胃の奥に鈍い重みを覚え、僕は箸を止めた。
特段親しいわけでもない同級生の倉守と、こうして向かい合って昼食をとることになってしまったのだから、気が重い。
母親に半ば押し付けられたようなものだ。食事もせずに帰宅したと知れたら、あとで面倒な小言をしばらく聞かされるに違いない。
それを避けるには、近くのファミレスで適当に食事を済ませて帰るのが無難だった。
けれど今となっては、母親の小言を大人しく聞いていたほうがまだマシだったのではないか、という後悔がじわりと滲む。
倉守の笑顔は、ぞっとするほど真っ直ぐに、僕へ向けられている。
「悪いな、付き合わせて」
そう言ってメニューブックを差し出すと、倉守は軽く礼を述べ、ぱらぱらとページを繰った。
グラスの中で氷がかすかに鳴り、ゆるやかに水へと変わっていく。その様子を目の端で追いながら、僕は料理の名をなぞる。
小洒落た名前の並ぶメニューには写真が添えられている。どれも美味そうに見えるはずなのに、不思議と食指は動かなかった。
「俺は、飲み物だけでいいかな」
倉守はそう言って、テーブル脇に置かれているタブレットに手を伸ばした。
一台しかないそれを覗き込みながら注文を決めるほど、僕たちは近しい間柄ではない。
だからこそ、こうしてメニューブックが用意されていることに、わずかな安堵を覚える。
「遠慮しなくていいよ。僕が母さんに怒られるから」
「そう? じゃあ、一緒のを頼もうかな」
変わらぬ笑みのまま、倉守は僕を見た。
どうしてわざわざ味覚を共有しなければならないのか。いっそ、とびきり辛いものでも頼んでやろうか。
そんな意地の悪い考えを胸に、僕は「激辛スープパスタ」と書かれた項目を指でなぞった。
〈挑戦者求ム!〉とあるのだから、相当な辛さに違いない。
倉守の、どこか作り物めいた笑顔を、ほんの少しでも崩してやりたい。
ただそれだけの、浅はかな動機だった。
辛いものは嫌いではない。むしろ得意なほうだ。
だからこそ、辛さを最大まで引き上げられるこの一品を選ぶ。
にこやかなままの倉守は、料理に振られた番号を迷いなく押し、数量を二にして送信した。
後戻りのきかない状況に、わずかな後悔が胸の底に浮かんだ。
料理が運ばれてくるまで、少し間がある。
店内には、ランチを楽しむ女性客や、昼休憩らしき会社員の姿がまばらに席を埋めていた。
どの席も、騒がしいというほどではないが、穏やかなざわめきを保っている。
それに対して、この席だけが重たい沈黙に沈んでいた。
「傷のほうはどうなの?」
気まずさに押されるように、僕は倉守へ言葉を向ける。
口にした瞬間、話題を誤ったと悟ったが、もう引き返せない。
「ああ、大丈夫。深くないし。跡は残るかもしれないけど」
整った顔立ちを見れば、肌もきめ細かい。
きっと身体の隅々まで、同じように滑らかなのだろう。
その言葉に、僕はわずかな同情を覚えた。
「災難だったね……」
言い終えるのとほとんど同時に、料理が運ばれてくる。
それは、まるで煮え立つマグマのようだった。骨のついた鶏肉らしき肉が覗いて見える。まるで、燃える火の中で悲鳴を上げているようだ。
店員は、本当に食べるのかとでも言いたげな表情で、それを二つ、テーブルに置く。
大事な品なのだから残すな、そう言外に含ませるかのように、やけに丁寧な手つきだった。
辛いものは得意なほうだが、ここまで露骨に辛さを主張する色と香りには、これまで出会ったことがなかった。
一口運ぶのもためらわれる。
だが、戸惑う僕とは対照的に、倉守は平然とした面持ちでフォークをスープへ沈めていく。
「仕方ないよ。こればっかりは」
その言葉を、僕は傷が残ることへの諦めだと受け取った。
真っ赤なスープをまとったパスタを口にしても、倉守は表情一つ変えない。
それを見て、思ったほど辛くはないのかもしれないと、わずかな安心に背を押され、僕もパスタを口に運んだ。
一瞬で眉間に、一本の線が深く刻まれる。
「かっら……!」
舌先の痛みが尋常ではない。
水を流し込んでも、焼けた舌にはほとんど効き目がなかった。
「倉守……よく……食べられるな……」
声がかすれる。喉の奥まで焼かれているようだった。
「辛いの、平気だから」
涼しい顔のまま、倉守はにこりと笑う。
まるで、僕の企みを見透かしていたかのように。
