタにDMが届いている。
「なんだろ」
広告とか、営業とか、そういうのだろうか。最近多いもんな、と何の気なしにクリックする。ちょうど家の玄関に入ったところだったのだが、靴を脱ごうとすると同時に俺はスマホを上がり框に落としてしまった。
画面を上向け、俺を睨む、スマホ。
「おかえりー、すげー音したけど大丈夫か、おい」
それを、トイレから出てきた兄ちゃんが笑いながら拾ってくれる。
「壊れてないよな。もー、気を付けろよ。しょーもないやつ……」
言いかけた兄ちゃんの言葉が止まる。すっと落とされた視線の先にはスマホの画面があった。
「ちょ、返して」
焦って兄ちゃんの手からスマホを奪い返す。けど表情からして画面に浮かんでいたメッセージは読まれていたに違いない。
兄ちゃんが無言で俺の顔を見る。
「千冬、お前さ」
「な、なに」
「史人と付き合ってんの?」
焦って首を振る。嘘はついていない。友達だって言いあって一緒にいる。だから俺達は友達……。
でも否定しながらも思ってしまっていることは、ある。
友達って、あんなに見つめ合っちゃうものなのだろうか。あんなに離れがたいものなんだろうか。何時間も道端で話し込んじゃうくらい?
その俺の迷いが口を重くする。きゅっと握り締めたスマホに表示された言葉は一言。
――史人はゲイやめたの。だからもう近づかないで。
差出人は、「M」。
多分絶対、あの人だ。史人さんの彼女の……。
「あいつらまだやってんのか」
きゅっと閉じた瞼の向こうで不意に苦い声が吐かれる。え、と目を開けた俺を、兄ちゃんは見てはいなかった。 ただ忌々しそうに壁を睨んでいる。
「なに……?」
そろそろと問うと、兄ちゃんが普段まずしないような怖い目でこちらを見た。とっさに身をすくめる俺をしばらく眺めてから、ふうっと息を吐いて兄ちゃんが言った。
「とりあえず飯。その後、話そっか。そのメッセージ、そのまんまにしとくわけいかないから」
「あの、兄ちゃん、これって」
すたすたとダイニングへと向かう背中に追いすがる。ドアの向こうから、おかえり~、と母親の声がする。それを慮ってか、すっと兄ちゃんが唇の前に人差し指を立てた。
「後で部屋来い」



