見たことのない光景だった。
朱に染まった木々が風に揺れている。その下で、僕は知らない誰かと言葉を交わしていた。
古民家の縁側では老人たちが集まり、笑い合いながら何かを食べている。
くちゃくちゃ、と湿った咀嚼音だけが妙に生々しい。それは菓子でも果物でもないように思えた。
奥の部屋では、赤子を抱いた女が静かに歌を口ずさんでいる。その足元を、子どもたちが無邪気に駆け回っていた。
どこか懐かしいようでいて、まったく知らない世界だった。
歌声もまた、不思議だった。耳にしたことなどないはずなのに、なぜか胸の奥をかすかに揺さぶる。けれど、ときおり雑音が混じって、うまく聞き取れない。
そこでようやく気づく。
ああ、これは夢だ。
そう理解するまで、その場所はあまりにも穏やかで、平和で——異質だった。
老人たちの笑い声。子どものはしゃぐ声。赤子の泣き声。そして、聞き取れない歌声。
それらが幾重にも反響し、頭の中で混ざり合う。
気が狂いそうなほど響き続けた次の瞬間、鋭い痛みが頭を貫いた。
はっと目を覚ます。
怖い夢ではなかったはずなのに、じんわりと冷たい汗が背中を伝っていた。
「あ……学校、行かなきゃ」
ぼんやりした頭のまま呟く。
窓の外では、雀が忙しなく朝を告げていた。現実に引き戻されるように、僕は慌てて支度を始めた。
***
「りっちゃんおはよ」
心配している様子と気を使わないようにと明るく振舞いながら恵吾が席に着くなり近寄ってきた。
「おはよう、心配かけてごめん」
「いいんだよ!体調不良は仕方なし!もしかしたら、あそこに行ったのが原因かもだし」
「出た、オカルト思考」
「ノーノー!これは怪談だね」
「違いが僕にはわからないな」
恵吾が「あはは」と笑う。
「とりあえず、りっちゃんが元気になったならよかった」
恵吾が白い歯を見せて笑い、自席へ戻っていく。
僕は教科書を整え、机の中へしまおうとした。その時、奥でコツンと何かが当たる感触があった。
違和感を覚え、一度入れかけた教科書を取り出す。六時限分の教科書は、五本の指を虐めるように重い。
机の奥を覗くと、紙の束のようなものが見えた。
ゴミ、ではない気がした。けれど、ラブレターの束でもなさそうだ。
もしこんな僕にラブレターを寄越す子がいるなら、どんなに幸せだろう。恵吾みたいに顔が良ければ、少しくらい希望も持てたのかもしれないが、生憎、僕にはそんな要素はない。
手を伸ばし、それを取り出してみる。
手のひらサイズの紙束だった。表紙のないメモ帳のようにも見える。
辞典ほどの厚みはあるのに、思ったより軽い。
ところどころにシミや日焼けが滲んでいて、ぱっと見ではただの古紙にも見えた。
けれど、なぜかゴミだとは思えなかった。
妙に軽いその束を、僕は興味本位で軽く振ってみた。
コロコロ、と中で何かが転がる音がした。
その時になって、これはメモ帳ではなく箱なのだと気づく。
珍しく、その箱に興味が湧いた。
普段の僕なら、こんな得体の知れないものには触れない。けれど、その時はどうしても中身が気になった。
開け方を探し、壊さないよう慎重に引っ張ってみる。
紙を何層にも重ねて作られているらしく、開封口は見当たらない。どこまでが表紙で、どこからが継ぎ目なのかも分からなかった。
メリッ、と鈍い音が鳴る。
どうやら少し破れたらしい。けれど、この箱は最初から「どこからでも開けていい」と言わんばかりの作りをしていた。
開いた隙間の奥に、小さな空洞が見える。
中をくり抜いたというより、最初からそこだけ空間を作っていたようだった。
さらに開くと、紙の内側に文字が並んでいるのが見えた。
紙束の四隅を糊で固めているだけらしく、めくると一枚ずつ剥がれる仕組みになっている。
一部は黒く焦げていた。燃えた跡なのかもしれない。
その空洞の中には、丸い茶色の輪が収められていた。
木でできた指輪——だろうか。
さっき聞こえた音の正体は、これだったらしい。
紙には、メモのように単語が並んでいた。
契り。
九十九沢。
矢櫃川。
神木。
一枚ずつめくるたび、出てくるのは地名と単語ばかりだった。
「……え?」
不意に、手が止まる。
『國井 帷』
その文字を見た瞬間、背筋に氷を差し込まれたような冷たさが走った。
「なんで、僕の名前が……」
ふと、視線を感じる。
顔を上げる。けれど誰とも目は合わない。
いつもと変わらない、騒がしい朝の教室だった。