「僕だって得意だよ。でも、これはさすがにおかしいだろ」
じわりと汗がにじみ、頭皮にまとわりつく。
「そう? まあ、俺、人の食べ物の味はよくわかんないんだよね」
その言い方に、引っかかりを覚える。
「なに? お前、犬の餌でも食べてんの?」
冗談めかして倉守を見る。
「犬の餌は食べない」
「 “は”ってことは、猫とかじゃないだろうな」
微妙にずれた言い回しを拾うように、言葉を重ねる。
「それも違うな」
「それもって……じゃあ、何を食べてるのさ」
あえて濁しているのだと気づき、僕はフォークでスープをかき混ぜる。
冷めかけた表面には、白く浮いた油が広がりはじめていた。
「怪異、とか」
じっとりと舐めるような視線が向けられ、背中に冷たいものが走る。
言葉自体は聞き取れている。
ただ、その現実味のなさに、僕は聞き違いだと決めつけた。
「貝類?」
自分でも苦しいと思いながら、別の意味へとすり替える。
「か・い・い。妖怪とか、化け物とか」
区切るように発音し直し、倉守はわずかに首を傾げた。
最初の言葉を否定するつもりはない、そんな態度だった。
ふざけている。
僕は小さく鼻で笑う。
中二病じみた冗談だ。
だからこそ、あの妙に作り物めいた空気にも説明がつく。
そうやって、僕は倉守という人間を、ひとまず理解したつもりになった。
「倉守って、そういうキャラだったんだ」
どこかで優位に立ったような気分になる。
人間に欠点があるのは当然だ。そう思うと、妙に安心した。
「驚いた?」
こちらの含みには気づかないまま、倉守は淡々とパスタを口へ運ぶ。
やせ我慢には見えない。本当に辛さを苦にしていない様子だった。
そしてある程度、麺が見えなくなるまで食べ終えると、話を続ける。
「まあ、冗談はさておき、面白い話をしてあげるよ」
どこまでが冗談なのか、判然としない。
「俺はね、國井が死ぬほど嫌いなんだ」
その瞬間、視線が鋭く僕を射抜いた。
混じりけのない憎悪だった。
恨みも妬みも、すべてが濁ったまま沈殿している。
「呪い殺したいくらいにね」
カチ、と小さな音が鳴る。
フォークが皿に触れただけのはずなのに、やけに響いた。
特段親しいわけでもない同級生の倉守と、こうして向かい合って昼食をとることになってしまったのだから、気が重い。
母親に半ば押し付けられたようなものだ。食事もせずに帰宅したと知れたら、あとで面倒な小言をしばらく聞かされるに違いない。
それを避けるには、近くのファミレスで適当に食事を済ませて帰るのが無難だった。
けれど今となっては、母親の小言を大人しく聞いていたほうがまだマシだったのではないか、という後悔がじわりと滲む。
倉守の笑顔は、ぞっとするほど真っ直ぐに、僕へ向けられている。
「悪いな、付き合わせて」
そう言ってメニューブックを差し出すと、倉守は軽く礼を述べ、ぱらぱらとページを繰った。
グラスの中で氷がかすかに鳴り、ゆるやかに水へと変わっていく。その様子を目の端で追いながら、僕は料理の名をなぞる。
小洒落た名前の並ぶメニューには写真が添えられている。どれも美味そうに見えるはずなのに、不思議と食指は動かなかった。
「俺は、飲み物だけでいいかな」
倉守はそう言って、テーブル脇に置かれているタブレットに手を伸ばした。
一台しかないそれを覗き込みながら注文を決めるほど、僕たちは近しい間柄ではない。
だからこそ、こうしてメニューブックが用意されていることに、わずかな安堵を覚える。
「遠慮しなくていいよ。僕が母さんに怒られるから」
「そう? じゃあ、一緒のを頼もうかな」
変わらぬ笑みのまま、倉守は僕を見た。
どうしてわざわざ味覚を共有しなければならないのか。いっそ、とびきり辛いものでも頼んでやろうか。
そんな意地の悪い考えを胸に、僕は「激辛スープパスタ」と書かれた項目を指でなぞった。
〈挑戦者求ム!〉とあるのだから、相当な辛さに違いない。
倉守の、どこか作り物めいた笑顔を、ほんの少しでも崩してやりたい。
ただそれだけの、浅はかな動機だった。
辛いものは嫌いではない。むしろ得意なほうだ。
だからこそ、辛さを最大まで引き上げられるこの一品を選ぶ。
にこやかなままの倉守は、料理に振られた番号を迷いなく押し、数量を二にして送信した。
後戻りのきかない状況に、わずかな後悔が胸の底に浮かんだ。
