うわー、やだな。
それが今日、フロアに出ようとした俺の、最初の心の声だった。
「あ、芹那くん、おはよ」
声を潜めるようにして挨拶してきたのは、俺と同じく高校生バイトの近藤さんだ。彼女がこんな声を出しているのは多分今、フロアからこれでもかと響いてくるどら声のせいだろう。
「だからさあ! 言ってんだろ~、お前らの不注意で俺、舌火傷しちゃったの。それ、どう考えてるわけ?」
「しかし、あの……お熱くなっていることはお伝えしたかと……」
怒鳴っているのはだぼだぼのパーカーとやっぱりだぼだぼのパンツを履いた多分大学生くらいの男。連れもいてこちらも同じような恰好。で……そのだぼだぼパーカー男に怒鳴られているのは、主婦パートの金田さん。
「なに、どしたの?」
「なんかハンバーグ、熱すぎて舌火傷したからお金払わないって言いだして……。最初、みっちゃんが対応してたんだけど」
ぼそぼそと言いながら近藤さんがちらっと視線をカウンターの奥に向ける。ソフトクリームフリーザーの前で膝を抱えて泣いている三矢さんの姿を見つけて、俺は大体の事情を把握した。
ようするにフロアにいるあいつらが難癖をつけて無銭飲食しようとしているのか。で、因縁をつけられて泣き出してしまった三矢さんの代わりに今、金田さんが矢面に立たされていると。
ファミレスでバイトを始めて半年。まだまだ仕事には慣れないけど、たまにこういう不埒な客がやってくる。
やれ、髪の毛が入っていたから作り直せ、と全部食べた後に要求してくる客。
スマホ決済したいけど、電池切れだった。現金の持ち合わせが今ないのでちょっとお金を取ってくる、と言い捨てて戻らない客。
そして、今みたいに、鉄板熱すぎて火傷しただろうがどうしてくれるこの野郎、と無茶苦茶言ってくる客。
よくもまあ次から次へと見苦しい理由を並べ立てられるものだ。
「店長は?」
「今日本社に行ってて……社員さんも今日は午後入ってないし……」
なんて言っている間にも客の罵声はひどくなる。さすがに泣き出しはしないけど、金田さんの顔は遠目で見てもわかるくらい真っ青だ。
「俺、行くわ」
さすがにこのまま放っておけない。万一相手が暴力をふるってくるような輩だったら、大変なことになる。今日、スタッフで男は俺だけだし。
「でも芹那くん……」
「大丈夫。ちゃんと話してくる。店長にも連絡して、あと、あんまりもめそうなら警察にも連絡しちゃったほうがいいかも」
それだけ言い置いて俺はふうっと息を吸う。一度エプロンをパンと叩く。よし、と気合を入れて一歩一歩彼らのほうへ近づく。
「お客様」
声をかけると、ああん? と男がこちらを見た。その彼を見下ろさないように俺は床に片膝を突く。
「申し訳ありません。他のお客様のご迷惑にもなりますのでもう少しお声を……」
「はあ?! お前、こっちは怪我してんだぞ?! それをなんだ。迷惑? ふざけてんのか!」
「そういうことではなくて。ただ、あまりにもお声が……」
「ふざけんなよ! このチビが!」
チビ。
こいつ今、俺のこと、チビと言ったか?
