どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

昼過ぎ、越さんの家を訪れると、部屋の中にはすでに昼食の準備がされていた。

「すごい……」

思わず声が漏れる。

この前会った時、たまには俺が作ると言ってくれて、ずっと楽しみにしていた。

机の上には、湯気の立つ野菜炒めと卵のスープ、それに炊き立てのご飯。

どちらも、すごくいい匂いがする。

「大したものじゃない」

越さんはいつも通りの調子で言うけれど、これ、絶対に美味しいやつだ。

「いただきます」

箸を伸ばして、一口食べる。

「……美味しい」

思わず、ぽつりと声が漏れた。

越さんって器用だから、料理も出来るんだろうなとは思っていたけど、これは完全に予想を超えていた。料理屋さんレベルだと思う。

野菜の火の通し方も絶妙だし、味付けもすごくちょうどいい。

「それは良かった」

越さんが、ほんの少しだけ表情をやわらげる。

「この野菜炒め、味付けって何入れてるんですか?」

気になって聞くと、越さんは使った調味料を淡々と教えてくれた。

私は思わず目を丸くする。

「それだけですか?」

「あぁ」

「じゃあ、味付けが上手なんですね。私のより絶対美味しい」

本当に、ご飯がどんどん進む。

すると越さんは小さく首を振った。

「ただ炒めただけだ。姫香の料理の方が美味しい」

「その……ありがとうございます。でも、本当に美味しくて」

少し迷ってから続ける。

「今度、作ってるところ見てもいいですか?」

「構わないが、本当に大したことはしていない」

「それでも、見せて欲しいなって」

そう言うと、越さんは「わかった」と小さく口元を緩めた。

食事を続けながら、ふと思い出したことを口にする。

「そうだ、越さん」

「なんだ」

「もし良ければ、他のお部屋も見せてもらっても大丈夫ですか?」

その瞬間、越さんの動きがぴたりと止まった。

数秒してから、

「……そういえば、案内してなかったな。すまない」

と、小さくため息をつく。

「いいんです。私も何も考えてなかったので」

慌てて首を振りながら苦笑する。

「この間、静華さんに言われて。洋服とか小物とか、色々入れる場所を見ておいた方がいいって」

「あぁ」

越さんは納得したように頷いた。

「食事が済んだら、一通り案内する」

「はい」

返事をしながら、なんだか少し不思議な気持ちになる。

こういう話をしていると、本当にこれからここに住むんだなって、少しずつ実感が湧いてくる。

それに、越さんといると、胸の奥でザワザワしていたものが、少しずつ落ち着いていく気がした。

――――――――――――

1階は居間や台所だけじゃなく、玄関から見える範囲だけでも、なんとなく間取りが分かっていたので、簡単に見せてもらった。

そのまま階段を上がり、一度も来たことがなかった2階へ案内される。

「こっちは物置として使っている」

階段を上がってすぐの部屋を開けながら、越さんが淡々と説明する。

「やっぱり、部屋数、多いですね……」

日本の一般家庭の一軒家より、明らかに広い。

しかも、どこもきちんと掃除されていた。

「というか、越さん。これ、掃除ってどうしてるんですか? 前から思ってたんですけど、どこも綺麗ですごいなって」

「週3回、手伝いを頼んでいる。仕事で不在の時にだが」

「あ、そうなんですね……。ちょっと安心しました。ここ、広くて……私、掃除って苦手で」

少し苦笑いしながら白状する。

「それなら良かった」

越さんは特に気にした様子もなく言った。

「必要なら、手伝いを増やして食事も作ってもらうことはできるが」

「それは大丈夫です」

私は慌てて首を振る。

「その、家にいる時に手伝いの人がいると、ちょっと落ち着かないというか……。毎日ちゃんとしたものは作れないかもしれませんけど」

「食べられれば何でもいい。それに、夕食は姫香に負担をかけるかもしれないが、朝食は作る。朝、起きるのが苦手だと言っていただろう」

「……はい。かなり。ギリギリまで寝ていたいというか……。でも、いいんですか?」

「元々、鍛錬で早く起きているし、今も自分の朝食は作っている。得意な方がやればいい」

なんだろう。

越さんって、本当に何でもできる。

もはや、妻、いらなくない?

