ほとんど、自分のものがなくなった部屋を、私はしみじみと見つめていた。
3年間暮らした部屋。
最初は、本当に何も分からなかった。
言葉も、常識も、生活も。
どうすればいいのか分からなくて、不安で、それでも毎日必死だった。
けれど、気づけば、この部屋が当たり前になっていた。
1年前までは、きっとずっとここで暮らしていくんだと思っていたから。
まさか、自分が結婚して、この家を出るなんて思ってもみなかった。
視線をゆっくり巡らせる。
明日から、ここに自分がいない。
そう考えると、なんだか不思議な感覚になる。
「姫香、お茶いれたよ」
階下から、お師匠様の声が聞こえてきた。
「はい、今行きます」
返事をしてから、私はゆっくり部屋の扉を閉める。
階段を下りて居間へ向かうと、卓の上には湯気の立つお茶が用意されていた。
「ありがとうございます」
向かいへ座ると、お師匠様が湯呑みに口をつけながら、ぽつりと呟く。
「案外、あっという間だったね」
「はい。こっちに来た時は、どうしたらいいのか分からなくて、本当に大変でしたけど」
「あぁ。慣れない環境で、よく頑張ったと思うよ」
優しい笑みを浮かべながら、私を見る。
「全部、お師匠様のおかげですから。拾ってくれなかったら、私、多分その辺で路頭に迷ってましたし」
そう言うと、お師匠様は少し照れ臭そうに笑った。
「私も弟子を見つけられたから、お互い様だよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
私は小さく息を吸ってから、姿勢を正した。
「あの、本当に、お世話になりました」
そう言って頭を下げる。
「越と、上手くやっていくんだよ」
「はい」
返事をした瞬間、涙がこみ上げそうになる。
そんな私を見て、お師匠様は苦笑した。
「また来週から、ビシビシ指導していくからね」
「あ、はい……頑張ります」
思わず涙を引っ込めながら返事をすると、
「それに、ここに泊まることもあるだろうからね」
「えっ?」
私が首を傾げると、お師匠様はお茶を飲みながら続けた。
「越に頼まれたんだよ。家を長く空けることがあれば、ここにお前を泊めてほしいってさ」
「えっと……私って、そんなに頼りないですか」
心配してくれるのは嬉しいけど、これでも越さんより年上なのに。
すると、お師匠様は小さく笑った。
「相変わらず、過保護だとは思うけどね。それだけ大切なんだろう」
その言葉に、少しだけ顔が熱くなる。
それから、お師匠様は少し真面目な表情になった。
「ただ、少しの迷いが命に直結する仕事だから、まぁ、汲んでおあげ」
「……はい。じゃあ、泊まる時はまたあの部屋使わせてもらいますね」
「あぁ、いつでも使っていいよ」
お師匠様は穏やかに頷いた。
それから、少しだけ間を空ける。
「今の姫香を見たら、あんたの家族もきっと喜んでくれる。いつまでも後ろめたさを抱えるのは、もうおやめ」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
時々、お師匠様は、自分でも気づかないふりをしていた気持ちを、あっさり言い当ててしまう。
「はい……でも」
「分かってるさ。それでも、どうしようもない時はある」
お師匠様は優しく笑った。
「そういう時は、越でも、私でもいい。ちゃんと話すんだよ」
その言葉で、張っていたものが少しだけ緩んでしまった。
気づけば、ぽろりと涙が零れていた。
「うぅ……」
慌てて拭おうとするけれど、次から次へと溢れてくる。
しばらくして、お師匠様が私の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「ほら、もう泣き止んどくれ。明日、赤い目をしてたら、越の過保護がもっと酷くなるからね」
冗談っぽい口調に、思わず少し笑ってしまう。
「それは……ありそうです」
「だろう?」
お師匠様も楽しそうに笑ってから、続けた。
「明日は結婚式だからね。朝から忙しいよ。お風呂に入って、今日は早めに寝たほうがいい」
「はい、そうします」
そう返事をしたものの、結婚式と、明日から始まる新しい生活に――。
色々考えてしまいそうで、とてもすぐには寝られそうにないなぁと思う。
――――――――――――
結婚式の支度が終わり、身支度を手伝ってくれていた人たちが部屋から出て行く。
一人になった私は、鏡の前で自分の顔をじっと見つめていた。
丁寧に化粧を施された顔は、いつもの自分とは少し違って見える。
……なんというか、我ながら少しだけ綺麗に見えるかも。
そんなことを思って、思わず鏡を凝視してしまう。
越さんも、少しは綺麗だと思ってくれるかなぁ。
そこまで考えてから、私は小さく苦笑した。
……いや、越さんって、絶対そういうこと思わなそう。
それから、鏡の前に置いてあった守り布を手に取る。
改めて見てみると、やっぱり刺繍の縫い目は少し荒い。
……うぅ、不器用だなぁ、私。
まぁ、今回は申し訳ないけど、これで我慢してもらおう。
また今度、新しいのを作ればいいし。
そんなことを考えていると、部屋の扉が控えめにノックされた。
「はい」
返事をすると、越さんが部屋へ入ってくる。
