僕は放課後、図書館へ足を運んだ。
町営図書館は、町役場の隣に建てられた古い建物だった。
外壁はところどころ色が褪せ、入口横の掲示板には数ヶ月前のイベント告知がそのまま貼られている。
自動ドアが開くと、紙と埃の混じったような、図書館特有の匂いが鼻をくすぐった。
町に関する資料は二階の郷土資料コーナーに集められている。
古びた本棚には、この町の歴史書や古い新聞の縮刷版が隙間なく並び、利用者もほとんどいないせいか、空気は静かに淀んでいた。
九十九沢が、昔存在していた行政区名だったことは、この前の件で知った。
矢櫃川の最上流にある、民家十棟にも満たない閉鎖的な集落。
そこへ繋がるトンネルの老朽化により、平成を待たずして閉鎖された地区——それが九十九沢だった。
あまりの閉鎖性から“村”と呼ばれていたらしいが、実際にはこの町の一部だったらしい。
残念なことに、それ以外の情報はなかった。
まるで、最初から何も存在しなかったことにしたいような、あまりにも説明は簡素で、拍子抜けするほどあっさりとしている。
古い町史をめくるたび、紙の擦れる乾いた音だけが静かな空間に響いた。
「りっちゃんが急にあの村に興味わくなんて」
ついてきた恵吾が、隣で嬉しそうに声をかけてくる。
「だって、これ気になるだろ」
僕は、自分の名前が書かれた紙でできた箱を指先で叩きながら、再び資料へ目を向けた。
「確かになぁ。いたずらにしては手が込んでるよなぁ」
自分の名前が記された箱に、僕は妙な異質さを感じていた。
『すべては 帷 君のために』
最後に残されていたその言葉。
告白にしては、妙に凝った謎解きだった。
普通に告白してくれればいいのに、なんて事も思う。
恵吾みたいに顔が良いわけでもない僕に、そんな相手がいるとは思えなかったけれど、それでも少しくらい期待してしまう。
けれど、 “契り”や“神木”なんて意味の分からない単語ばかり並び、何より“九十九沢”という地名がここ数日で何度か僕の生活絡んでくるのが引っかかった。
それもあって、この箱が何かを示していると思ってしまう。
告白というよりは、何かを伝えたいのか。
それとも、答えを見つけてほしいのか。
そんな気がしてならない。
窓の外では、風に揺れた木々がさわさわと音を立てていた。
静かな図書館の空気が、余計に胸のざわつきを際立たせる。
なにより、これを見てからずっと気持ちが悪かった。
見てしまった以上、このまま放っておくこともできない。
確かめて、全部解決して、安心したかった。
たったそれだけの動機だった。
「ならさ、実際行ってみたらいいじゃん」
窓際で頬杖をつきながら、恵吾が気軽な調子でそう言った。
湿気をまとった風が、少しだけ開いた窓から入り込み、カーテンをゆっくり揺らした。
つまり彼は、九十九沢へ繋がるあのトンネルへ——その向こうへ行こうと誘っているのだ。
オカルト好きなだけあって、恵吾はきっと恐怖より興味が勝っている。
「え? 今から?」
僕は顔にも態度にも露骨に嫌そうな感情を浮かべた。
「善は急げっていうじゃん?」
「何が善なんだよ」
呆れながら、痛み始めたこめかみを人差し指で強く押す。
神経質そうに見えるその仕草は、いつの間にか僕の癖になっていた。
最近の恵吾は、今まで以上に猪突猛進なのだ。
きっと、あのトンネルの檻が工事で外され、今まで行けなかった場所へ行けると分かったからだろう。
まるで、テーマパークを楽しみにしている子供みたいだった。
図書館の後ろでは誰かが机を引きずった音が耳に入る。
そんな、静かな空気の中で、九十九沢という言葉だけが妙に浮いていた。
「今日は無理だよ。母さんに早く帰ってこいって言われてるし」
「じゃあ明日!」
「本当に諦めが悪いなぁ」
目をきらきらさせている恵吾を見てしまうと、どうにも心が折れてしまう。
男にも母性というものがあるなら、きっとこういう感覚なのだろう。
この笑顔は癪に障るのに、結局、僕は恵吾に甘い。
窓の外では、夕方の風に揺れた木々がざわざわと鳴っていた。
「……仕方ないなぁ」
観念したようにそう言うと、
「よっしゃ!」
恵吾は大げさなガッツポーズを見せたのだった。
***
帰り道。空はまだ少し明るかった。
もう六時を過ぎているというのに、西の空は赤く燃えるように染まっている。
夜を迎える準備でもするように、太陽はゆっくりと遠くの山へ沈もうとしていた。
「じゃあな!」
恵吾がそう言って、手を振る。
反対側の路地へ消えていく後ろ姿は、妙に軽やかだった。明日の約束が、それほど楽しみなのだろう。
長年の付き合いだ。非現実的なものが好きな恵吾の考えていることくらい、手に取るように分かる。
