どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

こんなに近い距離で誰かといるなんて、初めてかもしれない。

乗馬経験のない私は、凌越の前に座る形で馬に乗せられていた。

背後から囲われるような距離に、落ち着くはずもない。

夜の道は、街灯がぽつぽつと灯るだけで、あたりは薄暗い。

それがせめてもの救いだと思いながらも、心臓の音はうるさいくらいに鳴り続けていた。

顔もきっと、ひどく赤くなっている。

後ろにいる凌越は、慣れた様子で手綱を操りながら、ゆっくりと馬を進めていた。

おそらく私に合わせて、速度を落としてくれているのだろう。

その気遣いが分かる分だけ、余計に落ち着かない。

会話が途切れると、自分の鼓動ばかりが耳に響いて、どうにかなってしまいそうだった。

「あの……本当にすみません。お疲れなのに」

気づけば、また同じ言葉を口にしていた。

何度目かも分からない謝罪に、背後から大きなため息が落ちる。

「だから問題ないと言っている」

呆れたような声音に、今度は別の意味で心臓が跳ねた。

「すみません。でも、その……」

言葉がうまく続かない。

何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなる。

「またか」

短くそう言ってから、凌越はもう一度、息を吐いた。

「怒っているわけではない。武官の治療で遅くなったのだろう。なら、自宅まで送るくらいは当たり前のことだ」

淡々とした口調で続けられる。

「それに、俺にとっても恩がある」

その言葉に、思わず振り返りそうになるのをこらえた。

「あれは私の仕事ですから……当たり前のことで」

慌てて言葉を返すと、少しの間を置いて、低い声が落ちる。

「なら、これも仕事だ」

わずかに手綱を引く気配がした。

「国民の安全を守るのが、武官の役目だからな」

――国民。

その言葉に、胸の奥が引っかかった。

一瞬、思考が止まる。

私は、ここの国民なのだろうか。

黙り込んだ私に気づいたのか、すぐ後ろから声が落ちてくる。

「どうかしたのか」

「あ、いえ……」

慌てて言葉を探す。

「ただ、その……私は異世界から来た人間なので、国民に入るのかなって思ってしまって」

自分でもつまらないことを言っていると思いながら、無理に笑う。

すると、すぐに小さく息を吐く気配がした。

「この国にいて薬師として働いているのなら、それで十分だろう」

少しだけ間を置いて、続けられる。

「どこで生まれたかなんて、関係ない」

その言葉は、思っていた以上に、まっすぐ胸に落ちてきた。

……嬉しい、と思う。

ここにいていいのだと、許されたような気がした。

「……ありがとうございます」

小さくそう言うと、

「いや」

短い返事だけが返ってくる。

それ以上は何も言われなかったけれど、不思議と、それで十分だった。

やがて見慣れた道に入り、お師匠様の家が見えてくる。

馬を降りたとき、ようやく緊張がほどけて、大きく息をついた。

「送っていただいて、ありがとうございました」

振り返って頭を下げると、

「ああ」

いつも通り、簡潔な返事だけが返ってくる。

けれどその声は、少しだけやわらいでいるように感じた。

そのまま家に入ると、師匠が待っていた。

「遅かったねぇ」

そう言いながら、ちらりと凌越を見る。

「あら、越じゃないか。送ってくれたのかい、助かるよ」

気軽な調子で声をかけながら、なぜか楽しそうに私の方を見る。

……嫌な予感がする。

「姫香、いくつに見える?」

やっぱり。

「お師匠様……その、私の年齢当て、面白くないですから」

止める間もなく、会話が進む。

凌越は一瞬だけこちらを見てから、あっさりと答えた。

「十八、くらいかと」

――さすがに、それはない。

思わず顔をしかめる。

この世界の人たちは、同じアジア系の顔立ちでも、少し彫りが深い。

その中にいると、自分の顔立ちが幼く見えるのは分かっているし、身長も低い。

けれど――それにしてもだ。

「残念でした。もう27だよ」

師匠が楽しそうに言う。

「え」

さすがに意外だったのか、凌越がわずかに言葉を詰まらせ、こちらを見る。

私は思わず苦笑いを浮かべた。

「たしか、越は25だったか」

師匠がさらっと付け加える。

思わず目を瞬く。

――年下。

落ち着いた雰囲気だったから、同じくらいか、少し上だと思っていた。

「そうですか」

凌越は短く答え、それ以上は何も言わなかった。

まあ、今後そこまで関わることもないだろうし、年齢が分かったところで関係ない話だ。

……そう思ったはずなのに。

胸の奥に、ほんの少しだけ引っかかるものが残る。

「じゃあ、気をつけて帰りな」

師匠の声に、凌越は軽く頷いた。

「ええ、では」

短くそう言って馬に乗り、そのまま去っていく。

その背中を、なんとなく見送る。

私は、彼にほんの少し好意が芽生えていたことに気づいてしまった。

……仕方がないと思う。

好みの男性に少し優しくされたら、恋愛経験がほとんどない私が意識してしまうのも無理はない。

思うだけなら、自由だよね。