ああ、確かに俺は背が高くない。ぎりぎり百六十あるかどうかだ。時々、女子にだって見下ろされる。でも、だからって心までチビじゃない。
「あまりにも大声を出されるなら……」
一発殴るぞくそが。
そう続けたかったけど、さすがにそんなことは言えない。警察に連絡いたしますよ、と続けようとしたときだった。
「おにーさん」
のんびりした声が投げ込まれる。声に引かれるようにして、店内中の目がそちらへ向けられた。もめている男と背中合わせになった席からひょこりと顔を出したのは、ライトグレーのブレザーに臙脂色のネクタイというどこかの学校の制服を着た人だった。あれは確か、県内トップクラスの進学校の制服だった気がする。ただ、お堅いイメージのあったその学校の生徒にしては珍しく、金に近い茶色の髪色をしていた。
「その辺にしておいたほうがいいかも。完全にカスハラですよ」
「は?! てめえ、なに勝手にしゃしゃり出てんだよ! 悪いのはこの店だろうが!」
「んー、でも、俺、お兄さんの後ろにいたから聞こえてたけど、店員さんちゃんと注意されてましたよ? 『お熱くなっておりますのでお気を付けください』って。それお兄さんが聞き漏らしただけなんじゃありません?」
「そんなの言われてねえし! 俺のとき言い忘れたんじゃねえの?!」
「仮にそうだとしても、火傷するほど熱かったわけですよね。湯気も出てたろうし、鉄板で焼かれてたから音もしてた。それでも火傷したのはお兄さんの不注意じゃないですか? それを人のせいにするのは大人としてちょっと恥ずかしいんじゃないかな」
「なっ……ざっけんなよ、このガキ」
「おい待てって」
エキサイトした男が立ち上がろうとするのを連れの男が止める。その段になって、店内中の人間からの責めるような視線に、男も気が付いたようだった。
「……あー、もう、萎えたわ。もういいよ、あんたら」
追い払うように男が手の甲をこちらに向けて振る。犬じゃねえっての、とまたいらっとしたが、ここで騒いだらこいつらと同じだ。
申し訳ありませんでした、と金田さんとそろって頭を下げ、キッチンへと戻ろうと歩き出したところで、助け船を出してくれた先程の男が席を立った。
並んで立つと俺より頭一つ近くでかい。座ってたらわかんないものだな、と思いつつ、俺はそれと気付かれないように相手を観察する。
筋肉質、という感じではないけど、ブレザーに覆われた腕のラインがすっきりとしまっているのがわかる。通学バッグを掴む手も俺より大きくてしなやかだ。なんていうか……ちょっと……むかつく。
「お会計ですか?」
けど、そんなこともちろん顔になんて出さない。にこっと笑って声をかけると、相手もむかつくくらいさわやかな笑顔でこちらを見下ろしてきた。
そのすらっとした立ち姿に店内の女性客が色めき立ったのは気のせいじゃないと思う。ますますいけ好かない、と思いつつ、俺は男の手から伝票を受け取った。
「先ほどはありがとうございました。お騒がせしまして大変失礼いたしました」
「あー、いや。ってかね、俺も無関係じゃないから。つい口を出したというか」
「はい?」
無関係じゃない?
すると、彼は俺の背後に向かって、つっと指を差した。指の先を視線で追って俺はますます首を捻る。
――スタッフ急募。接客未経験でも大歓迎。先輩達が丁寧に教えます。詳細はスタッフまで。
「あの?」
「俺もあれ、応募しようと思ってたから」
「え、あ。そう、なんですか?」
びっくりしてまじまじと彼を見つめると、照れ臭そうにしながら彼は自身の髪を人差し指と親指で軽く積まんだ。
「うん。家、近いし。ただ接客だと髪、染めろって言われるかな~と思って二の足踏んでたんだけど」
「あー……大丈夫ですよ。うちは髪色融通利くので。でも今店長いなくて。伝えておきます?」
「いや、大丈夫。自分で連絡するから……ってかさ、そんなことよりね」
不意にレジカウンター越しに男が身を乗り出してくる。でかいやつにそうされると、そのつもりがなくてもつい見上げるみたいになってしまう。
やっぱりむかつく、といらっとしたとき、男がくすっと笑った。
「千冬、大きくなったね。敬語、俺より使えるし。やり取り完全にビジネス仕様だし。見違えた。ほんと」
「は……?」
まじまじと相手を見るけど、やっぱり見覚えがない。ええと、とますます困惑する俺をしばらく見つめてから、彼はゆっくりと眉を下げて言った。
「啓介、俺のことなにも言ってなかった?」
兄ちゃんの知り合い……?
