どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

「ここは、これでいいですか?」

「そこは、糸を通す向きが逆ね。こっちから入れるの」

静華さんが隣から手元を覗き込みながら、優しく教えてくれる。

私は針を持ったまま、小さくため息をついた。

「刺繍って、難しいですね……。ボタン付けくらいしか、普段しないので」

「そうねぇ。私は手芸が趣味だから慣れてるけど、普段やらないなら、最初はそんなものよ」

静華さんは楽しそうに笑いながら、自分の守り布へ刺繍を入れていく。

細かな花模様が、するすると布の上へ浮かび上がっていく様子に、つい見惚れてしまう。

それに比べて、私の手元にあるのは――。

「最初は自分用にしておいて良かったです」

私は膝の上に乗せていた守り布もどきを見下ろした。

縫い目は少し曲がっているし、刺繍も微妙に歪んでいる。

どう見ても初心者丸出しだ。

「これは、とても人にはあげられないので……」

思わず遠い目になる。

すると静華さんが、くすっと笑った。

「大丈夫よ。本番用はもう少し上手くなるわ」

「そうだといいんですけど」

私は苦笑しながら、もう一度布へ視線を落とした。

「越さんに渡す分は、少しでも綺麗に作りたいなって」

そう呟くと、静華さんはにこりと笑う。

「越さんなら、姫香ちゃんが作ったものなら何でも喜ぶと思うわよ」

その言葉に、少しだけ顔が熱くなる。

……まぁ、喜ぶかどうかはともかく。

越さんって、こういう時に嫌な顔は絶対しないんだろうな。

「そうでしょうか……」

「私が保証するわ」

なぜか妙に力強く太鼓判を押されてしまい、私はなんとも言えない顔になった。

「はぁ……」

曖昧な返事に、静華さんが楽しそうに笑う。

静華さんの家へ来て、こうやって裁縫を教えてもらうのも、もう何度目だろう。

不思議と静華さんは緊張させない人で、余計にこの時間が楽しい。

それに、これからのことについて色々アドバイスしてくれるし。

その時だった。

「そういえば、越さんの家に何があるかとか、ちゃんと確認してる?」

不意にそう聞かれて、私は顔を上げる。

「いえ、まだです」

「だめよ、そういうのは早めに把握しておかないと」

静華さんは、少し呆れたみたいに肩をすくめた。

「越さん、なんて言ってるの?」

「えっと……元々ご家族で住んでいた家だから、衣服とか私物を持ってくるくらいで大丈夫だって」

「あぁ、なるほど」

静華さんは納得したように頷いた。

「それなら、確かに生活する分には困らないわね」

台所も食器や調理器具が十分に揃っていたから、他も大丈夫なのかな、くらいに思っていた。

「それでも、ちゃんと見ておいた方がいいわよ」

静華さんは続ける。

「箪笥とか鏡台とか、自分の持ち物をどこに置くのか。そういうの、生活し始めてから困ること多いから」

「……あ」

言われて、私は小さく目を瞬かせた。

そういえば。

私、越さんの家って、居間と台所くらいしかきちんと見ていないかも。

でも、家具とか、そういう話は全然していなかった。

「……わかりました」

私は小さく頷いた。

「今度、越さんの家に行った時、ちゃんと見せてもらいます」

「うん、それがいいわ」

静華さんは満足そうに笑う。

「言っておいて良かった。なんだか、貴方たちって少しのんびりだから」

「助かります」

ふと、静華さんが顔を上げて、時計を見る。

「あら、もうこんな時間」

「雪を迎えに行かないと」

「今日もありがとうございました」

私は慌てて立ち上がった。

作りかけの守り布を丁寧に布へ包みながら続ける。

「来週までに、自分用の方、仕上げてきますね」

「えぇ、楽しみにしてるわ」

静華さんは、にこりと笑った。

私は軽く頭を下げてから、静華さんの家を後にした。

帰り道。

これから、少しずつやらなきゃいけないことが増えていきそう。

越さんの傍にいられるのも、結婚できるのもすごく嬉しい。

だけど、なんだろう、少しザワザワして、このままでいたい気もしてしまう。

——これって、マリッジブルーってやつなのかなぁ。