朱に染まった木々が風に揺れている。その下で、僕は知らない誰かと言葉を交わしていた。
古民家の縁側では老人たちが集まり、笑い合いながら何かを食べている。
くちゃくちゃ、と湿った咀嚼音だけが妙に生々しい。それは菓子でも果物でもないように思えた。
奥の部屋では、赤子を抱いた女が静かに歌を口ずさんでいる。その足元を、子どもたちが無邪気に駆け回っていた。
どこか懐かしいようでいて、まったく知らない世界だった。
歌声もまた、不思議だった。耳にしたことなどないはずなのに、なぜか胸の奥をかすかに揺さぶる。けれど、ときおり雑音が混じって、うまく聞き取れない。
そこでようやく気づく。
ああ、これは夢だ。
そう理解するまで、その場所はあまりにも穏やかで、平和で——異質だった。
老人たちの笑い声。子どものはしゃぐ声。赤子の泣き声。そして、聞き取れない歌声。
それらが幾重にも反響し、頭の中で混ざり合う。
気が狂いそうなほど響き続けた次の瞬間、鋭い痛みが頭を貫いた。
はっと目を覚ます。
怖い夢ではなかったはずなのに、じんわりと冷たい汗が背中を伝っていた。
「あ……学校、行かなきゃ」
ぼんやりした頭のまま呟く。
窓の外では、雀が忙しなく朝を告げていた。現実に引き戻されるように、僕は慌てて支度を始めた。
***
「りっちゃんおはよ」
心配している様子と気を使わないようにと明るく振舞いながら恵吾が席に着くなり近寄ってきた。
「おはよう、心配かけてごめん」
「いいんだよ!体調不良は仕方なし!もしかしたら、あそこに行ったのが原因かもだし」
「出た、オカルト思考」
「ノーノー!これは怪談だね」
「違いが僕にはわからないな」
恵吾が「あはは」と笑う。
「とりあえず、りっちゃんが元気になったならよかった」
恵吾が白い歯を見せて笑い、自席へ戻っていく。
僕は教科書を整え、机の中へしまおうとした。その時、奥でコツンと何かが当たる感触があった。
違和感を覚え、一度入れかけた教科書を取り出す。六時限分の教科書は、五本の指を虐めるように重い。
机の奥を覗くと、紙の束のようなものが見えた。
ゴミ、ではない気がした。けれど、ラブレターの束でもなさそうだ。
もしこんな僕にラブレターを寄越す子がいるなら、どんなに幸せだろう。恵吾みたいに顔が良ければ、少しくらい希望も持てたのかもしれないが、生憎、僕にはそんな要素はない。
手を伸ばし、それを取り出してみる。
手のひらサイズの紙束だった。表紙のないメモ帳のようにも見える。
辞典ほどの厚みはあるのに、思ったより軽い。
ところどころにシミや日焼けが滲んでいて、ぱっと見ではただの古紙にも見えた。
けれど、なぜかゴミだとは思えなかった。
妙に軽いその束を、僕は興味本位で軽く振ってみた。
コロコロ、と中で何かが転がる音がした。
その時になって、これはメモ帳ではなく箱なのだと気づく。
珍しく、その箱に興味が湧いた。
普段の僕なら、こんな得体の知れないものには触れない。けれど、その時はどうしても中身が気になった。
開け方を探し、壊さないよう慎重に引っ張ってみる。
紙を何層にも重ねて作られているらしく、開封口は見当たらない。どこまでが表紙で、どこからが継ぎ目なのかも分からなかった。
メリッ、と鈍い音が鳴る。
どうやら少し破れたらしい。けれど、この箱は最初から「どこからでも開けていい」と言わんばかりの作りをしていた。
開いた隙間の奥に、小さな空洞が見える。
中をくり抜いたというより、最初からそこだけ空間を作っていたようだった。
さらに開くと、紙の内側に文字が並んでいるのが見えた。
紙束の四隅を糊で固めているだけらしく、めくると一枚ずつ剥がれる仕組みになっている。
一部は黒く焦げていた。燃えた跡なのかもしれない。
その空洞の中には、丸い茶色の輪が収められていた。
木でできた指輪——だろうか。
さっき聞こえた音の正体は、これだったらしい。
紙には、メモのように単語が並んでいた。
契り。
九十九沢。
矢櫃川。
神木。
一枚ずつめくるたび、出てくるのは地名と単語ばかりだった。
「……え?」
不意に、手が止まる。
『國井 帷』
その文字を見た瞬間、背筋に氷を差し込まれたような冷たさが走った。
「なんで、僕の名前が……」
ふと、視線を感じる。
顔を上げる。けれど誰とも目は合わない。
いつもと変わらない、騒がしい朝の教室だった。