私の姿を見たまま、越さんはなぜか黙ってしまった。
「えっと……あの?」
声をかけると、越さんは少し間を置いてから、落ち着いた声で言った。
「いや、そろそろ時間だ」
「あ、はい。……あ、そうだ、これ」
私は慌てて守り布を持ち上げる。
「なんというか、全然上手く作れなくて。でも、せっかく作ったので」
少し不格好な守り布を見せると、越さんは私の手からそれを受け取り、柔らかな笑みを浮かべた。
「大切にする」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
やっぱりだ。
越さんって、優しすぎる。
しかも、器用で、強くて、格好良くて。
改めて、私にはもったいない人だと思ってしまう。
……今でも、少し不思議だった。
一体、私の何が良かったんだろう。
結婚式前の、ふわふわした気持ちのまま。
ずっと恥ずかしくて聞けなかったことを、私はつい口にしてしまう。
「ひとつ、聞いてもいいですか。……その、今更なんですけど」
越さんは少し首を傾げながらも、
「あぁ」
と短く返してくれる。
「その……なんで、私なのかなって。ずっと思ってたというか……」
言った途端、自分でも恥ずかしくなってきて、顔が熱くなる。
越さんはそんな私の顔を見つめてから、小さくため息をついた。
「本当に、今更だな」
少し困ったように苦笑してから、ぽつりと呟く。
「よく、分からない」
その言葉を聞いて、なんとなく、越さんらしいなと思ってしまった。
「いいです。そんなものですよね。変なこと聞いてすみません」
慌ててそう言うと、越さんは首を横に振った。
「ただ、姫香以外には目が向かなかった。それだけでは、だめか」
その瞬間、顔が一気に熱くなる。
……何、その、殺し文句みたいなの。
真っ赤になっている私を見ながら、越さんは少し目を細めていた。
「だめ……ではないです」
なんとかそれだけ返す。
すると越さんは、ぽつりと続けた。
「それに、とても綺麗だ」
今、ここで、それを言うの。
一気に恥ずかしくなってしまい、私は視線を逸らしながら呟く。
「あ……ありがとうございます。……もう、褒めなくていいので」
そんな私の様子に、越さんは小さく笑みを漏らした。
「では、行くか」
そう言って、私へ手を差し出してくれる。
「はい、よろしくお願いします」
差し出された手を、私はそっと握り返した。
「こちらこそ、よろしく頼む」
いつもの手の温かさに、ホッとする。
――あぁ、やっぱり、越さんの傍にいたい。
新しく始まる毎日を思いながら、私は小さく笑った。
※これにて本編完結です。
3年間暮らした部屋。
最初は、本当に何も分からなかった。
言葉も、常識も、生活も。
どうすればいいのか分からなくて、不安で、それでも毎日必死だった。
けれど、気づけば、この部屋が当たり前になっていた。
1年前までは、きっとずっとここで暮らしていくんだと思っていたから。
まさか、自分が結婚して、この家を出るなんて思ってもみなかった。
視線をゆっくり巡らせる。
明日から、ここに自分がいない。
そう考えると、なんだか不思議な感覚になる。
「姫香、お茶いれたよ」
階下から、お師匠様の声が聞こえてきた。
「はい、今行きます」
返事をしてから、私はゆっくり部屋の扉を閉める。
階段を下りて居間へ向かうと、卓の上には湯気の立つお茶が用意されていた。
「ありがとうございます」
向かいへ座ると、お師匠様が湯呑みに口をつけながら、ぽつりと呟く。
「案外、あっという間だったね」
「はい。こっちに来た時は、どうしたらいいのか分からなくて、本当に大変でしたけど」
「あぁ。慣れない環境で、よく頑張ったと思うよ」
優しい笑みを浮かべながら、私を見る。
「全部、お師匠様のおかげですから。拾ってくれなかったら、私、多分その辺で路頭に迷ってましたし」
そう言うと、お師匠様は少し照れ臭そうに笑った。
「私も弟子を見つけられたから、お互い様だよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
私は小さく息を吸ってから、姿勢を正した。
「あの、本当に、お世話になりました」
そう言って頭を下げる。
「越と、上手くやっていくんだよ」
「はい」
返事をした瞬間、涙がこみ上げそうになる。
そんな私を見て、お師匠様は苦笑した。
「また来週から、ビシビシ指導していくからね」
「あ、はい……頑張ります」
思わず涙を引っ込めながら返事をすると、
「それに、ここに泊まることもあるだろうからね」
「えっ?」
私が首を傾げると、お師匠様はお茶を飲みながら続けた。
「越に頼まれたんだよ。家を長く空けることがあれば、ここにお前を泊めてほしいってさ」
「えっと……私って、そんなに頼りないですか」
心配してくれるのは嬉しいけど、これでも越さんより年上なのに。
すると、お師匠様は小さく笑った。
「相変わらず、過保護だとは思うけどね。それだけ大切なんだろう」
その言葉に、少しだけ顔が熱くなる。
それから、お師匠様は少し真面目な表情になった。
「ただ、少しの迷いが命に直結する仕事だから、まぁ、汲んでおあげ」