脳内のデータベースを引っ掻き回しながら目の前の男をもう一度よくよく観察する。
すっと通った鼻筋。笑っていないとちょっと鋭く感じる切れた目尻。シャツの襟元から覗くすんなりとした首筋。顎のシャープなライン。
うそ……。
「え、あの……もし、かして、史人、さん?」
「大当たり」
そう言って、昔とはまったく違う、金茶に染まった前髪をさらっと描き上げて笑ったその人。それは、かつて俺が大嫌いだった人で……なおかつ、初めて好きになった人だった。
それが今日、フロアに出ようとした俺の、最初の心の声だった。
「あ、芹那くん、おはよ」
声を潜めるようにして挨拶してきたのは、俺と同じく高校生バイトの近藤さんだ。彼女がこんな声を出しているのは多分今、フロアからこれでもかと響いてくるどら声のせいだろう。
「だからさあ! 言ってんだろ~、お前らの不注意で俺、舌火傷しちゃったの。それ、どう考えてるわけ?」
「しかし、あの……お熱くなっていることはお伝えしたかと……」
怒鳴っているのはだぼだぼのパーカーとやっぱりだぼだぼのパンツを履いた多分大学生くらいの男。連れもいてこちらも同じような恰好。で……そのだぼだぼパーカー男に怒鳴られているのは、主婦パートの金田さん。
「なに、どしたの?」
「なんかハンバーグ、熱すぎて舌火傷したからお金払わないって言いだして……。最初、みっちゃんが対応してたんだけど」
ぼそぼそと言いながら近藤さんがちらっと視線をカウンターの奥に向ける。ソフトクリームフリーザーの前で膝を抱えて泣いている三矢さんの姿を見つけて、俺は大体の事情を把握した。
ようするにフロアにいるあいつらが難癖をつけて無銭飲食しようとしているのか。で、因縁をつけられて泣き出してしまった三矢さんの代わりに今、金田さんが矢面に立たされていると。
ファミレスでバイトを始めて半年。まだまだ仕事には慣れないけど、たまにこういう不埒な客がやってくる。
やれ、髪の毛が入っていたから作り直せ、と全部食べた後に要求してくる客。
スマホ決済したいけど、電池切れだった。現金の持ち合わせが今ないのでちょっとお金を取ってくる、と言い捨てて戻らない客。
そして、今みたいに、鉄板熱すぎて火傷しただろうがどうしてくれるこの野郎、と無茶苦茶言ってくる客。
よくもまあ次から次へと見苦しい理由を並べ立てられるものだ。
「店長は?」
「今日本社に行ってて……社員さんも今日は午後入ってないし……」
なんて言っている間にも客の罵声はひどくなる。さすがに泣き出しはしないけど、金田さんの顔は遠目で見てもわかるくらい真っ青だ。
「俺、行くわ」
さすがにこのまま放っておけない。万一相手が暴力をふるってくるような輩だったら、大変なことになる。今日、スタッフで男は俺だけだし。
「でも芹那くん……」
「大丈夫。ちゃんと話してくる。店長にも連絡して、あと、あんまりもめそうなら警察にも連絡しちゃったほうがいいかも」
それだけ言い置いて俺はふうっと息を吸う。一度エプロンをパンと叩く。よし、と気合を入れて一歩一歩彼らのほうへ近づく。
「お客様」
声をかけると、ああん? と男がこちらを見た。その彼を見下ろさないように俺は床に片膝を突く。
「申し訳ありません。他のお客様のご迷惑にもなりますのでもう少しお声を……」
「はあ?! お前、こっちは怪我してんだぞ?! それをなんだ。迷惑? ふざけてんのか!」
「そういうことではなくて。ただ、あまりにもお声が……」
「ふざけんなよ! このチビが!」
チビ。
こいつ今、俺のこと、チビと言ったか?