僕は長く伸びた自分の影を見下ろし、その上を踏むように歩き出した。
手の中には、あの輪がある。
指輪にしては妙に重苦しく、けれど木で出来ている以上、それを指輪と呼ぶのも違う気がした。
何かの一部なのか。それすら分からないまま、僕はそれを掌の上で転がす。
「——國井」
ふいに、聞き慣れた声が僕の影を踏む。
倉守だった。
ただでさえ考え事が多いというのに、今は倉守と話したい気分ではない。
けれど、呼ばれて無視するのも不自然だった。
僕は足を止め、
「……なに?」
と、短く問い返した。
「お前に渡したいものが……それ、どうしたんだ?」
倉守が、目を見開いた。
夕焼けに染まった横顔が、はっきりと強張っている。
“それ”とは、僕が手の中で転がしていた木の輪のことだろう。
その反応を見ただけで分かった。倉守は、これが何なのかを知っている。
「え? 倉守、これ知ってるのか」
問い返した瞬間だった。
「早く、捨てるんだ!」
怒鳴りに似た、鋭い声が飛ぶ。
「は? なに急に——」
「いいから!」
次の瞬間、バシッ、と強く手を払われた。
木の輪が勢いよく宙を舞い、アスファルトの上を跳ねながら道路脇へ転がっていった。
「なにすんだよ!」
思わず怒鳴り返す。
けれど倉守は、そんなことに構っている余裕などないようだった。
「お前、狙われてるぞ!」
「……は?」
倉守の荒げた声が、夕暮れの住宅街に響く。
その声を合図にしたみたいに、山の向こうへ太陽が沈んだ。
一瞬だった。
赤かった空が、急速に色を失っていく。
どろり、と。
背後から、何かが蠢く音がした。
水気を含んだ泥を無理やり掻き回しているような、不快な音。
ぐじゅ、ぐじゅ、と湿った音が近づいてくる。
「逃げるぞ!」
そう言うなり、倉守が強引に僕の手を掴んだ。
熱いほど強い力だった。
引っ張られるまま走り出しながら、僕は思わず振り返る。
泥のように黒く、崩れ続けている“何か”が立っていた。
街灯もまだ点いていない薄暗い道の真ん中に、人の形をしているのに、人間には見えないものが。
しかも、一体じゃない。
ぬらり、と揺れながら、何体もこちらを見ている。
「な、何あれ……⁉」
喉が震える。
「いいから走れ!」
倉守に手を引かれ、僕は必死に地面を蹴った。
背後では、ぐじゅり、と何かを引きずる音が、追いかけてきていた。
町営図書館は、町役場の隣に建てられた古い建物だった。
外壁はところどころ色が褪せ、入口横の掲示板には数ヶ月前のイベント告知がそのまま貼られている。
自動ドアが開くと、紙と埃の混じったような、図書館特有の匂いが鼻をくすぐった。
町に関する資料は二階の郷土資料コーナーに集められている。
古びた本棚には、この町の歴史書や古い新聞の縮刷版が隙間なく並び、利用者もほとんどいないせいか、空気は静かに淀んでいた。
九十九沢が、昔存在していた行政区名だったことは、この前の件で知った。
矢櫃川の最上流にある、民家十棟にも満たない閉鎖的な集落。
そこへ繋がるトンネルの老朽化により、平成を待たずして閉鎖された地区——それが九十九沢だった。
あまりの閉鎖性から“村”と呼ばれていたらしいが、実際にはこの町の一部だったらしい。
残念なことに、それ以外の情報はなかった。
まるで、最初から何も存在しなかったことにしたいような、あまりにも説明は簡素で、拍子抜けするほどあっさりとしている。
古い町史をめくるたび、紙の擦れる乾いた音だけが静かな空間に響いた。
「りっちゃんが急にあの村に興味わくなんて」
ついてきた恵吾が、隣で嬉しそうに声をかけてくる。
「だって、これ気になるだろ」
僕は、自分の名前が書かれた紙でできた箱を指先で叩きながら、再び資料へ目を向けた。
「確かになぁ。いたずらにしては手が込んでるよなぁ」
自分の名前が記された箱に、僕は妙な異質さを感じていた。
『すべては 帷 君のために』
最後に残されていたその言葉。
告白にしては、妙に凝った謎解きだった。
普通に告白してくれればいいのに、なんて事も思う。
恵吾みたいに顔が良いわけでもない僕に、そんな相手がいるとは思えなかったけれど、それでも少しくらい期待してしまう。
けれど、 “契り”や“神木”なんて意味の分からない単語ばかり並び、何より“九十九沢”という地名がここ数日で何度か僕の生活絡んでくるのが引っかかった。
それもあって、この箱が何かを示していると思ってしまう。
告白というよりは、何かを伝えたいのか。
それとも、答えを見つけてほしいのか。
そんな気がしてならない。
窓の外では、風に揺れた木々がさわさわと音を立てていた。
静かな図書館の空気が、余計に胸のざわつきを際立たせる。