「……はい。じゃあ、泊まる時はまたあの部屋使わせてもらいますね」
「あぁ、いつでも使っていいよ」
お師匠様は穏やかに頷いた。
それから、少しだけ間を空ける。
「今の姫香を見たら、あんたの家族もきっと喜んでくれる。いつまでも後ろめたさを抱えるのは、もうおやめ」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
時々、お師匠様は、自分でも気づかないふりをしていた気持ちを、あっさり言い当ててしまう。
「はい……でも」
「分かってるさ。それでも、どうしようもない時はある」
お師匠様は優しく笑った。
「そういう時は、越でも、私でもいい。ちゃんと話すんだよ」
その言葉で、張っていたものが少しだけ緩んでしまった。
気づけば、ぽろりと涙が零れていた。
「うぅ……」
慌てて拭おうとするけれど、次から次へと溢れてくる。
しばらくして、お師匠様が私の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「ほら、もう泣き止んどくれ。明日、赤い目をしてたら、越の過保護がもっと酷くなるからね」
冗談っぽい口調に、思わず少し笑ってしまう。
「それは……ありそうです」
「だろう?」
お師匠様も楽しそうに笑ってから、続けた。
「明日は結婚式だからね。朝から忙しいよ。お風呂に入って、今日は早めに寝たほうがいい」
「はい、そうします」
そう返事をしたものの、結婚式と、明日から始まる新しい生活に――。
色々考えてしまいそうで、とてもすぐには寝られそうにないなぁと思う。
――――――――――――
結婚式の支度が終わり、身支度を手伝ってくれていた人たちが部屋から出て行く。
一人になった私は、鏡の前で自分の顔をじっと見つめていた。
丁寧に化粧を施された顔は、いつもの自分とは少し違って見える。
……なんというか、我ながら少しだけ綺麗に見えるかも。
そんなことを思って、思わず鏡を凝視してしまう。
越さんも、少しは綺麗だと思ってくれるかなぁ。
そこまで考えてから、私は小さく苦笑した。
……いや、越さんって、絶対そういうこと思わなそう。
それから、鏡の前に置いてあった守り布を手に取る。
改めて見てみると、やっぱり刺繍の縫い目は少し荒い。
……うぅ、不器用だなぁ、私。
まぁ、今回は申し訳ないけど、これで我慢してもらおう。
また今度、新しいのを作ればいいし。
そんなことを考えていると、部屋の扉が控えめにノックされた。
「はい」
返事をすると、越さんが部屋へ入ってくる。
私の姿を見たまま、越さんはなぜか黙ってしまった。
「えっと……あの?」
声をかけると、越さんは少し間を置いてから、落ち着いた声で言った。
「いや、そろそろ時間だ」
「あ、はい。……あ、そうだ、これ」
私は慌てて守り布を持ち上げる。
「なんというか、全然上手く作れなくて。でも、せっかく作ったので」
少し不格好な守り布を見せると、越さんは私の手からそれを受け取り、柔らかな笑みを浮かべた。
「大切にする」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
やっぱりだ。
越さんって、優しすぎる。
しかも、器用で、強くて、格好良くて。
改めて、私にはもったいない人だと思ってしまう。
……今でも、少し不思議だった。
一体、私の何が良かったんだろう。
結婚式前の、ふわふわした気持ちのまま。
ずっと恥ずかしくて聞けなかったことを、私はつい口にしてしまう。
「ひとつ、聞いてもいいですか。……その、今更なんですけど」
越さんは少し首を傾げながらも、
「あぁ」
と短く返してくれる。
「その……なんで、私なのかなって。ずっと思ってたというか……」
言った途端、自分でも恥ずかしくなってきて、顔が熱くなる。
越さんはそんな私の顔を見つめてから、小さくため息をついた。
「本当に、今更だな」
少し困ったように苦笑してから、ぽつりと呟く。
「よく、分からない」
その言葉を聞いて、なんとなく、越さんらしいなと思ってしまった。
「いいです。そんなものですよね。変なこと聞いてすみません」
慌ててそう言うと、越さんは首を横に振った。
「ただ、姫香以外には目が向かなかった。それだけでは、だめか」
その瞬間、顔が一気に熱くなる。
……何、その、殺し文句みたいなの。
真っ赤になっている私を見ながら、越さんは少し目を細めていた。
「だめ……ではないです」
なんとかそれだけ返す。
すると越さんは、ぽつりと続けた。
「それに、とても綺麗だ」
今、ここで、それを言うの。
一気に恥ずかしくなってしまい、私は視線を逸らしながら呟く。
「あ……ありがとうございます。……もう、褒めなくていいので」
そんな私の様子に、越さんは小さく笑みを漏らした。
「では、行くか」
そう言って、私へ手を差し出してくれる。
「はい、よろしくお願いします」
差し出された手を、私はそっと握り返した。
「こちらこそ、よろしく頼む」
いつもの手の温かさに、ホッとする。
――あぁ、やっぱり、越さんの傍にいたい。
新しく始まる毎日を思いながら、私は小さく笑った。
※これにて本編完結です。