ああ、確かに俺は背が高くない。ぎりぎり百六十あるかどうかだ。時々、女子にだって見下ろされる。でも、だからって心までチビじゃない。
「あまりにも大声を出されるなら……」
一発殴るぞくそが。
そう続けたかったけど、さすがにそんなことは言えない。警察に連絡いたしますよ、と続けようとしたときだった。
「おにーさん」
のんびりした声が投げ込まれる。声に引かれるようにして、店内中の目がそちらへ向けられた。もめている男と背中合わせになった席からひょこりと顔を出したのは、ライトグレーのブレザーに臙脂色のネクタイというどこかの学校の制服を着た人だった。あれは確か、県内トップクラスの進学校の制服だった気がする。ただ、お堅いイメージのあったその学校の生徒にしては珍しく、金に近い茶色の髪色をしていた。
「その辺にしておいたほうがいいかも。完全にカスハラですよ」
「は?! てめえ、なに勝手にしゃしゃり出てんだよ! 悪いのはこの店だろうが!」
「んー、でも、俺、お兄さんの後ろにいたから聞こえてたけど、店員さんちゃんと注意されてましたよ? 『お熱くなっておりますのでお気を付けください』って。それお兄さんが聞き漏らしただけなんじゃありません?」
「そんなの言われてねえし! 俺のとき言い忘れたんじゃねえの?!」
「仮にそうだとしても、火傷するほど熱かったわけですよね。湯気も出てたろうし、鉄板で焼かれてたから音もしてた。それでも火傷したのはお兄さんの不注意じゃないですか? それを人のせいにするのは大人としてちょっと恥ずかしいんじゃないかな」
「なっ……ざっけんなよ、このガキ」
「おい待てって」
エキサイトした男が立ち上がろうとするのを連れの男が止める。その段になって、店内中の人間からの責めるような視線に、男も気が付いたようだった。
「……あー、もう、萎えたわ。もういいよ、あんたら」
追い払うように男が手の甲をこちらに向けて振る。犬じゃねえっての、とまたいらっとしたが、ここで騒いだらこいつらと同じだ。
申し訳ありませんでした、と金田さんとそろって頭を下げ、キッチンへと戻ろうと歩き出したところで、助け船を出してくれた先程の男が席を立った。
並んで立つと俺より頭一つ近くでかい。座ってたらわかんないものだな、と思いつつ、俺はそれと気付かれないように相手を観察する。
筋肉質、という感じではないけど、ブレザーに覆われた腕のラインがすっきりとしまっているのがわかる。通学バッグを掴む手も俺より大きくてしなやかだ。なんていうか……ちょっと……むかつく。
「お会計ですか?」
けど、そんなこともちろん顔になんて出さない。にこっと笑って声をかけると、相手もむかつくくらいさわやかな笑顔でこちらを見下ろしてきた。
そのすらっとした立ち姿に店内の女性客が色めき立ったのは気のせいじゃないと思う。ますますいけ好かない、と思いつつ、俺は男の手から伝票を受け取った。
「先ほどはありがとうございました。お騒がせしまして大変失礼いたしました」
「あー、いや。ってかね、俺も無関係じゃないから。つい口を出したというか」
「はい?」
無関係じゃない?
すると、彼は俺の背後に向かって、つっと指を差した。指の先を視線で追って俺はますます首を捻る。
――スタッフ急募。接客未経験でも大歓迎。先輩達が丁寧に教えます。詳細はスタッフまで。
「あの?」
「俺もあれ、応募しようと思ってたから」
「え、あ。そう、なんですか?」
びっくりしてまじまじと彼を見つめると、照れ臭そうにしながら彼は自身の髪を人差し指と親指で軽く積まんだ。
「うん。家、近いし。ただ接客だと髪、染めろって言われるかな~と思って二の足踏んでたんだけど」
「あー……大丈夫ですよ。うちは髪色融通利くので。でも今店長いなくて。伝えておきます?」
「いや、大丈夫。自分で連絡するから……ってかさ、そんなことよりね」
不意にレジカウンター越しに男が身を乗り出してくる。でかいやつにそうされると、そのつもりがなくてもつい見上げるみたいになってしまう。
やっぱりむかつく、といらっとしたとき、男がくすっと笑った。
「千冬、大きくなったね。敬語、俺より使えるし。やり取り完全にビジネス仕様だし。見違えた。ほんと」
「は……?」
まじまじと相手を見るけど、やっぱり見覚えがない。ええと、とますます困惑する俺をしばらく見つめてから、彼はゆっくりと眉を下げて言った。
「啓介、俺のことなにも言ってなかった?」
兄ちゃんの知り合い……?
脳内のデータベースを引っ掻き回しながら目の前の男をもう一度よくよく観察する。
すっと通った鼻筋。笑っていないとちょっと鋭く感じる切れた目尻。シャツの襟元から覗くすんなりとした首筋。顎のシャープなライン。
うそ……。
「え、あの……もし、かして、史人、さん?」
「大当たり」
そう言って、昔とはまったく違う、金茶に染まった前髪をさらっと描き上げて笑ったその人。それは、かつて俺が大嫌いだった人で……なおかつ、初めて好きになった人だった。