なにより、これを見てからずっと気持ちが悪かった。
見てしまった以上、このまま放っておくこともできない。
確かめて、全部解決して、安心したかった。
たったそれだけの動機だった。
「ならさ、実際行ってみたらいいじゃん」
窓際で頬杖をつきながら、恵吾が気軽な調子でそう言った。
湿気をまとった風が、少しだけ開いた窓から入り込み、カーテンをゆっくり揺らした。
つまり彼は、九十九沢へ繋がるあのトンネルへ——その向こうへ行こうと誘っているのだ。
オカルト好きなだけあって、恵吾はきっと恐怖より興味が勝っている。
「え? 今から?」
僕は顔にも態度にも露骨に嫌そうな感情を浮かべた。
「善は急げっていうじゃん?」
「何が善なんだよ」
呆れながら、痛み始めたこめかみを人差し指で強く押す。
神経質そうに見えるその仕草は、いつの間にか僕の癖になっていた。
最近の恵吾は、今まで以上に猪突猛進なのだ。
きっと、あのトンネルの檻が工事で外され、今まで行けなかった場所へ行けると分かったからだろう。
まるで、テーマパークを楽しみにしている子供みたいだった。
図書館の後ろでは誰かが机を引きずった音が耳に入る。
そんな、静かな空気の中で、九十九沢という言葉だけが妙に浮いていた。
「今日は無理だよ。母さんに早く帰ってこいって言われてるし」
「じゃあ明日!」
「本当に諦めが悪いなぁ」
目をきらきらさせている恵吾を見てしまうと、どうにも心が折れてしまう。
男にも母性というものがあるなら、きっとこういう感覚なのだろう。
この笑顔は癪に障るのに、結局、僕は恵吾に甘い。
窓の外では、夕方の風に揺れた木々がざわざわと鳴っていた。
「……仕方ないなぁ」
観念したようにそう言うと、
「よっしゃ!」
恵吾は大げさなガッツポーズを見せたのだった。
***
帰り道。空はまだ少し明るかった。
もう六時を過ぎているというのに、西の空は赤く燃えるように染まっている。
夜を迎える準備でもするように、太陽はゆっくりと遠くの山へ沈もうとしていた。
「じゃあな!」
恵吾がそう言って、手を振る。
反対側の路地へ消えていく後ろ姿は、妙に軽やかだった。明日の約束が、それほど楽しみなのだろう。
長年の付き合いだ。非現実的なものが好きな恵吾の考えていることくらい、手に取るように分かる。
僕は長く伸びた自分の影を見下ろし、その上を踏むように歩き出した。
手の中には、あの輪がある。
指輪にしては妙に重苦しく、けれど木で出来ている以上、それを指輪と呼ぶのも違う気がした。
何かの一部なのか。それすら分からないまま、僕はそれを掌の上で転がす。
「——國井」
ふいに、聞き慣れた声が僕の影を踏む。
倉守だった。
ただでさえ考え事が多いというのに、今は倉守と話したい気分ではない。
けれど、呼ばれて無視するのも不自然だった。
僕は足を止め、
「……なに?」
と、短く問い返した。
「お前に渡したいものが……それ、どうしたんだ?」
倉守が、目を見開いた。
夕焼けに染まった横顔が、はっきりと強張っている。
“それ”とは、僕が手の中で転がしていた木の輪のことだろう。
その反応を見ただけで分かった。倉守は、これが何なのかを知っている。
「え? 倉守、これ知ってるのか」
問い返した瞬間だった。
「早く、捨てるんだ!」
怒鳴りに似た、鋭い声が飛ぶ。
「は? なに急に——」
「いいから!」
次の瞬間、バシッ、と強く手を払われた。
木の輪が勢いよく宙を舞い、アスファルトの上を跳ねながら道路脇へ転がっていった。
「なにすんだよ!」
思わず怒鳴り返す。
けれど倉守は、そんなことに構っている余裕などないようだった。
「お前、狙われてるぞ!」
「……は?」
倉守の荒げた声が、夕暮れの住宅街に響く。
その声を合図にしたみたいに、山の向こうへ太陽が沈んだ。
一瞬だった。
赤かった空が、急速に色を失っていく。
どろり、と。
背後から、何かが蠢く音がした。
水気を含んだ泥を無理やり掻き回しているような、不快な音。
ぐじゅ、ぐじゅ、と湿った音が近づいてくる。
「逃げるぞ!」
そう言うなり、倉守が強引に僕の手を掴んだ。
熱いほど強い力だった。
引っ張られるまま走り出しながら、僕は思わず振り返る。
泥のように黒く、崩れ続けている“何か”が立っていた。
街灯もまだ点いていない薄暗い道の真ん中に、人の形をしているのに、人間には見えないものが。
しかも、一体じゃない。
ぬらり、と揺れながら、何体もこちらを見ている。
「な、何あれ……⁉」
喉が震える。
「いいから走れ!」
倉守に手を引かれ、僕は必死に地面を蹴った。
背後では、ぐじゅり、と何かを引きずる音が、追いかけてきていた。