料理が運ばれてくるまで、少し間がある。
店内には、ランチを楽しむ女性客や、昼休憩らしき会社員の姿がまばらに席を埋めていた。
どの席も、騒がしいというほどではないが、穏やかなざわめきを保っている。
それに対して、この席だけが重たい沈黙に沈んでいた。
「傷のほうはどうなの?」
気まずさに押されるように、僕は倉守へ言葉を向ける。
口にした瞬間、話題を誤ったと悟ったが、もう引き返せない。
「ああ、大丈夫。深くないし。跡は残るかもしれないけど」
整った顔立ちを見れば、肌もきめ細かい。
きっと身体の隅々まで、同じように滑らかなのだろう。
その言葉に、僕はわずかな同情を覚えた。
「災難だったね……」
言い終えるのとほとんど同時に、料理が運ばれてくる。
それは、まるで煮え立つマグマのようだった。骨のついた鶏肉らしき肉が覗いて見える。まるで、燃える火の中で悲鳴を上げているようだ。
店員は、本当に食べるのかとでも言いたげな表情で、それを二つ、テーブルに置く。
大事な品なのだから残すな、そう言外に含ませるかのように、やけに丁寧な手つきだった。
辛いものは得意なほうだが、ここまで露骨に辛さを主張する色と香りには、これまで出会ったことがなかった。
一口運ぶのもためらわれる。
だが、戸惑う僕とは対照的に、倉守は平然とした面持ちでフォークをスープへ沈めていく。
「仕方ないよ。こればっかりは」
その言葉を、僕は傷が残ることへの諦めだと受け取った。
真っ赤なスープをまとったパスタを口にしても、倉守は表情一つ変えない。
それを見て、思ったほど辛くはないのかもしれないと、わずかな安心に背を押され、僕もパスタを口に運んだ。
一瞬で眉間に、一本の線が深く刻まれる。
「かっら……!」
舌先の痛みが尋常ではない。
水を流し込んでも、焼けた舌にはほとんど効き目がなかった。
「倉守……よく……食べられるな……」
声がかすれる。喉の奥まで焼かれているようだった。
「辛いの、平気だから」
涼しい顔のまま、倉守はにこりと笑う。
まるで、僕の企みを見透かしていたかのように。
「僕だって得意だよ。でも、これはさすがにおかしいだろ」
じわりと汗がにじみ、頭皮にまとわりつく。
「そう? まあ、俺、人の食べ物の味はよくわかんないんだよね」
その言い方に、引っかかりを覚える。
「なに? お前、犬の餌でも食べてんの?」
冗談めかして倉守を見る。
「犬の餌は食べない」
「 “は”ってことは、猫とかじゃないだろうな」
微妙にずれた言い回しを拾うように、言葉を重ねる。
「それも違うな」
「それもって……じゃあ、何を食べてるのさ」
あえて濁しているのだと気づき、僕はフォークでスープをかき混ぜる。
冷めかけた表面には、白く浮いた油が広がりはじめていた。
「怪異、とか」
じっとりと舐めるような視線が向けられ、背中に冷たいものが走る。
言葉自体は聞き取れている。
ただ、その現実味のなさに、僕は聞き違いだと決めつけた。
「貝類?」
自分でも苦しいと思いながら、別の意味へとすり替える。
「か・い・い。妖怪とか、化け物とか」
区切るように発音し直し、倉守はわずかに首を傾げた。
最初の言葉を否定するつもりはない、そんな態度だった。
ふざけている。
僕は小さく鼻で笑う。
中二病じみた冗談だ。
だからこそ、あの妙に作り物めいた空気にも説明がつく。
そうやって、僕は倉守という人間を、ひとまず理解したつもりになった。
「倉守って、そういうキャラだったんだ」
どこかで優位に立ったような気分になる。
人間に欠点があるのは当然だ。そう思うと、妙に安心した。
「驚いた?」
こちらの含みには気づかないまま、倉守は淡々とパスタを口へ運ぶ。
やせ我慢には見えない。本当に辛さを苦にしていない様子だった。
そしてある程度、麺が見えなくなるまで食べ終えると、話を続ける。
「まあ、冗談はさておき、面白い話をしてあげるよ」
どこまでが冗談なのか、判然としない。
「俺はね、國井が死ぬほど嫌いなんだ」
その瞬間、視線が鋭く僕を射抜いた。
混じりけのない憎悪だった。
恨みも妬みも、すべてが濁ったまま沈殿している。
「呪い殺したいくらいにね」
カチ、と小さな音が鳴る。
フォークが皿に触れただけのはずなのに、やけに響いた。