こうなってくると、本当になんで私と結婚しようと思ったのか、ますます分からなくなってくる。

……いや、普通、美人な奥さんとか欲しくならないんだろうか。

「姫香?」

「あ、なんでもないです。あの、この部屋は?」

慌ててネガティブな思考を振り払って、私は越さんが開けてくれた部屋へ視線を向けた。

そこには、上品な木目の鏡台と、大きめの箪笥が置かれていた。

「ここは?」

「あぁ、姫香の部屋にと思って。あれは、母が使っていたものだ」

「お母さんの?」

思わず目を丸くする。

「そんな大事なもの、私が使っていいんですか?」

「あぁ、姫香が良ければ。かなり古いものだから、新しいものを買っても構わないが」

私はすぐに首を横に振った。

それから、そっと鏡台へ触れる。

滑らかな木肌は、長い年月使われてきたはずなのに、きちんと手入れされているのが分かった。

箪笥も丈夫そうで、細かな細工が綺麗だ。

「これがいいです」

自然と、そう言っていた。

「すごく気に入りました……それに、使わせてもらえるの、嬉しいので」

越さんが少しだけ目を細める。

「そうか」

その穏やかな表情に、胸の奥がじんわり温かくなる。

「他にも必要なものがあれば言ってくれ」

「はい。でも、これくらいで十分です。今の部屋から持ってくるものもありますし」

そう言いながら、次の部屋へ移動する。

そこは越さんの部屋だった。

綺麗に整えられた空間。

大きめの机に、本棚、箪笥、そしてベッド。

装飾は少ないけれど、どこか落ち着く部屋だった。

……越さんらしいな。

そんなことを思いながら、ふと視線がベッドで止まる。

――あれ。

ここにベッドがあるってことは。

寝室は別、ってことだよね。

なんとなく、結婚したら寝室は一緒なのかなと思っていたから、少しホッとしたような――でも、ほんの少しだけ残念なような。

……いや、何考えてるの、私。

自分の思考に動揺して、顔がじわっと熱くなる。

部屋を出たところで、

「どうかしたか」

越さんが不思議そうにこちらを見た。

「う、ううん。あの、その……ベッドも買った方がいいのかなって」

なんとか平静を装いながら言葉を続ける。

「今の私のベッド、客間用のものだから」

「あぁ、ベッドは買ってある」

越さんはさらっと答えた。

「そこの部屋だ」

そう言って、一番奥の扉へ視線を向ける。

「あそこは?」

「寝室だ」

――えっと、それは。

頭が追いつかないまま、越さんは何事もない様子で扉を開ける。

私も慌てて後を追った。

そして、中を見た瞬間、一気に顔が熱くなる。

そこには、大きなダブルベッドが置かれていた。

「大丈夫か?」

覗き込むように顔を見られて、私は慌てて頷く。

「ぜ、全然……その、大丈夫です」

どう考えても大丈夫じゃない返事になってしまった。

越さんはそんな私を見て、何か察したように小さく息を吐く。

「前にも言ったが、急ぐつもりはない。慣れるまで待つ」

ぽん、と優しく頭を撫でられる。

「……それは」

なんて返せばいいのか分からない。

違う。

待ってほしいわけじゃなくて。

越さんは少し安心させるように笑って、

「しばらくは、俺は自分の部屋で寝るから」

と続けた。

……違うの。

私は反射みたいに越さんの袖を掴んで、慌てて首を振った。

「い、一緒でいいです」

勢いで言ってしまってから、顔が一気に熱くなる。

「その……夫婦になるので、ちゃんとしたいというか……」

言った瞬間、自分で何を言っているのか分からなくなった。

ちゃんとって、何。

いや、違う。

変な意味じゃなくて――

「……あの、そういう意味じゃ……いえ、その、そういう意味もあったり、なかったり……」

どんどん声が小さくなっていく。

自分でも意味が分からない。

しばらく沈黙が落ちた。

恐る恐る顔を上げると、越さんが片手で目元を押さえて、小さく息を吐いていた。

「……姫香」

低い声に、心臓が跳ねる。

真っ直ぐ見つめられて、それだけで息が詰まりそうになる。

「あ……の」

言葉を探した瞬間、越さんの顔がゆっくり近づいてくる。

驚いて、思わず目を閉じた。

唇へ、柔らかな感触が落ちる。

胸が苦しくなるくらい心臓が鳴って、頭がぼんやりしてくる。

しばらくして唇が離れると、私は真っ赤になったまま固まっていた。

越さんが小さく息を吐く。

「あまり、無防備でいられても困る」

「そ、そんなつもりじゃ……」

慌てて言い返そうとするけれど、全然うまく言葉にならない。

そんな私の様子に、越さんはふっと笑った。

それから、今度は真面目な顔に戻る。

「少しでも不安があるなら、言ってほしい」

低く、落ち着いた声だった。

「俺は、姫香が傍にいてくれれば、それでいい」

その言葉に、胸の奥がいっぱいになる。

やっぱり、この人は優しすぎる。

優しすぎて、困るくらいに。

だから。

私はそっと越さんの胸元へ額を預けた。

「……嬉しい不安です」

正直に言葉を零す。

「だから……これからも、ちゃんと傍にいたいです」

今度は、きちんと自分の気持ちを伝えられた気がした。